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"Life is either a daring adventure or nothing at all"

数か月ぶりのお稽古

2018年11月19日 19時12分14秒 | ジャズダンス
イモウト 「お姉ちゃん、幸せ?」

私 「うん♡」

イモウト 「やっとダンス行けて良かったね」

イモウトは私が辞めそうになったことは知らない。
こんな抽象的なこと説明できないし。

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新しい方がいらした & 振りは進んではいなかったが、
まったく変わっていた所があった。
(新大阪と池田の振りは、同じ曲で違う振りの時がある)

マットの上に直接座るのが怖くて、クッションの上でストレッチ、
何回か転がり落ちる私。

でもしっかり伸ばして気持ち良かった〜♡

褥瘡の方には負荷をなるべくかけず、自己判断で!



今座っている、今回作って戴いたクッションに座り、
移動支援で稽古場に行き、
もともとのモールドシートをでっかいトートに入れて、
いつものお稽古バッグにはお稽古着と、シューズ、水、タオル、車椅子カバー
& 斜めがけバッグ




朝、母に「引越し?どこ行くの」

「お稽古」
母、絶句。



泉先生 「なんで2つもクッション持って来たん、荷物になるのに。この褥瘡用のだけでいいやん」

私 「これだと回転したらひっくり返りそうで怖いんです」

泉先生 「しばらく回転しなくていい」


ちーん。
次の新大阪は身軽で行こう…



稽古場の皆様も、久しぶり、大丈夫?と声をかけて下さり…



ストレッチの時も

フロアの時も
(特に泉先生の説明とお手本見てるとき)

コンビネーションでも
(振りが違ったがキックボールチェンジだったから←多分 

「あ、私知ってる。お稽古してきたから知ってるんだ」

と思った)



私、


これを全部、衝動的に辞めようと思ったんだな…
ほんとに泉先生に止めて頂いて良かった…



ジブンニハクシュの時間、幸せで心が破裂しそうになり、
息が苦しかった。



クラスの方が石橋の赤い橋まで送ってくださり、大荷物も助かりました。



私、辞めてどうするつもりだったんだろ。
きっと、良く生きていく果てしなさと重さにクラクラ来たんだな。
導かれてよく生きる感覚が怖くて、すくんでしまった。。

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いろいろ課題があって、様々な意見があって、
でも具体的にどうしたらいいか結局わからないままきて、
すべては自分という状況に慣れてるので、
自分の手に負えなくなったら

引く。

この行動パターンは慣れてる。



ダンスだけじゃなくて、


「こうしたほうが上手くいくかもよ」


という事柄を厳しく注意されても、いつも希望の残る話し方をされて、

"ここ"にいてくださっているので、

逆に逃げ場がなく。。。



「ほら行くよ」

っていう、命の旅路を進む(止まらない)

厳しさでもあり優しさでもあり。。。


私にできるのだろうかと不安になり、

でも

できるだろうと思われているから注意されているのであって。



忘れないように、

充分クラクラきて、

幸せで、

心弾けそうなパンパンな気持ちを覚えておこう。

赦し

2018年11月10日 13時13分02秒 | 二分脊椎
私は両親、特に母に複雑な想いを抱えていた。

父はメイゴが生まれた直後くらいまで、
アンガーマネージメントの課題があり、
昭和ということもあったのか、いまだと虐待に入るような感情の爆発があった。



しかし数年前、父はそのことについて謝ってくれた。
父は母子家庭で育ち、父親というものを知らず、
働きに出ていた(私たちには)祖母に代わり曾祖母に育てられた。
貧しく、大学は諦め、就職も時代は母子家庭では難しかったらしい。



母はサラリーマンと専業主婦の祖父母の元、高校からは私立の女子高で寄宿舎生活。
その後、大阪で就職し、父と出会う。

家事も料理もしたことがなく、寄宿舎のあとは寮生活で、食事も出ていたらしい。
若くして結婚し、若い母親、もちろん二分脊椎のことなど分からない。
父は、私より、障害がある子を産んだ母が心配だったらしい。

母の最初のに二分脊椎のニュースの反応は
「仕事を辞めないといけないのかな」
だったそうだ。



小児病棟に入院していた私を置き、買い物に出かけたり、
他の母親が泣いたり落ち込んだりしていた時に、買い物や用事に出ていたらしい。
確かに私は看護師に見守られているし、四六時中いる必要もない。
だだ、看護師さんたちはびっくり!(笑)

結局母は、育休(の間に私は2回の手術は終え)の後、
まるでNZ人のような家事育児をする父と、両方の祖母、
母の友人の助けを借りて、仕事に復帰した。
私は地元の保育園へ。



偶然当選した公団があった市が、統合教育推進地域だった。

仕事もあり、信頼していたドクターが転勤し、短下肢装具を作る以外、私を病院に連れて行かなくなった。



地元の小学校では、筆舌に尽くしがたいいじめを受けた。
両親は、いじめられたらやり返せ、というタイプ。
でも相手は健常児。身体能力的にやり返すのは無理がある。

また両親は、最初からいじめられるようなことはするな、
馬鹿にされるなというタイプでもあったので、
イモウトが7つ下で生まれ忙しかったのもあり、両親には言わず。

また、「馬鹿にされていじめられている自分」を知られるのが恥ずかしかった。


高学年になると、身体能力も口もさらに発達してくるので、
階段から突き落とされたり、
身の危険も感じて今でいう不登校になった。
絶対にこの子たちと同じ中学にはいかない。度が過ぎて殺される、と思った。




不登校でも行ける、内申書のない、自力で通える母校を見つける。


学院時代はまだイモウトは保育園。
帰宅時にスーパーに行き、保育園に迎えに行き、
夕食を作って食べさせ、お風呂に入れて洗濯を回し、
干している頃に両親が帰宅。

就寝に厳しく10時だったので、数時間英語の勉強。
常にイモウトの友達が出入りしていたので、勉強どころではなく、
4時起きで勉強(英語だけ。笑)
入学の条件が「自分でお弁当を作る」だったので、お弁当を詰める
(まあ夕飯は私が作ってるんだが)
たまに見かねて父が作ってくれた。


母の同僚の子供たちは皆、やってる、と。
認められたくて、そしてなんというか、
五体満足で生まれなかった負債?を返したくて。

健常だったらいじめられず、税金で行ける公立に行けたのに悪いな、
と12歳の脳は思った。←イモウトは私立高校から短大。笑

(ちなみにイモウトは同じ頃、同僚の子供たちは・・・と同じように言われたらしいが、さすが下の子、冗談じゃないとやらず。笑)



とりあえず、申し訳なかったのだと思う。



学院に入ったとき、野放しで、障害がある私を心配した先生方が、
ある障害児施設を紹介してくださった。


そこから紹介された病院で、褥瘡が見つかった。
4年生くらいのプールでひどく打ち付けてから弱くなったので、3年くらい放置。
よく感染しなかったもんだよ。
(熱がよく出てて、風邪だと思ってたけど、褥瘡や膀胱炎だったのかも)


膀胱直腸障害のため、腎臓や膀胱を検査し、そこで暴行にあい、医療から離れていった。

いじめと同じ理由で両親には言えず、学校の先生方の善意が分かっていたので誰にも言えず。



そして、私の怒りだか憎しみだかよくわからないが、
許せない感情は、定期的に病院に連れて行ってくれなかった、
二分脊椎を理解できない両親へ向かった。


進路は、自力で行ける大学が日本になかった。
英語しかできなかったし、当時は車椅子でもなかったので、


アメリカに行こう、
と15歳の脳は思った。

90年代、ドラマはアメリカから来ていて、車椅子の人が出ていた。

結局クライストチャーチに行き、翌年シャントが詰まって緊急手術があったので、アメリカじゃなくて良かったのだけど。




人は(日本にずっといる日本人)

お母さんも精一杯だったんだよ。
お母さんもベストだと思ったことをやったんだよ。
私立に行かせてもらって、留学もさせてもらったんだからチャラだよ。
ご両親なんだから許さなきゃ。
家事も、ご両親が自立させるためにさせたから、留学できたんでしょう。
あなたも子供を持ったらわかるよ。

と言う。

*面白いことに英語人や外国にいたことのある日本人は違う反応




でも、私も、子を産んだイモウトも
母の行動が理解できずにいる。

私は産まなかったが、メイゴを就学まで育てた。

もしメイゴが二分脊椎だったり、何か障害があれば、
なにをかけてでも将来が楽になるように、

せめて病院には連れて行く。




先日、母校の交換留学や留学プログラムについて母と話していた。
ヨーロッパやフィリピンのアサンプションの中には、超絶お嬢様学校があったりする。

フィリピンなんかの子は、ドライバーがいたり。

母 「そんなんだと社会に出たとき困るでしょうに」
私 「日本人の障害児も似たようなもんだよ。
   個人的なドライバーはいないけど、それが母親なだけ。
   ずっと一緒の人もいるらしいよ」

母は、思春期の子なんて嫌がらないのかしら…なんて、健常児ママチックなことを言っていた。
まあ、まっとうな反応。


そしていきなり


「あなたもそんな母親が良かった?」え。


しばらく考えて


私 「そんなコアラかヘリコプターみたいな24時間べったり営業みたいな母親は気持ち悪い。
ノイローゼなるわ。
でも、病院だけは連れて行って欲しかった。
そしたら、膀胱拡大術もカテーテルをしてくれてたら防げたかもしれないし、もしかしたら、暴行も受けなかったかもしれない」



だいたいこの手のやり取りは口論で終わるのだが、その日は


「身体のことは、本当にかわいそうなことをしたと思ってる・・・」


と初めて言われた。



びっくりして言葉が出なかった。

13歳から、悩み、苦しみ、この言葉が欲しくていろいろやった。

思いがけない時に、思いがけない場面で祈りがかなえられた。


イモウトはまだ、同じ母親として
私の障害についての両親の在り方には思いがあるみたいだけど、

私は、
死ぬまでこの思いを抱えて、
このまま複雑な母娘関係でどちらかの死を迎えると思っていたので、
肩の荷がおりた。


この一連の人、両親はとばっちりを食っているが、
私に罪をおかした人に対して許せずにいる私に、
告解や神父様、シスター達は、


「神様、私は許せませんが、あなたが私のために許してください」
と、祈りなさい、と教えてくださったので
洗礼を受けて12年? そう祈ってきた。


もうその祈りも必要ないのだな。


許しは、自分のため、というけれど、

ただ「許そう」と思って許せるものではなく
時が満ちたとき、

与えられるものなんだな、

と思ったのでした。