前のエントリーで、表現者の欲求についてちょこっと書いたので、大ちゃんのバチェラレットについてももうちょっとだけ。例によってイタイので、危険を感じた人は避難して下さい。
あと、私の書いてることは妄想です基本的に。あんまり事実には基づいてないので、信じないで下さい。
表現者とかアーティストとか色んな言い方があるけど、ひっくるめてクリエイターと呼びます。師匠(仮)に言わせれば、クリエイターというのは職業ではなくて、そういう人を指すらしいので、ここではそういう定義で。
***
前のエントリーで書いたのは、「クリエイターとして名声を得ること」、「自分の作品が認められ、才能を自己確認すること」という2つの欲求でした。でも本当はもっと大切な、根源的な欲求があります。
それは「創ること」そのもの。もうちょっと言うと、自分の中で「創る」という行為は自動的に出来る。創ろうとしなくても勝手に出来てしまうというのがクリエイターという「人種」であって、その自分の中に出来たものをどうにかしてカタチにしたい、自分の空想の産物に過ぎない、忘れてしまえばそれっきりのものを、何とかして現実にしたいというのがクリエイターに取って最も根本的な欲求かなと思います。
***
バチェラレットを見て思ったのは、この人やっぱりクリエイターだったんだなということでした。
スケーターとして(試合ではアスリートとして、ショーではエンターティナーとして)、見る側に強く訴える表現は必要で、そう言った点では流石にモロゾフさんは非凡だし、大ちゃんもよく彼の表現を消化していたと思います。
「オペラ座の怪人」みたいな超メジャーな作品は、本来マニアックなのが好きそうな大ちゃんに取っては最初は抵抗があっても不思議はないかなと思うんですが。それでもいざやるとなると、ファントムにがっつり感情移入してやり切りましたよね。
でも多分、それだけでは彼の、クリエイターとしての本能は満たされなかったんだろうなあと。そうして出来たのが「バチェラレット」だったのかなあと。
上手く言えないんですが、「今までとは違ったカラーで」とか「他の人が余りやらない曲で」とかそういう対外的な理由ではなくて、もっと彼の内側から出て来た欲求に従った結果なんだろうなあと。
スケートそれ自体に興味のなかった私が、例外的に彼にひっかかったのは、多分彼がそういう人だったからなんでしょうね。クリエイティブ畑でガチで戦ってる人たちと同じ匂いがするから。
最初に「ノクターン」を見た時にはその感性にびっくりしたんですが、「バチェラレット」では、彼のクリエイターとしての意識の高さに驚かされたような気がします。
***
ちなみに、私がバチェラレットを見てまず最初に感じたのは、何かすごく根源的というかプリミティブな踊りの表現だなということだったりします。
最初に見た時、一瞬裸足で踊っているように見えたんですよね。
舞踏が娯楽とか芸術になる前の、宗教的儀式だった時代を思わせるような踊り。
それも近代宗教のような洗練されたものではなくて、万物に精霊が宿るといったような原始的な宗教観の中で、人間に見せるためではなく神々に捧げるために踊っているような。
「人間ではないような、何かに取り憑かれているような」とは本人の言ですが、何か守護霊獣(トーテム・アニマル)みたいなものの動きを模した踊りを通して、自身の体に神霊を降ろそうという、そういう儀式的なものを連想しました。
別に特定の宗教ではなくて、日本的八百万でもネイティブ・アメリカンでも別に何でもいいんですが。ていうか、そういった信仰の根本にあるものは共通していて、その共通した普遍的な部分を表現してるのかなと思った訳です。
森羅万象、この世界に宿る、目には見えない「何か」に対する畏敬の念。人間の思う善悪では割り切れないもの。人知では理解し得ないもの。けれど同時に人間の無意識の領域に潜んでいて、理性によって覆い隠された本能を呼び起こそうとしているもの。
近代化された世界では、表向きそういう「何か」は「ない」ということになっている(キリスト教なんかにかかれば、「それは悪魔だ」と切り捨てられて終わりそう)。だけどやっぱり皆、心のどこかで「「何か」があるんじゃないか?」と思い続けてません?
だから本来科学技術の産物であるはずのビデオテープに、死者の恨みの念が取り憑いて人を呪い殺すような映画がヒットするんじゃないんでしょうか。
…という訳で、話が再び和製ホラーに戻って来ました(笑)。
要するに、入口はドコでもいいんですよね。和製ホラーでも民俗学でも。深く掘り進めて行き着く所は同じ。目を凝らして覗き込む、何も見えないけれど「何か」がそこにいる不可視の領域。
…たかがスケートでここまで思考がぶっとばせるからこの人の表現は面白い…。
あと、私の書いてることは妄想です基本的に。あんまり事実には基づいてないので、信じないで下さい。
表現者とかアーティストとか色んな言い方があるけど、ひっくるめてクリエイターと呼びます。師匠(仮)に言わせれば、クリエイターというのは職業ではなくて、そういう人を指すらしいので、ここではそういう定義で。
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前のエントリーで書いたのは、「クリエイターとして名声を得ること」、「自分の作品が認められ、才能を自己確認すること」という2つの欲求でした。でも本当はもっと大切な、根源的な欲求があります。
それは「創ること」そのもの。もうちょっと言うと、自分の中で「創る」という行為は自動的に出来る。創ろうとしなくても勝手に出来てしまうというのがクリエイターという「人種」であって、その自分の中に出来たものをどうにかしてカタチにしたい、自分の空想の産物に過ぎない、忘れてしまえばそれっきりのものを、何とかして現実にしたいというのがクリエイターに取って最も根本的な欲求かなと思います。
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バチェラレットを見て思ったのは、この人やっぱりクリエイターだったんだなということでした。
スケーターとして(試合ではアスリートとして、ショーではエンターティナーとして)、見る側に強く訴える表現は必要で、そう言った点では流石にモロゾフさんは非凡だし、大ちゃんもよく彼の表現を消化していたと思います。
「オペラ座の怪人」みたいな超メジャーな作品は、本来マニアックなのが好きそうな大ちゃんに取っては最初は抵抗があっても不思議はないかなと思うんですが。それでもいざやるとなると、ファントムにがっつり感情移入してやり切りましたよね。
でも多分、それだけでは彼の、クリエイターとしての本能は満たされなかったんだろうなあと。そうして出来たのが「バチェラレット」だったのかなあと。
上手く言えないんですが、「今までとは違ったカラーで」とか「他の人が余りやらない曲で」とかそういう対外的な理由ではなくて、もっと彼の内側から出て来た欲求に従った結果なんだろうなあと。
スケートそれ自体に興味のなかった私が、例外的に彼にひっかかったのは、多分彼がそういう人だったからなんでしょうね。クリエイティブ畑でガチで戦ってる人たちと同じ匂いがするから。
最初に「ノクターン」を見た時にはその感性にびっくりしたんですが、「バチェラレット」では、彼のクリエイターとしての意識の高さに驚かされたような気がします。
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ちなみに、私がバチェラレットを見てまず最初に感じたのは、何かすごく根源的というかプリミティブな踊りの表現だなということだったりします。
最初に見た時、一瞬裸足で踊っているように見えたんですよね。
舞踏が娯楽とか芸術になる前の、宗教的儀式だった時代を思わせるような踊り。
それも近代宗教のような洗練されたものではなくて、万物に精霊が宿るといったような原始的な宗教観の中で、人間に見せるためではなく神々に捧げるために踊っているような。
「人間ではないような、何かに取り憑かれているような」とは本人の言ですが、何か守護霊獣(トーテム・アニマル)みたいなものの動きを模した踊りを通して、自身の体に神霊を降ろそうという、そういう儀式的なものを連想しました。
別に特定の宗教ではなくて、日本的八百万でもネイティブ・アメリカンでも別に何でもいいんですが。ていうか、そういった信仰の根本にあるものは共通していて、その共通した普遍的な部分を表現してるのかなと思った訳です。
森羅万象、この世界に宿る、目には見えない「何か」に対する畏敬の念。人間の思う善悪では割り切れないもの。人知では理解し得ないもの。けれど同時に人間の無意識の領域に潜んでいて、理性によって覆い隠された本能を呼び起こそうとしているもの。
近代化された世界では、表向きそういう「何か」は「ない」ということになっている(キリスト教なんかにかかれば、「それは悪魔だ」と切り捨てられて終わりそう)。だけどやっぱり皆、心のどこかで「「何か」があるんじゃないか?」と思い続けてません?
だから本来科学技術の産物であるはずのビデオテープに、死者の恨みの念が取り憑いて人を呪い殺すような映画がヒットするんじゃないんでしょうか。
…という訳で、話が再び和製ホラーに戻って来ました(笑)。
要するに、入口はドコでもいいんですよね。和製ホラーでも民俗学でも。深く掘り進めて行き着く所は同じ。目を凝らして覗き込む、何も見えないけれど「何か」がそこにいる不可視の領域。
…たかがスケートでここまで思考がぶっとばせるからこの人の表現は面白い…。