楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

この神社はなかなかのものだ

2022-09-16 10:41:45 | 日記

境内を見回すと、

奥まった場所に、いくつかの末社がありました。

神楽殿がありましたよ、舞台も広いですね。この神楽殿は、弘化四年(一八四七)に建立されたものです。昭和七年(一九三二)まで、本殿として使われていましたが、新しい社殿造営にあたり、現在地に移築しました。昭和五十七年(一九八二)に茅葺きから現在の銅板に葺き替えられました。桁間は、三間(五・五メートル)で、梁間が二間(三・六メートル)の寄棟造りです。正面に四枚立ての引違い戸が入っていますが、かつては、摺り上げ戸であったと思われます。屋根の勾配や全体のバランスが良く、区内に残されている数少ない江戸時代の建造物として代表的なものです。内部は、床面が板張りで、天上は格天井になっています。この格天井には色彩豊かな花鳥画が描かれています。言い伝えによると、この地の名主、山崎家の離れ(茶室書院として現存)に絵師が滞在して花鳥画を仕上げたということです。説明版には、この様に書かれています。

本殿は、このようになっています。それじゃ、お参りして失礼しましょう。

氷川神社のすぐ近くにあるのが、ここ東福寺です。山門をくぐると

境内も相当広いですね。

大きなイチョウの古木があります。

ここ東福寺は、真言宗の豊山派の寺院で金峯山世尊院と号し創建年代は不詳ですが、天正年間(1573-1593)江古田村の村民が開基となり、村内御嶽山に創建したと伝えられ、後年当地へ移転したといいます。江戸時代には3代将軍家光が鷹狩りの際に休息し、8代将軍吉宗は御膳所に指定していました。また当寺の大師堂は、大久保二尊院に奉安されていたもので、二尊院の廃寺に際して当寺に移築、御府内八十八ヶ所霊場2番、豊島八十八ヶ所霊場2番札所となっています。

大師堂の傍には、弘法大師像もあります。

                      つづく

 

 


この先には何があるかなぁ

2022-09-14 11:02:21 | 日記

学校の前に来ました。江原小学校というそうです。

また、少し行くと公園です。江古田川沿いにある園路がレンガ状ブロックで舗装された公園です。本多橋側の広場にあるカラフルな遊具は子どもたちに人気です。また、園内にあるアメリカハナミズキは、1912年(明治45年)に尾崎行雄東京市長が日米友好のために贈ったサクラのお返しとして1915年(大正4年)にアメリカから贈られたアメリカハナミズキの原木の子孫だそうです。

またまた大きな公園に来ましたよ。ここは有名な公園ですね。

旧北江古田公園が区域と名称を変更し、平成19年4月1日に開園した新しい公園です。旧国立療養所中野病院跡地の豊かな既存樹林を生かし、保健福祉施設とも調和した中野区北部の防災公園です。また当地は、1912年、日本からアメリカに贈った桜(ワシントン・ポトマック河畔)の返礼として届けられたアメリカハナミズキがこの地にかつてあった「野方苗圃」に植えられ、苗木として育成、当時の街路樹として植栽されたという歴史の地であります。区の説明によると、この辺りにはアメリカハナミズキが数多く植えられているんですね。

今度は、神社ですよ、高台にある大きな神社です。登って見ます。

古い狛犬の像には、それぞれ子犬が連れ添っています。ここは、中野区の江古田にある江古田氷川神社というそうです。江古田氷川神社は、寛正元年(1460)の創祀と伝えられ、当初牛頭天王社と称していましたが、元禄9年(1696)氷川神社と改称したといい、当地江古田村の鎮守社だったといいます。所蔵の文化財に神楽殿があるんですね。どんな神楽殿なのかな?

                         つづく

 


線路の向こう側へ行って見ます

2022-09-12 11:03:02 | 日記

能満寺のお参りを終えて、今度は線路の向こう側へ行って見ます。

江原屋敷森緑地という緑いっぱいの公園へ来ました。ここは都営大江戸線「新江古田駅」から徒歩5分ほどの場所にある都市計画緑地です。

江戸時代から続く旧家のお庭の一部を整備して作られたそうで、四季折々、様々な姿が楽しめ、のんびりとお散歩するにピッタリです。
緑地内にはベンチも設置されていますので、お茶を飲みながらのんびり出来ます。子供さんを連れての散歩で、遊具で遊びたいときは登ったりくぐったり不思議なお山がある「こぐま公園」がおすすめです。江原屋敷森緑地から徒歩1分ほどなので、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

オヤッ、今度はお寺らしきものがありました。

江原観音堂というそうです。真言宗豊山派の寺院で、珠光山地蔵院と号します。江原観音堂の創建年代等は不詳ながら、観音堂の地に明治11年不動堂が建立され、不動堂は昭和31年再建、平成19年不動堂改修に併せて観音堂を改修したといいます。現在は東福寺別院となっています。また、境内庚申塔は中野区文化財に登録されています。ここにある写真の庚申塔が中野区の文化財なんですね。

また、少し行くとちょっとした広場のような場所に小さな神社が、須賀稲荷神社とありますね。

ここは中野区、須賀稲荷神社は中野区江原町にある神社です。当地近くの江原町3丁目17番地には、古くより牛頭天王と宇迦之御魂神の2祠があったといいます。昭和40年代に入り2祠を合祀、当地へ移転の上、昭和42年に須賀稲荷神社として創立したそうです。東京都の神社名鑑によると、当社は文明九年(一四七七)太田道灌が、石神井・練馬両城を攻め、江古田原において合戦するにあたり、当社を崇敬し戦勝を祈願したといい、昔、江古田相原の衆落の守護神として、武徳優れ悪疫流行を防ぐ神として素盞鳴尊と、五穀豊穣農業繁栄の神として宇迦之御魂命を祀り、原の人びとの崇敬厚き神社で、天正十九年(一五九一)検地のさい、社地六畝七歩除地となり、社殿は明治十三年九月改築したとありました。

説明版によると、

はるか昔から、中野区江原町3丁目17番地(現・こぐま公園のある所)に二つの小さな祠があり、それぞれ牛頭天王(ゴズテンノウ)と宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)が祀られておりました。その祠の西側では清水がこんこんと湧きでて、細い流れをなしていたことから、土地の人々が五穀の豊穣と疫病除けを祈願して祠を祀ったものだと伝えられています。悪疫の流行を防ぐ神として「じゅくじゅく天王様」と庶民から親しまれ、多くの信仰を集めてきました。牛頭天王は悪疫を防ぐ神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一され、また社名の「須賀」とは、天照大神の弟である素戔嗚尊が出雲の国の斐伊川の上流でヤマタノオロチを退治した時に「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と述べ、宮居を創立したという故事にもどつき名づけられた名称です。「宇迦之御魂」は稲魂(イナダマ)の意で、「稲荷」の語源である稲成(イネナリ)、つまり、稲の育つ様を言い表した言葉から来たとされています。江原町は昭和30年代になって、人口増と東京オリンピック開催を契機に道路整備が進捗し、目白通りの交通量が激増し、天王様の境内での祭礼、町の諸行事の開催は危険な為、困惑しておりました。地元有志の努力により現在地に二神を合祀して移転し、昭和42年2月13日に宗教法人須賀稲荷神社を創立、昭和47年1月に諸建物の建設を起工、同年6月25日に神社、社務所(公民館併設)、神楽殿が完成しました。その後江原町公民館運営委員会や町会、若睦が管理運営を行ってきましたが平成17年5月29日「須賀稲荷神社氏子会」が発足され現在に至っています。

                         つづく


今度は、こちらへ来ました

2022-09-10 12:34:19 | 日記

それでは、失礼して次へと向かいます。

日大芸術学部の前を通って、東方向へと向かいます。

大きな山門のお寺へ到着しました。

能満寺というお寺です。西武池袋線の江古田駅より歩くこと8分程。旭丘小学校のすぐそばに夏雪山 能満寺はあります。

能満寺は真言宗豊山派のお寺で、本尊は不動明王です。元和年間(1615~1623年)に、源心僧都によって開基されたと推定され、真言宗は平安時代初期に弘法大師によって、中国からもたらされ日本で開宗されました。教えの中心はマンダラ思想です。世の中にはいろいろな宗教や思想がありますが、よく観察してみると一番底に共通の原点があります。この原点が大日如来という仏さまです。一切の諸尊はそれがお薬師さま、観音さま、お地蔵さま、お不動さまであれ、すべて大日如来の身を変えたお姿(応化身)なのです。

六地蔵も整然と並んでいます。

他にもこんな石仏が並んでいます。

これは二十三夜塔という石碑ですね。

本殿も立派なものでした。

ところで、真言宗豊山派寺院の能満寺は、夏雪山広原院能満寺と号し、僧源心(承応2年1653年没)が、当地に創建したと伝えられます。豊島八十八ヶ所霊場61番札所、板橋七福神の寿老人です。

「当寺縁起」によると、「昔、夏に雪が降って美しい景色の地があると聞いた源心僧都が、武蔵野に来て、村民のために仏教を説き、村民より篤く信望を得た。そこで堂宇を創建し、不動明王を安置して本尊とし、名づけて夏雪山能満寺とした・のち数台を経て火災にあい、庫裡の一部を焼失したが、天明6年(1786)11月、11世克龍がこれを再建し、あわせて大日堂を造営した」とある。明治初期の廃仏毀釈の頃には無住の時代もあり、文書類一切、亡失している。過去帳には宝暦年間(1751-64)から記載されている。墓石は宝永5年(1708)が最も古い。なお参道入口には千川上水が暗渠となる際に当寺に移された通称千川地蔵(延命地蔵)が小さな祠に安置されている。また、明治年間まで本寺があった所在地名(北豊島郡上板橋村字江古田新田)をしのぶことができるものとして、「板橋七福神の寿老人」がまつられている。平成15年(2003)に本堂が建て替えられた。ということでした。

                         つづく


またまた江古田へやって来ました

2022-09-08 11:45:13 | 日記

江古田駅の北口から出かけます。すぐ近くに見えました、浅間神社です。

入口の傍には、こんな大きな立て看板が立っています。入って見ましょう。

ここの江古田浅間神社は、練馬区小竹町にある浅間神社で、創建は不詳ながら、江戸期には富士講の人々に崇敬され、富士山から持ち帰った溶岩で富士塚が作られ、江古田富士と呼ばれていたといいます。江古田富士は、江古田の富士塚として国重要文化財に指定されています。

戸後期には富士浅間社と呼ばれ、能満寺が別当であったそうです。社伝によると、承平元年(931)6月、夏山芽原浅間(当地)に雪が降り、この山がいかにも富士山に似ているので、村人が登ってみると御神体と思われる石を拝したことで富士の大神と崇め奉ってきたのに始まるということです。芽原浅間社とも呼ばれていました。江戸中期になると、盛んになった富士講の上板橋、中新井、下練馬の人々に崇敬され、富士の溶岩を持ち帰って富士塚が造られ、「江古田富士」呼ばれるようになったそうです。

境内にあるのは、「ねりまの名木」とされているケヤキの木です。

ここが富士塚に上る入口ですが、残念ながら上ることは出来ませんでした。調べたところ、

江古田の富士塚は、富士講の一派小竹丸祓講によって天保10年(1839)に築造されたものと考えられますが、一説には文化年間(1804~1818年)築造ともいわれています。高さ約8m、直径約30m、閏東大震災の時に損壊しましたが、その後復旧され、塚全体が富士の熔岩で覆われています。頂上の唐破風屋根のついた石祠は、天保10年に造立されたもので、他に経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑や大天狗・小天狗・神猿などの石像もあり、元治2年(1865)の講碑、大正12年震災時の御神体修築の碑などが建っています。社殿の前には文化4年(1807)の石燈篭や文化9年(1812)の手手鉢なども残っています。都区内の富士塚の中では、大規模な部類に属し、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されました。富士塚は江戸近郊に50余りあったものの、完全な形で残っているのは、当社の富士塚と、小野手照崎神社の下谷坂本富士、豊島区高松富士浅間神社の高松富士、の3基のみで、いずれも国重要無形民俗文化財に指定されているといいます。

本殿に到着しました。お参りに来ている人もいます。

扁額には、このように「茅原浅間」とあります。

                        つづく