今、私の個人的なマイブームは、モノの整理です。
きっかけは、ずっと家で過ごしたGWの長い休でした。
キッチンの引き出しや、クローゼット、私の自室など、気になっていながら、
いつも手を出せず、雑然としたまま放置してあったところを思い切って整理したのです。
そして、心も体もかなり軽くなり、気力が出てきました。
整理というのは、その大半が、捨てる決断です。
決断ができてしまえば、後は後ろを振り返らず、あれもこれもどんどん捨てること。
そうして整理してしまうと、モノが溜まっている状態は、心が滞っている状態なのだと分かりました。
溜まっているモノに対して、心の一部分を割いたままにしているようなものなのだなあ、と。
そうして、モノが溜まるとグチャグチャになるように、心も、余計な気遣いや後悔や後ろめたさなどの
負の要素でいっぱいになり、無駄に心を浪費することになるのだと。
ですが、その肝心の「捨てる決断」が大変です。
私はモノの実態に価値を置く、そういう価値観の人間なので、
モノを情報だったり記録だったり(デジタルデータとか、写真とかそういうもの)に置き換えてヨシ
とすることが出来ないのです。
情報や記録ではない、モノそのものが私には重要で意味のあることなのです。
そういう価値観だから、モノを作ることが好きだし得意なのでしょう。
モノに価値や意味を見出したり、与えたりすることが得意なのです。
モノ主義、とでも申しましょうか。
だから、実態のない「モノ」である、情報やバーチャルな世界には、実は私はあまり興味が無いのです。
そんな、「モノ主義」の私なので、捨てる決断には、自分を納得させるだけの理由が要ります。
この「モノ」がここにあることで、自分は何を得て何を失うのかという対話をしながら
モノと向き合う作業になります。
それはモノではなくて、自分と向きあっている作業なのですが、
そんな膨大な自分自身を突きつけられることを繰り返して、捨てることを決めることになります。
それは結構しんどい作業なのですが、その結果、整理されて残ったモノたちは、自分の本質に近いので
整理された後は、自分自身がよりクリアに見えるような気がするのです。
私にとって、「モノ」とは自分自身、分身だったのだと、色々と整理してみて分かりました。
集積された「モノたち」も自分の総体一面だし、一つ一つの「モノ」も自分自身のかけら、部品なのですね。
モノを整理して、たくさん捨てて分かったことは、自分自身がいかにこのモノたちに投影されていたか
自分自身の心を削って、モノを買ったり作ったりする、自分の習性でした。
私は、モノの実態に価値観を置くからこそ、モノに支配されやすい。
モノに支配されやすいから、モノが溜まる。
モノが溜まるから、新たなモノが生まれない。
そんな逆説でした。
モノが好きだから、モノを溜めずにスッキリしておかないと、モノは作れない。
それでは、自分が作ったもの、欲しくなって手に入れたものはどうしたらよいのだろう?
そうして得た結論は、本当に好きなものかどうか考えること、でした。
実際にモノを作ったり、買ったりすることより、考えることが自分にとって意味のあることなのだと。
モノやアイディアを、本当に好きかどうか吟味する。
その考えること自体を楽しもうと思うことでした。
考える、想像する、思考する、事をもっと真剣に、楽しもうと思います。
出来たモノよりも、その過程を大切にしていこう。
そうして身の回りに残ったモノたちを一生大事にしていこう、と思います。
私にとって、これから大事になる「次なるモノ作り」は、「思考と過程」
そしてその先にある「修理と再生」なのかもしれません。
それは、私の人生も、「修理と再生」の段階に入ったということなのかもしれません。
きっかけは、ずっと家で過ごしたGWの長い休でした。
キッチンの引き出しや、クローゼット、私の自室など、気になっていながら、
いつも手を出せず、雑然としたまま放置してあったところを思い切って整理したのです。
そして、心も体もかなり軽くなり、気力が出てきました。
整理というのは、その大半が、捨てる決断です。
決断ができてしまえば、後は後ろを振り返らず、あれもこれもどんどん捨てること。
そうして整理してしまうと、モノが溜まっている状態は、心が滞っている状態なのだと分かりました。
溜まっているモノに対して、心の一部分を割いたままにしているようなものなのだなあ、と。
そうして、モノが溜まるとグチャグチャになるように、心も、余計な気遣いや後悔や後ろめたさなどの
負の要素でいっぱいになり、無駄に心を浪費することになるのだと。
ですが、その肝心の「捨てる決断」が大変です。
私はモノの実態に価値を置く、そういう価値観の人間なので、
モノを情報だったり記録だったり(デジタルデータとか、写真とかそういうもの)に置き換えてヨシ
とすることが出来ないのです。
情報や記録ではない、モノそのものが私には重要で意味のあることなのです。
そういう価値観だから、モノを作ることが好きだし得意なのでしょう。
モノに価値や意味を見出したり、与えたりすることが得意なのです。
モノ主義、とでも申しましょうか。
だから、実態のない「モノ」である、情報やバーチャルな世界には、実は私はあまり興味が無いのです。
そんな、「モノ主義」の私なので、捨てる決断には、自分を納得させるだけの理由が要ります。
この「モノ」がここにあることで、自分は何を得て何を失うのかという対話をしながら
モノと向き合う作業になります。
それはモノではなくて、自分と向きあっている作業なのですが、
そんな膨大な自分自身を突きつけられることを繰り返して、捨てることを決めることになります。
それは結構しんどい作業なのですが、その結果、整理されて残ったモノたちは、自分の本質に近いので
整理された後は、自分自身がよりクリアに見えるような気がするのです。
私にとって、「モノ」とは自分自身、分身だったのだと、色々と整理してみて分かりました。
集積された「モノたち」も自分の総体一面だし、一つ一つの「モノ」も自分自身のかけら、部品なのですね。
モノを整理して、たくさん捨てて分かったことは、自分自身がいかにこのモノたちに投影されていたか
自分自身の心を削って、モノを買ったり作ったりする、自分の習性でした。
私は、モノの実態に価値観を置くからこそ、モノに支配されやすい。
モノに支配されやすいから、モノが溜まる。
モノが溜まるから、新たなモノが生まれない。
そんな逆説でした。
モノが好きだから、モノを溜めずにスッキリしておかないと、モノは作れない。
それでは、自分が作ったもの、欲しくなって手に入れたものはどうしたらよいのだろう?
そうして得た結論は、本当に好きなものかどうか考えること、でした。
実際にモノを作ったり、買ったりすることより、考えることが自分にとって意味のあることなのだと。
モノやアイディアを、本当に好きかどうか吟味する。
その考えること自体を楽しもうと思うことでした。
考える、想像する、思考する、事をもっと真剣に、楽しもうと思います。
出来たモノよりも、その過程を大切にしていこう。
そうして身の回りに残ったモノたちを一生大事にしていこう、と思います。
私にとって、これから大事になる「次なるモノ作り」は、「思考と過程」
そしてその先にある「修理と再生」なのかもしれません。
それは、私の人生も、「修理と再生」の段階に入ったということなのかもしれません。