もし、”地図にない人生”が本当の人生であったなら?それに、地図にない人生こそが自分の生き方だとしたら?
そして、そんな人生が自分の全てを支配するとしたら・・・「地図にない町」を読んでて、ふとそういう事を考える自分がいた。
”メイコンハイツ行きの切符の回数券を売ってくれ”と、ある駅に古びれた背広を着た奇妙な小男が駅の窓口にやってくる。だが、メイコンハイツという町は何処にも実在しない。
困惑する男は”そんな事はない。オレは半年間もその町に通ってるんだ”と騒ぎたて、その後、忽然と姿を消す。
それを目撃していた駅員(助役)が”地図にない町”メイコンハイツの地を探しに行くというシンプルな展開である。
F・K・ディックというSF作家だが、(失敗に終わった)TVドラマ「高い白の男」の原作者である事くらいしか知らない。故に最初は、単なるパラレルワールドの類いかなと高を括っていた。
”存在しない町”と”存在する町”
だが、この短編小説は”存在しない町”と”存在する町”が何処でどんな風に接点を持つか?が、最後には大きな意味を持つ事になる。
つまり、実在する世界と架空の世界が交差し、更に混じり合う事で、ある種独特の調和を醸し出してる所が、非常にユニークに思えた。
現実と架空の世界という、普通なら平行線のままの交差する事のない2つの相反する世界だが、時空の連続体のほんの少しのズレが2つの世界を結びつけ、最後には架空の世界が現実の世界を覆い尽くす形でエンディングへと向かう。
言い換えれば、”地図にない町”が”地図にある町”と交差し、更に包み込み、新たな現実の世界を構築する。
これを”ガウスの複素平面”に例えれば、虚数という”地図にない町”をタテ軸に、実数という”地図にある町”をヨコ軸にした座標を考える事で、この新しい世界をイメージする事は可能である。即ち、虚数で作られた複素数は(虚数を含まない)実数を包み込んでいるのだ。
最初は、真実と虚が入り混じった空間に戸惑い、慄然とする駅員も、メイコンハイツという架空の町と出会い、”時空の連続体”のズレと遭遇する事で、人生がリセットされる。
お陰で、不仲な筈の恋人との間にも子供が出来、最後には”これもアリか”とハッピーエンドで幕が降りる。
著名なSF作家にしては、出来過ぎの見事な結末で、これも最適解の1つかもしれない。が、真実と虚の交わる事のない2つの空間が交わる世界が存在するという、まるで「平行線公理」を地で行くような非ユークリッド空間の世界を旅してる様な気分になり、別の意味でも感心してしまった。
私達は、実在する世界で存在する筈の人生を送っている。勿論、私達が歩んできた歴史や人生は実在するものである。
しかし、存在する筈の人生に一寸したズレが生じ、その隙間から実在しない世界や存在しない運命が迷い込んできたとしたら・・・
我々はどう対処するのだろうか?
実在しない世界だからとて、無視できるのだろうか?存在しない運命だからとて、人生を諦めるのだろうか?
いや、実在しない世界で存在しない運命だからこそ、そこには生きるべき人生が、いや探しだすべき新たな人生が存在するのだろう。
つまり、人生の模索とはそういうものではないだろうか。言い換えれば、人が生きるとは模索の連続なのである。
「地図にない町」では、”地図にない町”から入ってきた人たちが活き活きと自由に暮らしている。まるで、新しい世界を構築するかの様にである。
そこには戸惑いや不安というものはなく、あるのは過去や常識に囚われない希望と自由である。
つまり、「地図にない町」を描いた著者が教えてくれるのは、そういう事なのだろう。
そう思うと、”地図にない人生”を生きる事は”本当の自分を生きる”事なのかも知れない。つまり、答えが存在しない人生こそが本当の人生なのだろう。
確かに、答えが用意された人生が偽ならば、答えが存在しない人生は真である。同様に、地図に描かれた町が偽ならば、地図に描かれてない町こそが真である。
もっと言えば、運命という地図に描かれた人生は虚構であり、運命に描かれていない人生は真実となる。従って、運命を白いカンバスに例えるなら、人はそのカンバスに様々な景色を描く芸術家であるべきだ。
事実、私達は先の見えない未来を模索し、運命という地図には描かれていない人生を迷走する。誰も神様ですらも、その運命を予測し、描く事は出来ない。
つまり、数学の天才クンマーがノルムの先に理想数(イデアル)を見出した様に、運命の先にある新たな架空の世界を更に模索する必要がある。
FKディックが描いた”地図にない町”も、更に理想の町を模索する事で、新たな世界を小説の中ではあるが、披露してくれた。
最後に〜新たな人生を生きる為に
確かに、”諦めずに頑張る”とか”諦めたらそこで終り”とか、又は”仕事に誇りを持つ”とか”人生に目標を持つ”とか、我々が普段口にする様々な(より良く生きる?為の)教訓や決め事は、第三者が勝手に作り上げた、いやウソで塗り固めた人生の指導要項に過ぎない。
一方で、生きるとは本能であり、義務や教育でもないし、目標や目的でもない。少なくとも、押し付けや強制ではない。
つまり、”地図にある人生”を生きようが、”地図にない人生”を生きようが、生き物の勝手である。逆に、人生の指導要項なんて好き勝手に作られたら、運命は不条理で人生は窮屈で仕方がない筈だ。
人生をどう生きるかと同じく、どんな人生を生きるかは、同値である。故に、”地図にある町”で生きようが、”地図にない町”で生きようが、生きるという意味では同じである。
更に、”地図にない町”で生きてみて、どんな結末になろうが、小説の勝手である。つまり、小説は(慣習や教訓がない分)現実よりもずっと柔軟で身勝手なのだ。
確かに、慣習や教訓は大衆の人生を細かく規程するには便利な決め事ではある。だが、運命を模索し、人生を賢く送るには、邪魔で悪害でしかない。更には、法ですらも人生の足かせになる時がある。
私が小学生の頃、”苦あれば楽あり、楽あれば苦あり”と真顔で説教する女の先生がいた。”前頭葉バカ”とは、彼女の為にある様な言葉だが、少なくとも作家は、こんなバカでは勤まる筈もない。
F・K・ディックは、”地図にない町”を認めたがらない男を主人公に据え、その男も”地図にある町”の上に”地図にない町”が存在する事を最後には認めてしまう。
これは、新たな人生を踏み出すには、古い慣習や教訓を捨て去り、”地図にない人生”を模索する勇気と覚悟が必要だと、言いたかったのではないだろうか。
この二つに尽きるのかね
それに
勇気と知恵でしょうか。
勿論、”答えのない人生”ほど怖いものもないんですが、まるで地図にない町を散策するようなものですかね。