象が転んだ

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超人カール•グスタフ•ヤコビ、その1〜アーベルが眺めたもう一人の天才数学者の伝説〜

2020年01月30日 01時55分26秒 | 数学のお話

 超天才リーマン”その3””その4”(要クリック)で、アーベル積分とアーベルの楕円関数論の概要を紹介しましたが、アーベルと言えばヤコビの存在がとても大きいです。アーベル物語を先にとも思いましたが、ヤコビが数学史に及ぼした功績も半端ないです。
 ヤコビと言えば”楕円関数の逆問題”で有名ですが、リーマンの解析接続を導き出す元となった”テータ関数”の発見や関数行列式(ヤコビアン)も見逃せません。
 アーベルの良き親友であり、良きライバルであるヤコビ(Carl Gustav Jacob Jacobi 1804-1851)を先ずは紹介しない訳にはいきませんね。
 しかし、ヤコビに関する著作はあまり見当たりません。そこで、ヤコビの名著とされる「楕円関数論の新しい基礎(フンダメンタ•ノヴァ)」をラテン語原典から世界で初めて翻訳し、「楕円関数原論(2012)」を書いた高瀬正仁氏のコラム”日々の徒然”と、「100人の数学者」を参考に、主観を混ぜての紹介とします。


僅か12歳にして大学入試資格を

 ヤコビはアーベルよりも2歳若く(ディリクレよりも1歳年上)、1804年12月にプロイセン王国のポツダムで生まれ、父は商人で裕福な家庭であった。幼少時は母の叔父であるレーマンに古典語(ギリシャ語とラテン語)と数学を教わる。
 満12歳になる直前にギムナジウムに入学し、何と僅か半年後には最高学年に進んだ。つまり、ヤコビは僅か半年で9年間の初等教育(日本でいう義務教育に相当)を終了し、その上僅か12歳にして大学入試資格を得た事になる。
 しかし、ベルリン大学は16歳まで入学を認めないとの規定があったので、そのまま4年間を仕方なくギムナジウムで過ごした。
 全く退屈な環境の中、超俊才のヤコビ少年はオイラーの著作「無限解析序説」を読み耽った。そして1821年、16歳になったヤコビはベルリン大に入学するも、数学の講義にはあまり出席せず、オイラーやラグランジュの著作を読み続けた。
 というのも、当時のベルリン大ですら数学の講義は初歩的すぎて、すでにオイラーの主要な著作に親しんでたヤコビに寄与する事はなかったのだ。
 ヤコビは数学の文献を益々熱心に読む様になり、特にベルリンアカデミーが所蔵する偉大な数学者の学問の遺産の数々を広く展望しようと努めた。
 偉大な数学者には様々な驚くべき武勇伝?がありますが、このヤコビも三毛猫みたいな愛嬌ある顔をして(笑)、実は凄い才能を持った”数学の超人”だったんですね。


ヤコビの一大決心

 当初ヤコビは哲学と文献学、それに数学の研究を選択してました。その中でも文献学に熱心でした。特に、アカデミーの理事であるベックの注意を惹きつけ、ベックはこの若者をその鋭敏で独等の精神の故に大好きになり、特別に親切にした。
 しかしヤコビは、数学との両立は難しいと判断し、長く迷った末に数学に専念する事を決意する。
 ヤコビは、叔父のレーマンに文献学に別れを告げる苦悩を手紙の中で吐露した。
 ”文献学に打ち込んだお陰で古いヘレニズム生活の精神的な素晴らしさを一瞥する事が出来た。しかし、この探求を更に続けるのは不可能だ”
 つまり、文献学を離れるのは辛かったが、数学の魅力には抗し難かったのだ。

 しかし、ヤコビが熱中した文献学はオイラーを研究する上で大きな意義があった。
 ベルリンの科学アカデミーにはオイラーの足跡が色濃く刻まれてるが、ヤコビはオイラーの諸著作を丹念に調べ挙げ、実際に執筆された時期や科学アカデミーに提出された時期、それにアカデミーの紀要に印刷され公表された時期を特定しようと試みた。
 オイラーのような偉大な先輩に学ぼうとする心情や数学の全体像を見たいという強い願いがあったのだ。ヤコビがアーベルを深く理解する事ができたのも、文献学が基盤となった熱い心情の持ち主だったからでもあろうか。

 ヤコビは、科学アカデミーが所蔵するオイラーなど偉大な数学者たちの文献の調査に熱心に取り組んだが、ヤコビには文献学の資質が元々備わっていたのだろう。
 しかし、単に文献学的に探究するだけではなく、文献に書かれている事にも強く心を惹かれた。前者は文献学で、後者は数学になる。
 つまり、文献学と数学との間で迷ったのも当然ではあったんです。
 ヤコビの天性の素質は、単に知識の収集だけではなく、取り込んだ事柄を完全に理解し制御したいという欲求を感知したが、約2年間に及ぶ大学での研究の後、文献学と数学のどちらかを断念する必要がある事を悟った。
 しかしヤコビが下した決断は、彼にとってだけではなく、彼がその時以来、ひたむきに打ち込んでいった学問にとってもまた、大きな帰結をもたらした。

 つまり、文献学的研究と数学的研究の双方に通じるのは至難だが、この2つは学問の理想でもある。ヤコビが目指したのは、いわばその様な道だった様に思えます(高瀬氏談)。
 因みに、私が今書いてる”数学”ブログもそれを理想としてますが、なかなか難しい。
 数学に偏れば数式や関数臭くなり、大衆から煙たがれるし、文献学になれば数学の本道から大きく外れる。


ヤコビの心情の吐露と数学への衝動と

  ヤコビが叔父に書いた手紙には以下の様に述べられてる。
 ”オイラー、ラグランジュ、ラプラスらの業績が呼び起こした途方もなく巨大なものは、単にその周辺を探索するだけでなく、内部の本性に踏み込んでいこうとすると、極度に大きな思索の力と努力を要します。
 彼らに押し潰される事を恐れる必要はないが、これらの巨匠を凌駕しようと思うと、仕事の全体を展望する事が可能になるまで決して休まないという衝動に追い立てられます。
 もしその精神を理解し制御すれば、彼らの完全な偉大な作品を力の限り、さらに前身させる事もまた可能になります”

 偉大な数学者に学ぶ事のできる人はその人自身もまた偉大だし、一般的にその傾向はヤコビの若い頃から既に現われていたのだ。
 ガウスはオイラーに学んだし、アーベルもリーマンもガロアもオイラーとガウスに学んだ。オイラー、ラグランジュ、ラプラスに学ぼうとしたヤコビもまた偉大だったんですね。

 1823年から翌年にかけ、古典語と数学の教職試験に合格し、1825年にはベルリンのヨアヒムシュタール•ギムナジウムから教職の申し出があった。しかしヤコビはベルリン大でも学位を所得し、大学教授資格を得る。
 親友のディリクレ談によれば、”ヤコビは代数的分数の分解という、すでに何度も取り扱われたテーマを学位論文に選んだ。
 彼はまず初めに、ラグランジュが証明なしに与えた注目に値する諸式を証明し、それから新しい分解の仕方へと歩を進めた。そうしてヤコビは”級数の変形”に関する研究が附随する論文を出したが、その際すでに新しい原理が目に留まった。彼は後の研究の中でその原理を何度も利用しました”


ヤコビの無限解析論

 1825年から翌年の冬学期には、ベルリン大学の私講師として”無限小解析の方法”に基づく曲線論と曲面論の講義を行った。
 無限小解析の方法というのは、今日の微積分を指し、”曲線の理解の為の無限小解析”といった方が正解ですね。
 ヤコビの講義は空間曲面と空間曲線がテーマだったんですが、”無限解析”という強力な手法を武器に、その適用領域を様々に拡大していく所に、この時期の数学が歩もうとした道がありました。曲線論は無限解析の源泉ですが、曲面論は更に難しく、理論形成はまだこれからという状況でした。

 ”無限解析”の根底には理解困難な状況がずっと存在してました。19世紀になりその厳密化が試みられ、その担い手としてはコーシー、ヴァイエルシュトラス、デデキント、カントールらがいます。
 ”ヤコビの名がここに配置される事はないかもだが、無限解析の根底に横たわる困難に対し、ヤコビが全く無関心だった訳ではなく、実際には深い関心を寄せ、具体的な試みを実戦していた”と、ディリクレは語ってます。


最後に

 少し長くなったので、ヤコビの私講師時代突入の所で”その1”を終えます。
 とにかく驚かされるのは、歴史上の偉大な数学者というのは小さい頃から、数学の難題を何ら動じる事なく、当り前のように相手にしてる所です。まるで、小難しいオモチャを扱う様に、ヤコビ青年は”無限解析”という数学史上の最難関に対処してたんですね。
 今まで少なからず紹介したリーマンもオイラーもガウスもガロアもアーベルも、凄まじい武勇伝を持ち合わせてましたが、ヤコビもまたそれらに匹敵いや凌駕する勢いです。 



12 コメント

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僅か12歳で (hitman)
2020-01-30 05:03:06
大学入学ですか?
どんな脳みそしてんだ〜

トランプのボンクラにヤコビ猫の脳みそを
1mgでも分けてやりたいね(^^)
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hitmanさんへ (象が転んだ)
2020-01-30 07:33:22
ヤコビの脳みそよりも
新型コロナウィルスを
たっぷりと禿ヅラに注入してやった方が
まともになりますかな。
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ラグランジュの著作がなかったら (#114)
2020-01-30 15:04:07
アーベルはガウスの影響を受け
ヤコビはオイラーの影響を受けた
でも二人とも
ラグランジュの著作がなかったら
楕円関数論の偉業もなかったろうか
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#114さん (象が転んだ)
2020-01-30 21:54:29
何だかラグランジュやルジャンドルについてもブログ立てたくなりました。
コメントどうもです。
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ラグランジュじゃなくて (#114)
2020-01-31 17:50:54
ルジャンドルの方
数論ではラグランジュの
影響も強く受けたんだけど
楕円関数はルジャンドルの著作だった
失敬!失敬!
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#114さん (象が転んだ)
2020-02-01 01:30:06
いいえこちらこそ
ヤコビはラグランジュもルジャンドルの著作も読んでます。
ただ、ラグランジュは無理としても
ルジャンドルは追い越せるとは思ってたでしょうか。
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ヤコビとアーベル (paulkuroneko)
2020-02-02 00:22:56
ヤコビはガウスの友人であるシューマッハーに手紙を送り、楕円関数の変換理論を伝えました。シューマッハーは「天文報知」という学術誌を主催してましたから、ヤコビの業績をヨーロッパ中に広めるのに役立ちました。

一方、アーベルもクレルレという友人のお陰でクレルレの数学誌に貴重な理論を搭載できました。
そういう意味でもヤコビとアーベルは非常に共通点が多かったんですね。
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paulさんへ (象が転んだ)
2020-02-02 05:48:59
確かに
ただ、シューマッハーがヤコビの手紙を完璧に理解してたかは疑問ですが、ルジャンドルの理解を得られる確信があったんでしょうか。
そういう意味ではヤコビにはツキがありました。逆にアーベルはツキに見放された感がありますね。
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∫dψ/√(1−κ²sin²ψ) (Unknown)
2020-02-06 07:31:06
で示される
第一種楕円関数という積分
をどう変換すんの?
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Unknownさん (象が転んだ)
2020-02-06 10:34:18
超簡潔に言えばですが。

ヤコビはルジャンドルの第一楕円関数を、楕円積分∫dθ/√(1−c²sin²θ)という形に表記し、∫dθ/√(1−c²sin²θ)=n∫dφ/√(1−c²sin²φ)が成立する様な”変換”を探索し、n=2は勿論、n=3と5の時にも見つけ、ルジャンドルを驚かせたと言います。

これを書き換えると、∫dx/√(1−x²)(1−c²x²)=n∫dy/√(1−x²)(1−c²y²)となりますね。これがヤコビの変換理論と言われます。

変換理論の原理は、もっとややこしいのですが。今日はこれでご勘弁をです。
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