川越雑記帳2(川越見て歩き)

26-14 石川源五右衛門の墓

 墓地は南北に長く、お堂の北側は空き地だった。
石川源五右衛門の墓を探して、墓の中へ入った。
 どの家の墓地もきれいに整備されていた。

 「散歩」には、「将棋の盤の上に墓石をのせた格好の一風変わったものだ。」
とあるのを手がかりに、石川家の墓を探した。

 中央の列で南によった所に一ヵ所だけ墓石が傾いたりしているところがあり、その隣りに石川家の墓地があった。
枠の中に並んだ墓石を見たが、将棋盤のような石はなかった。



 隣りの乱雑に並んだ方を見ると、そこにも石川家の墓と書かれた墓石があった。
その隣りの傾いた墓石を見ると、台座の部分に脚が付いていた。



 近づいて見ると、それは将棋盤をかたどっているように思えた。



 台座の上の面を見ると、確かに将棋盤の升目が彫られていた。



 墓石の正面右側には「棊翁博碩居士」、左側には「貞節  大姉」と彫られていた。
左側の戒名は、二文字が削れて読めなかった。

 「慶応二年(1866)川越藩が農兵隊を設置しようとした時、砂久保村はじめ川越南部の村々11ヵ村が反対して立ち上り、江戸赤坂溜池にあった川越藩主の屋敷へ直訴しようとしたところ、白子宿(和光市)で川越藩主に見つかり、連れ戻されて牢に入れられるという事件があった。いわゆる農兵反対一揆である。これによって川越藩は農兵隊設置をあきらめた。石川氏は砂久保村の総代だったが、罪を一身にひき受けてほかの仲間を釈放させた。しかし彼は、藩主松平大和守が前橋へ知行替になったので、その地に移されて幽閉、許されたのは明治元年(1868)のことである。後に訓導になって教鞭をとった。また将棋も得意だった。」



 墓石の側面には、「直訴」の文字が読め、文末には「源五右衛門」の名が書かれていた。
ここには、上記の一揆について書かれていると思われる。

 しかし、源五右衛門の墓が、こんなに荒れているとは思わなかった。
「散歩」には、「現在でも、自分を顧みず闘った石川氏の遺徳を偲んで墓を訪れる人が多い。」
と書かれているので、このような状態は想像も出来なかった。

 川越の歴史を語る上で、貴重な文化財だと思うのだが、このまま放置していいものだろうか。

  埼玉民衆の歴史 農兵新設に反対

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コメント一覧

ムーミンまま
墓の維持管理には経済力がいります。
出来ることなら何とか立て直してあげたい。
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