”その1”では長々となりましたが、アーベルの短すぎる人生と彼が遺した偉大なる数学の軌跡を書きました。
「アーベルとその時代 スツーブハウグ著 願化孝志訳」(丸善出版、2003)と高瀬正仁氏のコラム”日々の徒然”を参考に書いたんですが、高木貞治氏の「近世数学史談」(岩波文庫、1995)には、もっとユニークに詳細にコミカルにアーベルの事が書かれてます。
高木貞治氏(1875−1960)は、知る人ぞ知る日本を代表する数学者(理学博士)で、かのヒルベルトに従事し、類対論の世界的権威で”高木の存在定理”は有名です。
第1回フィールズ賞選考委員でもあり、世界中にその名は知られてます。
その高木氏も前述の高瀬正仁氏にも劣らず、アーベルとヤコビに関する評価はとても高く、”アーベルの天才は或いはガウスを凌ぐものがあったかも知れないが、才能に恵まれたヤコビは精励においてガウスにも劣らなかったであろう”と語ってます。
高木氏はヒルベルト世代の数学者ですから、アーベルの実像と真相がすぐ目の前に迫ってくる様な錯覚に襲われます。
そこで今日は、アーベルのパリの論文の触りと、「近世数学史談」を参考にパリの論文の紛失の真相を紹介します。
パリの論文とアーベル積分
1826年にアーベルが書き、パリアカデミーに提出した「パリの論文」(ある非常に広範な超越関数の一般的性質において)の主題は、一般的な代数関数の積分(アーベル積分)に対して”加法定理”を確立する事であり、これによりオイラーが発見した楕円積分の加法定理を大きく凌駕する世界が開かれます。
アーベルは、一般のアーベル積分(アーベル関数)とは別に、楕円積分の考察も続け、「楕円関数研究」を2回に分けて「クレルレの数学誌」に搭載した(1827年9月と1928年5月)。
アーベルの楕円関数論は、楕円積分の変換理論と等分方程式論の2つの柱を持ち、どちらもルジャンドルが名付けた第一種楕円積分の逆関数への着目という、アーベル独自のアイデアに支えられてます。それにこれらを複素変数の関数として取り扱った事も際立ってます。
因みに、アーベルの逆関数は現在では楕円関数と呼ばれてます。アーベルは、当初これを”第一種逆関数”と呼んでました。
但し、表題の「楕円関数」は逆関数ではなく、楕円積分を指すとも言われますが、呼び名も複雑に変換してきたんですね。
この「パリの論文」では、アーベル積分の加法定理が既述されました。同時に楕円関数の等分理論に先立ち、アーベルはいきなり”アーベル積分”という異常なまでの高みに飛翔した事になります。
一歩ずつ階段をのぼるのではなく、まず初めに頂上に身を移し世界全体を展望するという”とんでもない離れ業”でした。
このアーベルの機能法的手法は、ガウスの基本理念やリーマンのスケッチとそっくりですが、なかなか周りは認めてくれません。それどころか多くの瓦解をも生み出す結果となります。
勿論、これこそがアーベルの超天才の発露なんですが、悲しいかなルジャンドルやコーシーの様なパリの天才数学者たちの理解を得る事はできませんでした。ルジャンドルにしても一瞥する位の事はしたのではないかと思いますが、何も印象に残らなかったという。
論文の紛失とその謎と真相と
因みに、”フランスのガウス”と称されたルイ•コーシー(1789-1857)は、7月革命の影響で1830年に国外へ亡命します。
かのパリの論文は、コーシーの机の上にあったまま紛失とされてますが、同じく若き天才ガロアの論文もコーシーは紛失しています。俗説ですが、コーシーがアーベルとガロアの論文を紛失した事が、二人の夭逝の遠因となったともされてます。
死後のコーシーが、自ら残した偉大なる業績の程には評価されてないのも、こうした若き卓越した数学者の才気を見抜けなかった事に由来してるんでしょうか。
一方で、同じ審査員だったルジャンドルは1833年に病死しますが、後述する様に彼は、ヤコビを通じてアーベルの大発見を知りました。故に、何故その時に評価しなかったのか?否出来なかったのか?はとても疑問です。
事実、この件に関してヤコビは、”このアーベルの大発見が2年前(1826年)に報告されながら、貴下および同僚の注意を引かなかったのはどういう事か”と、ルジャンドルに怒りを爆発させました。
一方、1829年1月、アーベルは自らの発見をこの様な隠滅から救うべく、病を力めて僅か2ページの大論文「ある種の超越関数の一般的性質の証明」をクレルレに送ります。
この論文こそがアーベルの最後の絶筆になるんですが、その日のアーベルは、病床にあって生涯最高の思想を書いた。
これこそがアーベルの加法定理で、直ちに”金よりも久しきに堪ゆる記念碑”とルジャンドルが絶賛しましたが。
因みに、このアーベルの世紀の発見は、アーベル誕生以来の今日にても”数学進歩の頂点”と見做されています。
ガウスの賞賛とアーベルの名声と
事実1828年には、アーベルの楕円関数研究はガウスに知られ、称賛されています。
1828/5/18付で、クレルレからアーベルへ送った手紙ですが。オイラーの孫に当たるパウル•ハインリッヒ•フスもアーベルには熱い気持ちを寄せてました。そのフスはガウスからアーベルの評価を伝え聞き、友人のクレルレに手紙を送ったんです。
ガウスは、以下の様にアーベルに対する印象を語ってます。
”他に色々と仕事がありますので、今はそれら(楕円関数)の研究をまとめる余裕がありません。アーベル氏はこの仕事の少なくとも1/3で私の先を行きました。
アーベル氏は、私が1798年に到達した道にぴったりと沿い歩んでます。故に、大半にて同じ諸結果に達したからとて驚く程ではありませんが。アーベルの叙述は洞察力と美しさを兼ね備えてますから、もう同じ諸問題を叙述しなくても済むという気がしてます”
つまり、ガウスもコーシーもルジャンドルもアーベルの楕円研究の事は知ってたんです。しかしそれを素直に評価したのは、一度はアーベルの”不可能の証明”(1824)を一蹴した、数学の巨人ガウスだけだった。
しかし、パリ科学院はそれでも沈黙を続けてたんです。事実、1824年のアーベルと1826年のアーベル、そして1828年のアーベルは全くの別人でした。それを見抜けなかったとしても、ヤコビが憤慨するのは頷けますね。
しかし1828年を境に、アーベルの名声はにわかに高まります。失意の彼が本国で貧窮に苦しんでる事がパリに伝わり、ルジャンドルやポアソンらはスエーデン王に彼をストックホルムに招聘する事を勧説した。
一方、クレルレの熱い友情はフンボルトを動かし、アーベルのベルリン招聘を決定させた。
喜び勇んだクレルレは、アーベルが息を絶えた2日後の4月8日、ベルリン招聘が決まった知らせを送った。
ガウスは、友人で天文学者のシューマッハーの手紙でアーベルの死を知ります。アーベルの死後1ヶ月の事でした。そこでガウスは、シューマッハーにアーベルの死を悼む手紙を返信します。
”お手紙によってアーベルの逝去を知りました。実に学問会の一大損失であります。この異常なる英才の経歴に関して何か書いたものが御手に入りましたならば早速御知らせ下さい。もしも肖像があるならば見たいものです”
結局、ガウスは早くからアーベルの偉大さを見抜いてたんですね。1つ1つの言葉が非常に重いですし、ガウスしか知る余地のない意味の深い言葉ですね。
最後に
ノルウエーが生んだ”偉大な4人”の作家の一人であるビョルンスティエルネ•ビョルンソン(1832−1910)がアーベルの誕生百年に当たって、触れた言葉で締め括りたい。
”彼が知った時
死が彼を連れに来たことを
彼は待つことを乞うた
彼はなした計算又計算を
そうして著名をした
最後の
誰もが未だ知らなかった事の下に
そうして誰もが了解しなかった事の下に”
(今日の研究の基礎がそこにはある)
補足〜シューマッハーとアーベル
しかしシューマッハーに、”振り子に影響を及ぼすのは、月の引力だけではなく地球の引力を忘れてる”と一喝されます。結局、アーベルもハンスデンも赤っ恥を掻いた訳です。
実際に、アーベルはヨーロッパ留学中のハンブルグでシューマッハーの厚遇を受けます。その時、”よくもこんなものを”というガウスの一蹴の件を聞きますが。
アーベルの”不可能の証明”の不器用で見苦しい?パンフレットは、シューマッハーの手を経てガウスに手に渡る事になったんですが。バカ高い印刷費や印刷の不手際もあってか、証明はほぼ完璧だが記述は不完全だとされました。
この”5次方程式”の解法は今で言えば、「フェルマーの定理」みたいなもので、全く無名のド田舎の若者が数百年余の懸念を解決できたと誰もが思いもしなかった。
流石に、巨匠ガウスをしても称賛できなかった。”よくもこんなものが書けたものだ、恐ろしい事だ”と一蹴した事が大げさに伝わり、アーベルはガウスを一時は恨んだとされます。
因みにガウスが、この時この小冊子をじっくりと読んだかは不明ですが。
これが原因で、アーベルは憧れのガウスと会うのを辞め、ゲッチンゲンには向かわずベルリンへ向かい、運命のクレルレと出会います。
宿命と運命と出会いと別れが、数学と同様に複雑に交わり、人生という奇怪な織物を編むんです。結局、アーベルがガウスに会わずにクレルレと出会った事が吉と出たんですね。
以上、コメントを元に追記しました。
でもガウスから最高の評価を受けてた事はアーベルの耳にも届いてたわけよ。
異常なる英才って
ガウスから言われたら卒倒しちゃうかな👋
前回のコメントでも書いた様に、「特殊(特異)から一般へ!」それがガウスの言い癖でした。
実質的学問は機能法であるべきだ。もし数学が演繹的であるなら、既成数学の修行にのみ通用するもので、今の自然科学にて1つの学説が出来てしまえばそれに基づき演繹をする。しかし演繹上の論理は当り前だから、演繹のみでは新しいものは何も生まれない。
もし学問が演繹のみに頼るならば、その学問は小さな環の上をグルグルと回る他ない。つまり我々は空虚なる一般論に囚われないで、機能の一途に精神すべきではあるまいか!
この言葉こそがガウスの全てを十全に表現してます。 そして、アーベルもガロアもリーマンも全く同じようなスケッチを描き、オイラーやガウスにも引けをとらない偉大なる数学者になり得たのです。
1828年に少しずつ広まったのは
やはりガウスの評価が
とても大きかったように思う
コーシーもルジャンドルも
アーベルの大発見を理解するのに
丸2年掛かったわけだ
しかしガウスはアーベルの才能を
一瞬にして見抜いた
ガウスの弟子のディリクレが
アーベルにわざわざ会いに来たのも
偶然ではないと思う
ディリクレがやアーベルの親友ヤコビと
生涯親交を温めたのも偶然じゃない
超人にしか超人は理解できないんだな
多分、26歳でガウスに並び、28歳で一気に追い抜いた。
Hoo嬢も今からでも遅くないです、数女になるのは。ではバイバイ👋
そういう私も機能法的な所があり、本を読むにしても最初から演繹的にという読み方は苦手です。
でもある突拍子もないアイデアをいきなり提示できる能力は、神様が与えたのかな。
コメントブログに付け加えるかもです。
まそれだけアーベルの加法定理という大発見は、傑出した数学者でも理解できなかったんでしょうか。
ディリクレがわざわざ無名のアーベルに会いに行ったのもガウスの差金かもですかね。つまり、ガウスはシューマッハーを通じてアーベルの噂は知ってたでしょうから。
アーベルとシューマッハーは奇妙な縁で結ばれてたんです。
アーベルはクリスチアーニ大学時代(1824年)、師匠で天文学者のハンスデン教授の指導の元、”月の引力が振り子に及ぼす力”を計算します。量も方向も微々たるものだという結論をシューマッハーの天文報知に搭載するように頼みます。
しかしシューマッハーに”振り子に影響を及ぼすのは月の引力だけでなく地球の引力を忘れてる”と一喝されます。結局、アーベルもハンスデンも赤っ恥を掻いた訳ですね。
しかしこれが縁でシューマッハーはアーベルの事を”数学がよくできる好青年だ”と好意を抱くようになります。アーベルの”不可能の証明”をガウスに知らせたのもシューマッハーです。
実際にアーベルはヨーロッパ留学中、ハンブルグでシューマッハーの厚遇を受けます。その時ガウスの”よくもこんなものを”という一蹴の件を聞きますが。
これが原因でアーベルは憧れのガウスと会うのを辞めたらしく、ゲッチンゲンには向かわずベルリンへ向かい、運命のクレルレと出会います。
このクレルレとの出会いがなかったら、アーベルの数学者としての運命はここにて途絶えてたでしょうか。
宿命と運命と出会いと別れが数学と同様に複雑に交わり奇妙な人生という着物を編むんです。
アルコールが手に入らないので
次亜塩素酸ナトリウムえお使いとの事
そうですよね、なければ当然だと思います
勿論0,02%に希釈してるつ思いますが
ノロウイルスにはアルコールが効かないのでノロウイルスにも良いですよね
コメントのお返事こちらに来ました
有難うございます
”5次方程式”の解法は今で言えば、フェルマーの定理みたいなもので、全く無名のド田舎の若者が数百年余の懸念を解決できたと誰もが思いもしなかったんでしょうね。
流石に、巨匠ガウスをしても称賛できなかった。”よくもこんなものが書けたものだ、恐ろしい事だ”と一蹴した事が大げさに伝わり、アーベルはガウスを一時は恨んだとされます。
勿論ガウスにしてみれば、論文の表題に”代数的”の文字が抜けてた事とパンフの不備を指し、一蹴したんでしょうが。しかしこの2年後(1826)に、アーベルがクレルレ誌の第1号に載せた詳細なる証明を、ガウスは理解を持って読んだとされます。
結局、アーベルがガウスに会わずにクレルレに会った事が吉と出たんですね。
いつも思うんですが、paulさんのコメは私にある閃きを齎してくれます。有難うです。