つれづれに

きままに書きます。
どうぞよろしく。

素敵な場所を見つけました

2005年12月08日 | Weblog
思いがけないところで、それはそれは素敵な場所を見つけました。

小さい時に読んだ秘密の花園を思い浮かべるような場所です。
今はピークはすぎたようですが、小菊が200坪以上咲き乱れていました。
全体で数百坪はあるでしょうか。

春になれば、チューリップや花大根、菜の花、マーガレットが咲き乱れるようです。
これをたった一人の老人(こんな表現は当たらないかもしれないくらい元気な人でした)が、
毎日、毎日手を入れてこれだけの場所にしたそうです。

すっかりなれた野良猫君がお昼になって休憩の時間とわかっているのでしょうか。
彼の胸に顔を擦り付けて甘えていました。

これまでの人間関係では会ったことがない人間の存在だと思いました。

出てきた!デジカメ。

2005年12月07日 | Weblog
今朝、10時ごろパソコンサークルの友人から電話が入りました。
「家に袋を忘れていかなかった?」
この電話に『中にデジカメ入っていない?」と聞く私。
『入ってるよ」。
これでこの2日ばかりの悩みが解消!!

月曜日に2つの袋をもって出たのだけれど、そのことを覚えていなかった。
1つだとばかり思っていた。
これって病的かな~?





尾辻さんの写真集:長崎・照射の夏

2005年12月07日 | Weblog
今夜の写真教室は体験的写真論ということで
上記の写真集を題材に尾辻さんのお話を聞きました。
最近出された写真集を題材にして話すので
とてもわかりやすく、また迫力がありました。
尾辻さんは、長崎で生まれ、育った人で、
2000年に写真に関係のあった通信社のカメラマンから
フリーになったのだそうです。
ご自分では長崎から東京に出てきて働いていたので、
いわば長崎を捨てた人と表現していました。
被爆の町だけでない、長崎、生活の場所としての長崎を
撮って見たいという思いは30年間抱き続けていた思いだったとか。
でも実際に撮ることを実行したのは5年前。
育った町だけあって、何をとりたかったのか、
何を表現したかったのかよくわかる、写真でした。
長崎市は坂と港と西洋館の町だそうです。
そして白い雲がよく似合う暑い日差しの照る町でもありました。

もうひとつ、坂が多いこととも関連しているのですが、
道が狭く消防車や車が入れないため、
若者は郊外に転出するそうです。
そのためいまや高齢者が住む街だそうです。

それからテーマを短期、中期、長期のものをそれぞれ持って
撮り続けることの大切さも話されました。
とても参考になる講義でした。


エーッ、ない!

2005年12月06日 | Weblog
デジカメが見当たらない。
置く場所を決めておかないから!!
出かけるたびに持ち歩いていて、その日、その日で入っているバッグや袋が違っていたのだけれど、日曜日は使わなかった。
木曜日は使った。それをパソコンに取り込んだのは?木曜日。金、土と記憶がない。
修理に出さなくてはと思ってはいたのだけれど・・・。
さし当たって使えるデジカメがない!!!
何も撮ることにおわれる必要はないのだけれど。
それでも禁断症状が出そう。
これがインターネットの怖いところかも。

そして奇遇で終わりました。(Ⅱ)

2005年12月05日 | Weblog
 会議が終わっての帰り道。折角だからどこかでお茶でもと言ったのですが、
みんな夕飯を食べていってもいいというのです。
私は息子との約束があったのですが、お付き合いをすることに。

 北海道出身の夫婦でやっている店に行きました。
厚岸から取り寄せたというおいしい魚が売りの店でした。
みんなはビールで乾杯。あら~彼女も好きなんだ~と・・・。

 頼んだ料理を待っていると一人の女性が入ってきました。
ベーレー帽をかぶった華やいだ雰囲気の女性です。
店のお上(彼女が知り合いなのです)が『お帰りなさい』というのです。
その時です、彼女がかって親しくしていた人だということに気がついたのは。
息子と保育園が同じで、小学生になっても行き来して、お泊りもしていた関係です。

 そしてもっと悲しいことを共有する関係でもあったのです。
私の夫も、彼女の夫もともに胃がんで亡くなりました。
末期の私の夫を彼女が見舞ってくれました。
その時の熊の小さな小さなぬいぐるみは
今でも残っています。

 そしてそれから数年後私は彼女の夫を見舞うことになったのです。
同じ胃癌でした。
ご主人の顔を見た時もう長くないことを察しました。
みかんを食べたいというので
近くの八百屋さんで買ってお見舞いに差し上げました。
彼女によれば伊予柑だったそうです。
おいしそうに食べていた映像が浮かんできます。

 何故かその後、彼女とのお付き合いは疎遠になりました。
きっと現在のことに追われる私の生活の故でしょう。

 共有するものがあるからでしょう、
数年間のギャップはまったく感じられないひと時を過ごしました。

 何かを共有できていることが、どれほど貴重なことか
つくづくと感じたひと時でした。
奇遇の感激で終わった一日でした。