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”悪魔祓い”が50年ぶりに復活〜「エクソシスト 信じる者」に見る、カルト信仰の限界とオカルトのリアル

2024年08月16日 16時23分38秒 | 映画&ドラマ

 正直、期待して見た映画でもなかった。
 エクソシスト・シリーズのスピンオフ作品というイメージしかなかった。だが、いい意味で私の期待を裏切ってくれた作品でもあった。
 ”信じる者”という邦題には少し首を傾げたが、原題は”The Exorcist: Believer”というから、そのまま直訳したものと推測できる。
 世界的な大ヒットを記録し、空前のオカルトブームを巻き起こした、悪魔祓(ばら)いを題材とした「エクソシスト」(1973)の公開から50年。”正統続編”という触れ込みで世界中で公開されたのが、今回見た「エクソシスト 信じる者」(2023)である。
 シリーズとしては、1作目以降に4本の映画が製作されているが、本作はエクソシストの本流で”新たなる挑戦”という位置づけになる。

 第1作の「エクソシスト」では、女優クリス(エレン・バースティン)の娘リーガン(リンダブレア)が、何かに憑かれたかの様に見た目も人格も変貌し、あらゆる近代医療でも治す事も不可能な絶体絶命の状態に陥ってしまう。追い詰められたクリスは藁をも縋る気持ちで、悪魔祓い師(エクソシスト)に望みを託すのだが・・・
 悪霊のオカルトと悪魔祓いのリアルが作品の中でまざまざと描かれ、世界中の観客を恐怖のどん底に突き落とす。一方で、こうした悍(おぞ)しくも凄まじい恐怖の裏で、悪魔祓いが現実世界に即した合理的な行為として描かれている。
 正直、「エクソシスト 信じる者」をひと目見た時、50年前の衝撃が全身を走った。確かに、1作目以降、4作ものシリーズ作品が作られたが、娯楽的展開に偏り過ぎて、続編としては物足りなく感じてはいた。


宗教が作り出す悪魔

 1作目の凄い所は、オカルト映画でありながら、その恐怖を忠実に現実的な視点で描いてる所にある。
 作品内に登場する悪魔祓い師は、精神科医でもある神職者による”宗教的儀式”であり”治療”でもある。この流れは、50年後の”エクソシスト”にも受け継がれている。
 ただ1作目と異なるのは、今度は悪魔が2人の子供(白人と黒人)に乗り移るという点にある。故に、2組の親子の物語が並列に語られる点でも、よりシリアスでスリリングに思えた。
 第1作同様、最初は医学的治療に頼るが、解決には至らず、最終的に宗教的治療を選択する。
 特に、1作目と大きく異なるのは、複数の信仰を取り入れ、カトリック教会の神父だけでなく、ペンテコステ派の牧師、ヒーリングを行うビーハイブ、バプテスト教会の牧師と、4種の宗教が登場する。更に看護師が加わり、儀式の場に医療機材が持ち込まれる。
 故に、複数の信仰による悪魔祓いは、正統なる続編として見ても、非常に新鮮に興味深くも思えた。

 一方で、本作の土台をなすのは、(悪魔祓いと言えど)”宗教に頼る治療に過ぎない”という点にある。言い換えれば、”宗教を信じる力だけで悪霊を打ち負かせるのか?”という指摘もある。つまり、「エクソシスト」シリーズ全般にも言える事だが、悪霊という実体のないものが人に取り憑き、全てを豹変させるという、得体の知れない恐怖感が最初から最後まで存在する。
 だが、その恐怖とは”悪魔”という宗教観に起因する。言い換えれば、信仰があるからこそ恐怖を感じるし、その信仰によって悪魔を打ち破れると考えるのが、”悪魔祓い”の本質である。
 もっと言えば、宗教上の信仰が悪魔を生み出し、その信仰により悪魔を排除する。つまり、昨今の新興宗教がオカルト的傾向からカルト的宗教に変質するのも、不思議と納得できてしまう。

 これは現代社会でもしばし見られる現象で、日常の恐怖を紛らわす為に、私達は悪魔を作り出し、それらを排除する事で安心を得る。中世の”魔女裁判”と思えば理解は早い。
 事実、過去にアメリカが策謀してきた数々の戦争も同様で、”ならず者”国家や悪の枢軸やテロリストを敢えて作り出し、正義の鉄槌を食らわせ、勝利の美酒に酔う。世界の国々はアメリカがいるから平和が守られると信じ込む。
 そう、現代社会における悪魔祓いはアメリカのお家芸なのである。が今や、そのアメリカもペテン臭い正義と共に、戦場では多くの犠牲と矛盾を生み出し続けている。
 更に言えば、嘘は(泥棒ではなく)悪魔とアメリカの始まりなのだ。


信仰と宗教の限界

 第1作「エクソシスト」でのカラス神父は、精神科医であった事から医療と宗教の間で”信仰”を試された。が故に、自らの命を犠牲にし、悪魔を排除する事に成功する。
 一方で本作でも、悪魔に取り憑かれた少女の親たちが儀式への信頼や信仰を持つ事で、悪魔からの誘惑に対抗しうる強い心を手に入れたに思えた。
 だが、結末は(アメリカが仕掛けた戦争と同じく)全てがハッピーエンドでは終わらない。カトリック神父と白人の少女の2つの命は悪魔の犠牲となり、悲しいかな、信仰だけでは悪魔を排除できない事を思い知る。
 つまり、1作目と同様に、命という生贄が必要だったのだ。皮肉にも、共に白人が犠牲となったのは、偶然ではないのだろう。

 そういう意味では、”信じる者”という副題には信仰の限界が、いや白人の価値観の限界と矛盾が含まれてる気がしないでもない。
 エンディングでは、両目を悪魔に潰され、入院していた母クリスと娘リーガンが抱き合うシーンが印象的であった。
 2人とも白人だが、多くの犠牲を乗り越えて、生き延びた結果の出会いとも言える。

 ただ、全世界で1億3700万ドル(約220億円)を売り上げたにしては、評価は芳しくなく、批評家の支持率は僅かに22%で、平均点は4.4/10。
 ”フランチャイズをその恐怖の原点に戻そうとした点は評価できるが、新たなアイデアや恐怖に欠けてる為、新たな3部作のスタートとしては・・・”との指摘がある。
 勿論、見方によればそうかもだが、”新たなアイデアや恐怖の創出”という点では、合格点を挙げてもいい。

 但し、率直な感想を言えば、現代の悪魔祓いには既に矛盾と限界があり、人間の信仰も同様である。更に言えば、宗教が支配する世界にも限界がある。つまり、信仰は崇拝(カルト)にしかなりえないし、その実像はオウムや統一教会などに代表される、極悪非道な反社会的団体に過ぎない。言い換えれば、テロリストと同類である。
 一方で、宗教がもたらす世界は所詮は神秘(オカルト)でしかなく、その世界は大方(映画で描かれる様な)フィクションを超えない。
 つまり、宗教とはカルトとオカルトを行き来する、人為的に作られた奇怪な虚構に過ぎないとも言える。

 ただ、こうした宗教の不透明で曖昧な神秘性を”神父vs悪魔”というテーマで描き、ホラー映画として確立させた第1作「エクソシスト」の存在は、宗教以上の大きな影響力を全世界に浸透させた結果となる。
 そういう意味では、フィクションが宗教を超えた瞬間でもあったが、今回の「エクソシスト信じる者」では、エクソシストを信じてきた者を大きく裏切った結果になったと言えるのかもしれない。
 因みに、今作の登場の後に続編の3部作が用意されてるらしいが、「エクソシスト」はリンダ・ブレアに乗り移った悪魔だけで十分である。

 多分だが、悪魔の背中にファスナーがついてたら?と思うのは、私だけではない筈だ。 



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