のんびりと暮していた毎日に、小さな変化が始まりました。
癌の診断を受けました。(まあ、実は今年二度目ですが今回のほうがより深刻らしい)
今の段階では、まだ初期で、大きな痛み不調は特になく
「へ~、そう?」というくらいの平穏さです。
ただ、そうはいっても、やはり病気は病気なので、
病院の選択や入院の準備や、手術をいつ受けるのか、休んでいる間の仕事はどうするのか、
などなど、日常ではないことを考えなければならないようになります。
今年は本当に精神的に高揚している状態が続いていて、いくつかまとまった仕事もこなしましたし
札幌へ行ったり、関西へ行ったり、新しい友人に出会ったり、私にしてはよく動くことが出来ました。
そんな状態の自分を、どこかで別の自分が冷静に見ていて
「この高揚感が長く続くとは思えない、どこかで体のブレーキがかかるだろう」
と思っていました。
今年は元気に動けるなあ、という自覚の出てきた1月ごろから、並行してもしかすると癌かもしれない
という疑いを自分自身で持ち始めていました。
ちょっとした、些細な体の違和感を感じていました。
本当に些細なことだったので、まあ気のせいだろう、と受け流していたのですが
やはり些細なことが気になり続けて、思い切って検査を受けることにしたのが夏でした。
それから、かれこれ2カ月掛かりましたが、やっと感じ続けていた違和感の結論が出た、という感じです。
さあ、これから手術だの治療だの、ということになるのですが
不謹慎なことに、ちょっとワクワクしている自分を感じています。
もちろん体の苦痛はとても苦手だし嫌ですが
初期の難しくない手術とはいえ、まあ生まれてはじめて手術台に上るわけです。
なにがあるかわからないので、そのまま帰ってこられないことになってもいいような
心と環境の準備はしておこうと思ってるのです。
私は自分が生きることに、執着が薄いと思っています。
仕方なく生きているので、どうせ生きているんなら何なしないとね、と思っていろいろなことをしている
と思っています。
せっかく何かするのなら、自分の興味がもてて、自分の好きなこと、好きな人の役に立てることがしたい
と思って活動しています。何かに手を出すのなら、あまり無責任なことはしたくない、と思ってはいますが。
そんな程度にしか「生きたい」と思っていないのですが、もし「もう生きられない」ということを現実に突きつけられてもまだ、自分は執着なくいられるのか、それとも物凄い執着心がわくのか、それを知りたいと思っています。
その時初めて「自分が何者なのか?」がわかるのではないか
自分は本当はどうしたいのか、周りにどうしてほしいのか
自分でもなかなかわからない本当の自分の声が聞けるのだ
と思うと、ちょっとワクワクするのです。
それから、人生の棚卸が出来るなあ、というのも少し楽しいことです。
私の周りにある無駄なもの、無駄なこと、を整理するきっかけがもてた、と思います。
「どうして私はこんなにいろいろなものを持ってるんだ?」とため息が出るほど
たくさんのモノに囲まれて(埋もれて?)暮らしている自覚はあるのに、なかなか整理・捨てることができません。
それはモノだけではないのです。
棚卸をしなさい、と声なき声に指摘されたのだと思います。
そんなわけで、いろいろなことを考えるチャンスをもらったこれからの1~2ヶ月間。
自分の変化をじっくり観察しようと思います。
癌の診断を受けました。(まあ、実は今年二度目ですが今回のほうがより深刻らしい)
今の段階では、まだ初期で、大きな痛み不調は特になく
「へ~、そう?」というくらいの平穏さです。
ただ、そうはいっても、やはり病気は病気なので、
病院の選択や入院の準備や、手術をいつ受けるのか、休んでいる間の仕事はどうするのか、
などなど、日常ではないことを考えなければならないようになります。
今年は本当に精神的に高揚している状態が続いていて、いくつかまとまった仕事もこなしましたし
札幌へ行ったり、関西へ行ったり、新しい友人に出会ったり、私にしてはよく動くことが出来ました。
そんな状態の自分を、どこかで別の自分が冷静に見ていて
「この高揚感が長く続くとは思えない、どこかで体のブレーキがかかるだろう」
と思っていました。
今年は元気に動けるなあ、という自覚の出てきた1月ごろから、並行してもしかすると癌かもしれない
という疑いを自分自身で持ち始めていました。
ちょっとした、些細な体の違和感を感じていました。
本当に些細なことだったので、まあ気のせいだろう、と受け流していたのですが
やはり些細なことが気になり続けて、思い切って検査を受けることにしたのが夏でした。
それから、かれこれ2カ月掛かりましたが、やっと感じ続けていた違和感の結論が出た、という感じです。
さあ、これから手術だの治療だの、ということになるのですが
不謹慎なことに、ちょっとワクワクしている自分を感じています。
もちろん体の苦痛はとても苦手だし嫌ですが
初期の難しくない手術とはいえ、まあ生まれてはじめて手術台に上るわけです。
なにがあるかわからないので、そのまま帰ってこられないことになってもいいような
心と環境の準備はしておこうと思ってるのです。
私は自分が生きることに、執着が薄いと思っています。
仕方なく生きているので、どうせ生きているんなら何なしないとね、と思っていろいろなことをしている
と思っています。
せっかく何かするのなら、自分の興味がもてて、自分の好きなこと、好きな人の役に立てることがしたい
と思って活動しています。何かに手を出すのなら、あまり無責任なことはしたくない、と思ってはいますが。
そんな程度にしか「生きたい」と思っていないのですが、もし「もう生きられない」ということを現実に突きつけられてもまだ、自分は執着なくいられるのか、それとも物凄い執着心がわくのか、それを知りたいと思っています。
その時初めて「自分が何者なのか?」がわかるのではないか
自分は本当はどうしたいのか、周りにどうしてほしいのか
自分でもなかなかわからない本当の自分の声が聞けるのだ
と思うと、ちょっとワクワクするのです。
それから、人生の棚卸が出来るなあ、というのも少し楽しいことです。
私の周りにある無駄なもの、無駄なこと、を整理するきっかけがもてた、と思います。
「どうして私はこんなにいろいろなものを持ってるんだ?」とため息が出るほど
たくさんのモノに囲まれて(埋もれて?)暮らしている自覚はあるのに、なかなか整理・捨てることができません。
それはモノだけではないのです。
棚卸をしなさい、と声なき声に指摘されたのだと思います。
そんなわけで、いろいろなことを考えるチャンスをもらったこれからの1~2ヶ月間。
自分の変化をじっくり観察しようと思います。
ブログで拝見する限り、活き活きと活動されていたように思っていたのに、
これで一時停止になりましたね。残念ですが仕方ありません。
私が癌の宣告を受けたらどういう気持ちになるかを考えてみました。
貴女のように平穏な日常ではなくなり、大きく動揺するでしょう。
自分にとって最悪のことまで考えて、その時の心構えをすると思います。
「来る時が来たと思って腹をくくるか」、「もうここまで生きて来たのだから良しとするか」、
どう考えるかは、病状の程度も有り、その時にならなければ分らないことです。
しかし、自分の気持ちがどうあろうが、
やはり当面は、今の医療でベストと考えられる処置をすると思います。
それからは、貴女と同じように身の回りの整理をするでしょう。
そして、手術を前にして後は自分の運命にまかせるしかないと考えると思います。
麻酔が覚めて、目を開けた時、
多分、自分にとって新しい人生が開けたことを感じるような気がします。
リセットボタンが押されたような、付録の人生をもらったような(私が高齢だから)、
今までとは違った心境になるように思うのです。
どんな心境になるかも分りませんが、
多分、今まで背負ってきたものを降ろし、身軽になっているような気がします。
ブログにもあったように、「考えるチャンスをもらったのだから、
自分がどのように変化していくのかをじっくり観察する」とありました。
手術を契機に、自分自身を客観的に見つめられるようになれば、
今までと違った道が見つかるのかもしれません。
何かこちらで力になれることがあれば、何なりと言ってください。
ヒロシ
幸いなことに、精神的には元気なので、大丈夫です。
また、初期のようなので、皆さんに心配をおかけしたのが恥ずかしいくらいに、さっぱりと治るかもしれません。
私自身は、病気になったことや手術にあたって、人生観や価値観が変わるとも思っていません。何かが変わるとすれば、きっと変わるのでしょうが、できれば何も変わらなければいいなと思ってます。
今までも毎日今日が最期の日かも、と思って生きてきたので、生き方や考え方がそう簡単に変わるとは思えません。
どうせ何かが変わるのなら、いい方向に変化出来ればいいですね。
いろいろありがとうございます。