伊能忠敬(1745-1818)は、今から200年以上も前の江戸時代に、日本全国を歩いて測量し、日本全国地図(大日本沿海輿地全図(伊能図))を完成させた人物である。
しかし厳密には、忠敬はこの地図が完成した3年前に亡くなっている。
では誰が完成させたのか?
「大河への道」(2022)では、(野口英世や福沢諭吉みたいに)何度も聞かされてきた伊能忠敬の偉人伝や超人伝ではなく、忠敬の師の息子である高橋景保に焦点を当てている所が、とてもユニークに映る。
誰が為に地図を作る?
以下、ネタバレを「時代劇と現代劇の2つの視点・・」から簡単に紹介する。
映画では、時は1818年、伊能忠敬は日本地図を完成させる事なく、この世を去る。
忠敬と共に日本地図を作成していた測量隊は、忠敬の死がバレれば、(伊能図を”金食い虫”と揶揄してた)幕府の援助は止まり、日本地図(伊能図)は未完で終わると判断。
そこで、忠敬の師匠で天文学者・高橋至時の息子である景保(中井貴一)は、忠敬の死を隠し、測量隊と共に僅か3年で日本地図を完成させる。
その後、景保は江戸幕府11代将軍・徳川家斉に、この日本地図を披露するが、幕府を3年も欺いた罪を景保は1人で被ろうとする。が、初めて見る日本地図に感動した家斉は、景保が持ってきた忠敬のわらじを見て”余には忠敬が見える”と、全てを許す。
時は現代に戻り、伊能忠敬の大河ドラマ化実現に向け、並々ならぬ熱意を見せる千葉県香取市総務課の池本(中井貴一)だが、伊能忠敬ではなく高橋景保に惚れ込んだ老脚本家の加藤(橋爪功)は、”景保を主役にしたドラマなら書くが、忠敬なら私は降りる”と突っぱねる。
その後、池本は再び加藤の自宅を訪れ、”伊能忠敬の大河ドラマを自分で書くから、弟子にしてほしい”と頼み込む。
エンドロールでは、玉置浩二の「星路(みち)」が流れてきたが、私には忠敬の偉業や景保の苦悩よりも、こちらの方で鳥肌が立った。
多分、この曲がなかったら、単によく出来たコメディドラマの印象だけで終わってたであろうか。ただ、忠敬の測量学への執念も超人的だが、弟子たち忠誠心にも実にアッパレである。
史実はどうなのか?
ここで、映画の脚本の精度を確かめる為に、史実を振り返ってみる。以下、「日本地図を作った伊能忠敬・・」より簡潔に纏めます。
伊能忠敬が日本地図の制作に費やした期間は17年間にも及ぶ。測量は全10回で、最初の測量は55歳。それまでは別の仕事をし、類まれなる商才を発揮し、伊能家で約3万両(現在で約45億)もの財を成したという。
忠敬は、千葉県九十九里浜にあった小関家に生まれ、6歳の時に母親が他界し、婿養子であった父は離縁。独り小関家に残された忠敬も10歳の時に父親に引き取られるが、その実家で育った10〜17歳の間、忠敬は流浪し、数学や医学などを学ぶ。その時に得た豊富な知識のお陰か、49歳の時にとても興味があった天文学を学ぶ事を決意。息子に家業を譲り、江戸へ出て、(19歳も年下の)幕府天文学者・高橋至時に弟子入りする。
測量の本来の目的は地球の大きさを測る事だった。この時、忠敬が求めた地球の大きさは、ほぼ正しかったとされる。但し、蝦夷地への測量は幕府からの予算は殆ど下りず、1200万円程の私産を投資した。
忠敬は、その実績を認められ、日本全国の測量の命を受ける様になる。日本全国の測量が完成したのは71歳の時で、その6年後の1821年7月に伊能図は完成した。因みに、忠敬が測量の為に歩いた総距離は約4万kmで、偶然にも地球1周分となる。
つまり、55歳で測量を始め、71歳で測量を全て完成させ、日本地図完成の3年前に亡くなった。結果として、測量に16年、地図の作成に6年を要した事になる。
忠敬の墓には、伊能図を完成させた後の9月に亡くなったと記されてるが、弟子たちが忠敬の偉業として発表する為に、忠敬の死を伏せてたという。
つまり、ここにて映画の脚本と史実が見事に一致する。
一方で、江戸幕府は家元制度により全国各地に家元を置き、塾を開き、和算の教育を広めた。更に、都心部だけでなく農村部にも豪農出身の和算家や和算の実践家がいて、算術を教えた。
特に、富山藩の石黒信由(1760-1836)も和算教育だけでなく、伊能忠敬に負けじと地図作成にも活躍した。
事実、江戸から連れてきた忠敬の測量隊だけでは伊能図は決して実現できなかったとされる。行く先々で、地元の地理と測量の基本を知ってた協力者がいたからこそ、速やかにあの地図が作れたのだ。石黒信由も忠敬が富山藩を訪れた際に面会し、地元の地理を案内し、協力したという。
もし、各地域の測量や和算の知識の蓄積がある程度のレベル以上になかったら、伊能図の作成はもっと困難であったろう。つまり、測量や暦学などを含めた算術・和算の知識が日本地図の完成を可能にしたと言える(「江戸の数学」より)。
言い換えれば、家元が広めた江戸時代の和算教育が測量学を進歩させ、日本地図を作る原動力になったとも言える。
但し、その家元も若くして急死し、”幻の11代将軍”と呼ばれた。故に、家元の意志を引き継いだ将軍・家斉も実に感動モノである。
最後に〜歴史は思うほど単純じゃない
映画では、”忠敬の地図が大英帝国の日本侵略を阻んだ”と加藤はベタ褒めするが、史実で言えば、日本の地図を作ろうと計画してた英海軍は伊能図を見て、その精巧さに驚き、最低限の測量だけで(伊能図を元に)日本の海図を改訂したとある。
ただ、過去の世界では伊能が高橋に弟子入りし、現代の世界では池本が加藤に弟子入りするという、パラレルワールド的展開はよく出来ていると思う。
しかし現実には、忠敬の私財のお陰で測量は完結したのであり、伊能家の遺産と忠敬の弟子たちの奮闘と苦悩、それに江戸時代の優れた測量学なくしては、日本地図の完成はなかった。
つまり、「大河ドラマ」を伊能忠敬だけで再現するのは、少し単純過ぎるし、無理がある。
仮に、日本沿岸地図(伊能図)が未完成で終わっていたなら、伊能忠敬の名はここまで広まってたであろうか?一方で、高橋景保や徳川家元という歴史の表舞台には出て来ない人間が歴史を作るのも、また真なりである。
つまり、偉業を作る人がいて、それを支える社会(幕府)や人たちがいて、時代と歴史は作られていく。
そういう事を教えてもらった良作でもあった。
補足〜建部賢弘という偉人
伊能忠敬は(当時西洋で主流とされた)”三角測量”を用いず、”導線法”を使い、2点間の距離と方角(角度)を連続して求めてたとされる。が、長く続けると誤差が増えるが故に、測量地点からある目標物までの方角を測る”交会法”により、その誤差を修正していた。
一方で、天体を観測する事で緯度や経度を求め、地図の精度を向上させている。これは忠敬が測量を始める80年前に建部賢弘(1664-1739)が指摘してた事で、天気のいい日は毎日の様に天体観測を行ったという。
つまり、伊能忠敬は和算家・建部賢弘の影響を色濃く受けていた事になる。
ここからが補足の本題だが、建部賢弘は関孝和の門人となった江戸中期を代表する和算家で、1719年に江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の命を受け”日本総図”を作る。
建部は望視(交会法)を用い、203主要地点の位置を確定し、1723年に日本総図は完成した。が、国図というより測量図としての意味合いが強かった。
江戸幕府は過去に6度、日本地図を作成。4度目までは各国に提出させた測量図を合わせてたが故に、本州の形や四国の位置が正しくなかったが、5度目で初めて全国的に測量し正確なものに近づけた。建部の日本総図はこの時のもので、伊能図は6度目のものである。
従って、この日本総図が初の日本測量図となるが、実測の日本全国地図としては初となる伊能図も、測量した海岸線が主で内陸部の記述は乏しかった。が、その後弟子たちにより沿道の風景や山などが描かれ、絵画的にも美しい日本全国地図として完成を見た。
更に、連分数展開を用い、極めて精度の高い円周率の近似分数を見出した。また、円弧の長さを冪級数展開を使って求め、これは逆三角関数arcsin のテイラー展開に相当する。これこそが和算初の冪級数展開とされ、同じ結果をオイラーが得たのはその15年後である。
因みに、以上で述べた関孝和や建部賢弘の偉業は、「江戸時代の和算」というテーマで記事にするつもりである。
江戸時代の和算が関孝和によって飛躍的に進化したくらいまでしか知りませんでした。
ただその後、江戸幕府第8代将軍吉宗が積極的に西洋数学を導入します。
関の門下生である建部賢弘も吉宗に重用され、暦学や地図に関する仕事を任せました。
更にもう1人挙げれば、中根元圭ですかね。西洋の暦法を導入する為には彼の力が必要でしたから
それにこの頃は和算と西洋数学の規制緩和が進められ、以降、和算は西洋数学に取って代わるのですが・・
これも1つの時代なんですよね。
コメントとても勉強になります。
これも纏めて補足したいと思います。
ベルヌーイ数発見の関孝和くらいしか思い浮かばなかったのですが、よく調べると、建部賢弘だけでなく兄の賢明氏も世界を代表する天才数学者でした。
建部賢弘の偉大な業績として、円周率の近似計算と(テイラー展開に代表される)べき級数展開が挙げられます。
特に後者は、円弧の長さを計算する手法として使われ、オイラーに先んじてたとされます。
伊能忠敬という偉人の前には、世界的な数学者の存在があったという事に今更ながら驚かされます。
先人の偉大なる知恵ですよね。
当時は今のように沢山の娯楽がなかったから、空を見て星を観測したり、入り組んだ湾の形を想像するのが娯楽の1つだったんでしょうか。
とにかく、一歩一歩大地を踏みしめ、項を頂く様にして完成させた伊能図に祝杯と言った所です。
今も昔も数学は、庶民に夢と娯楽を与える存在だったと言えます。
因みに、建部賢弘ってオイラーにも負けない程の天才数学者だったんですね。初めて知りました。
建部賢弘に関しては補足するか、新しい記事として紹介するか迷ってます。
コメント何時も有り難うです。
江戸時代中期の数学は世界でもトップクラスにあったらしいね。お陰で測量学も蘭学などに頼らず大きく進歩した。
伊能忠敬は三角測量を用いずに、2点間の距離と方角(角度)を連続して求めていたとされる。更に、測量地点からある目標物までの方角を測る交会法により、その誤差を修正していた。
他方、天体を観測する事で緯度や経度を求め、地図の精度を向上させている。
これは、ずっと前に建部賢弘という人が指摘していた事で、天気がいい日は毎日天体観測を行った。
この様に、測量学や天文学が発達した江戸時代ならではの賜物とも言える。
鎖国という平和がもたらした江戸時代の和算は、伊能図を通じ、これからも語り続けられていく。