象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

ネット上を賑わした論文と査読チームの奮闘〜ポアンカレ予想の奇悲劇、その7

2021年04月03日 10時40分26秒 | 数学のお話

 前回の”パンストの幾何学””その5””その6”の計3話を使い、ペレルマンによるポアンカレ予想の完全攻略を述べましたが、振り返る程に深い闇に没入しそうな勢いです。
 自分では、ある程度理解し納得したつもりですが、考える程に様々な邪念が湧いてきて、ア〜でもないコ〜でもないと解決済みの難題に対し自問自答してしまいます。
 勿論、当のペレルマンはもっと自問自答を繰り返したんでしょうか。

 でも最終的には、”石鹸膜の幾何学”で説明できる”極小曲面”こそが、”3次元閉多様体を1点に縮める連続変形(単連結)が可能”というポアンカレ予想をめでたく打ち砕いてくれたんですね。まるで石鹸膜がパチンと跡形もなく(1点に収束して)消え去る事を、位相的に証明した訳です。
 しかし、振り返る度に話がややこしく長くなるので、ここら辺でヤメときます。
 多分いないと思いますが、興味のある方は前回の”パンストの幾何学”だけでもニヤニヤしながら眺めて下さい。

 そこで今日は、”ポアンカレ予想に最終決着がついた”とされ、世界中を大きく賑わしたペレルマンの論文(イラスト)についてです。
 ペレルマンの本当の敵は、ポアンカレ予想という100年余の世紀の難題ではなく、強欲が絡んだ外野の雑音だったんですね。


ネット上を賑わした3編の論文

 まずは、”その2”に寄せられたコメントから一部引用です。
 ペレルマンがarXivに投稿した3つの僅か68p(39+22+7)の論文には、余計な単語はなかったが重要なものが欠けてる事もなかった。それどころか、この3篇の中にはポアンカレの名前すらなかった。
 因みに、”arXiv”とはプレプリントを含む様々な論文が保存・公開されているウェブサイトで、アップロード&ダウンロードともに無料のPDF形式の論文である。1991年にスタートし、プレプリントサーバーの先駆けとなった(ウィキ)。

 ペレルマンは、”ポアンカレ予想を証明した”との主張すらしてはいなかった。つまり、読者が自分で気付くに任せたのだ。
 野心的なサーストンの幾何化予想に関しても、”ハミルトン・プログラムの実行は3次元閉多様体に関する幾何化予想を含有するだろう”と言うだけに留まり、”最後に幾何化予想の簡単な概要を示す”で始めている。
 この序文だけで、ポアンカレ予想の証明を言い当てた人はどれだけいただろうか。

 ペレルマンが自らの成果を大げさに取扱うとしないのは、彼が論文の対象として考える人々はそこから派生する意味に気付くだろうし、それがわからない人々にはそもそも彼の論文を読むべきではないのだ。故に、何故この予想で大騒ぎするのだろうか?
 2002年11月11日の最初の論文「リッチフローに関するエントロピーの公式とその幾何的応用」では、仰々しい程の挨拶で始まり、彼の前に誰が何をしたかという歴史的発見を記した。そして論文の末尾では、”この様に、元の多様体のトポロジーを多様体の連結和として復元できる”と、自慢も満悦もなく、ただ事実のみを述べて締めくくった。

 4ヶ月後の3月10日には、第2の論文「3次元多様体上の手術付きリッチフロー」を投稿した。
 前回の幾つかの不正確な部分が修正され、更に専門的になった”幾何化予想証明の簡単な概要”の主張が網羅されてた。
 因みに、サーストンの幾何化予想(多様体の基本要素が決まれば全体像が決まる)の一般化こそがポアンカレ予想である事に注意です。
 年が明けた7月17日、最後の論文「3次元多様体上のリッチフローの解に対する有限消滅時間」では、サーストン予想を回避し、ポアンカレ予想へのショートカットを提供した。
 ペレルマンはここで7pを使い、リッチフローが有限時間内に一定の多様体をパッと消す事を証明した(”その6”のヒュドラとの闘いを参照です)。


ペレルマンの最初の公演

 ペレルマンは、後に査読チームの1人となるティエン・ガン(田剛=MIT)に、初投稿の翌日にメールを送った。
 ”曲率仮定なしで有効なリッチフローの単調性公式を示す。これはある種のカノニカル集合(熱力学系を表現する統計集団の1つ)のエントロピーとして解釈できる”に始まり、”サーストン幾何化予想の為のハミルトン・プログラムと関連する幾つかの主張を確認し、局所的な曲率の下界での崩壊に関するこれまでの成果を利用し、この予想の折衷的な証明の概要を示す”で終わっている。
 早速、テイエンは”興味深い論文だ。MITで公演する気はないか?”と訊ねた。そしてある同僚は、その後に投稿される筈の2つの論文で、”幾何化予想が証明されるというのは本当か?”とペレルマンに訊ねた。
 結果は、”YES”であった。

 ペレルマンの論文は、すぐさま功績に変わり、彼の功績は世界中を駆け巡った。
 ”名高い数学問題を解いたロシア人数学者”(NYタイムズ)、”重要数学問題が解決か?”(ウォールストリートジャーナル)、”ポアンカレ証明の可能性に数学界は騒然”(サイエンス)、”偉大な数学ミステリーをロシア人が解決か”(CNN)、”ポアンカレ予想解決、今回は本物”(マスワールド)。
 懐疑的だったハミルトンも密かに、”今度は本物かもしれない”と感じる様になった。
 難題の研究で7年近くも引き篭もってたペレルマンだが、アメリカへの招待を喜んで引き受けた。 

 最初の講演は2003年の4月の3度、MITで行われた。要領を得ないペレルマンは、黒板の前を行ったり来たりしていた。
 ”活気ある講演の為の明快さは犠牲にする”と口を開くと、会場は大きく湧いた。まるで、ホームレスみたいな風貌だったが、講演が始まると、全てが変わった。
 黒板の一面に、ハミルトンが導入したリッチフローに関する方程式を書くと、その後は何も書かなかった。挑戦は巧みに躱し、質問には躊躇なく答えた。
 プリンストン大でもNY州立大でもスーパースターを眺める様に聴衆は興奮した。そしてペレルマンの謙虚さに感動した。
 講演の中で彼は、ハミルトンの証明を”実に奇跡的な成功”と讃えた。しかし、ペレルマンの講演には、ハミルトンは一度も顔を出さなかった。当然かもだが、彼がポアンカレ予想とサーストン予想を解こうと20年の大半を費やした後に、どこからともなく髪の長いロシア人が現れ、一番美味しい所を攫っていくのを指を加えて眺めるのは、さぞ辛かったろう。
 しかし、予定外の追加講演でハミルトンはとうとう姿を表し、ペレルマンの講義に感動していたという。

 ペレルマンは、マスコミとトポロジストを異常なまでに警戒した。
 勿論、”リッチフローとは?”という無能な下らない質問は無視した。やがて記者たちの質問を拒否する様になり、フラッシュには怒りを爆発させた。
 その後、3年間査読チームによる検証が行われた結果、不明瞭な概略だけの部分はあったが、重大な誤りは1つも見られなかった。
 2005年12月、サンクトペテルブルグのステクロフ研究所を辞職したペレルマンは、翌年の8月フィールズ賞を贈られたが、辞退した。
 慌ただしいアメリカツアーを終え、再びロシアの荒野に姿を消したペレルマンだが、彼が残した遺産は多くの数学者を何年も忙しく働かせた。


3つの査読チームたちの奮闘と苦悩

 査読チームの1つ、コロンビア大のジョン・モーガンと前述のテイエン・ガンは約3年の月日を掛け、その7倍もの長さ(473P)の論文を書き、「リッチフローとポアンカレ予想」というタイトルで同じarXivに投稿した。
 もう1つのチームは、ブルース・クライナー(ミシガン大)とジョン・ロット(同)で、彼らの論文は192Pに及び、彼らはペレルマンの論文のギャップを必死で埋めていった。ペレルマンの証明は完結で完璧だったが、概略過ぎたのだ。
 3つ目のチームは、これが後々大きな騒ぎを引き起こすのだが、ペンシルベニア州リーハイ大のツァオ・ファイ・トン(曹懐東)と中国中三大のチュウ・シー・ピン(朱熹平)。
 この中国のチームに関しては、”その2”でも紹介した様に、彼ら2人はアメリカ系中国人でヤウ・シン・トウン(丘成桐=ハーバード大)の弟子で、ヤウは親友でハミルトンのリッチフローが成功するものだと信じ切っていた。
 というのも彼は、”リッチフローこそが多様体を素多様体に分解できる”とサーストンに近い幾何化予想をしてたからです。
 ペレルマンに先を越された形となり、口惜しいヤウは、弟子の2人にペレルマンの論文のアラ探しをさせます。その上、タチが悪い事に、ヤウは2人がポアンカレ予想の新しい独立した証明を考案したと発表し、ペレルマンにケチをつけ、数学界に大きな混乱を引き起こします。
 因みに、テイエン・ガンもヤウの弟子で、2005年には”田剛=丘成桐事件”を引き起こします。
 というのも、ツァオとチュウの2人の査定論文にはクライナーとロットの論文の一部が含まれてました。つまり2人は、ペレルマンの証明の理解できなかった部分を盗用により補おうとしたんです(後に2人は正式に謝罪)。
 実はこの混乱と騒動こそが、ペレルマンとヤウ自身を大きな困惑の中に落とし込むんですが、この奇怪でドラマチックな悲劇は次回”その8”で述べる事にします。

 彼ら6人に加え、ハミルトンもゲルハルト・ヒスケン(独)やトム・イルマネン(スイス)らと共に、ペレルマンがネットに投稿した全ての頁を全ての単語を詳細に分析した。
 彼ら8人の査読チームの努力は、3年後の2006年夏まで続いた。

 少し長くなったので、今日はここまでです。次回”その8”では、中国人2人の査読チームと陰謀渦巻く奇怪な展開について書きたいと思います。



7 コメント

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第一の論文 (paulkuroneko)
2021-04-03 16:19:01
最初の論文で、リッチフロー(Ricci flow)の前にエントロピー(entropy fomula)を持ってくる辺り、勝負アリって感じです。
多くのトポロジストにとっては、この時点でお手上げだったでしょうか。
ただし、3つの論文のタイトル全てにリッチフローが含まれる所からも、ハミルトンに敬意を評してるのがわかりますね。
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リーマン・リッチ・テンソル (腹打て)
2021-04-04 03:08:23
RiemannianMettric(dgᵢⱼ(t)/δt=−2Rᵢⱼ)も忘れずに記されてるね。
俺としてはこっちの方が心に響くかな。
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paulさん (象が転んだ)
2021-04-04 03:40:20
流石やることが違いますよね。
当時は(サーストンの)幾何化予想ばかりが注目されて、エントロピーという言葉自体知らなかった数学者も多かったでしょうか。
ここら辺の超人的なレベルになると、入りが全然違うんですよね。
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腹打てサン (象が転んだ)
2021-04-04 03:43:21
d(gᵢⱼ(t))/δt=−2Rᵢⱼの方がわかり易かったですね。早速修正しときます。
でもここでもリーマンは健在です。
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腹打てサン (象が転んだ)
2021-04-04 03:47:23
細かいことですが、δt=d/dtでd(gᵢⱼ(t))/dt=−2Rᵢⱼでしたね。訂正です。
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少し調べたんだけど (HooRoo)
2021-04-04 12:21:26
Ricci–flowって
Ricci-CurbastroさんのRicciなのね
でも今ではRichard-Hamiltonさんが導入してRicci–Hamiltonflowと呼ぶんだから
Rich–flowでもいいと思うけど(・・;)
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Hooさん (象が転んだ)
2021-04-04 18:01:26
実は私もリチャードのリッチだと思ってましたが、リッチテンソルのリッチなんですね。
リッチテンソルはリーマンテンソルが元になってるんで、RiemannianMettricが論文の最初に登場するんですが。
でも今となってはRich–flowでも間違ってはいないかと。
Hoo嬢もいいとこ突くようになってきました。オジサンは感心歓心です。
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