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"Life is either a daring adventure or nothing at all"

お帰り いらっしゃいませ 初めまして(?)

2007年05月23日 21時04分44秒 | 海外
NZ時代の友人が帰省していてに夕飯に来てくれた。久しぶりにローストチキンをしたら(クリスマスは導尿事件でローストどころではなかった)感覚を忘れて焼きすぎてぱさぱさっぽくなったけど、(まあダンナと二人じゃわざわざ焼かないか・・・準備は簡単だし見栄えが良い)と、いつものEasyな

一年くらい会ってないのに、今はがあり、あまり長い間離れていた気分はなかった。ただ母とは2年ぶりくらいなので、母は懐かしかったらしく、よく喋っていた。でも・・・例のは…
ちゃん、「帰ってきた」ってどこいってたん?』

『マレーシアだよ』
『マレーシアで何してたん』
『マレーシアで住んでるんだよ。結婚してがあっちにあるんだよ』
『じゃあ何で日本に「帰ってきた」ん、マレーシアにあるのに』
か(忘れた)『あっちにもこっちにも家があって家族がいるんだよ』

『ふ~ん・・・』(結局わけが分からない

さんにも、ちゃんにも、お互いの話をたくさんしていたので、さんにも来ていただいて母もみんなでおしゃべり。
がよく話をしていたので『はじめまして(・・・)』というくらい、は、さんの二人が、昔からお互いを知っていたような錯覚に陥った
の友達は年齢人種国籍問わず、何か共通するところがあって(どっかいわゆるdifferent普通に見えてもdifferentちゃんも、さんもたくさんお話してくれての‘2 important people of my life’が会って、いい時間を過ごしてくれたようでとても嬉しかった

の記憶にはないのだけれど、さんが三人で英語で喋った一幕があったらしく、ちゃんがマレーシア人なのか、日本人なのか、NZ人なのかよく分からなくなってしまったらしい
まあいいや・・・

母は『英語喋れたらいろんな国の人と喋れて便利でしょ』とに言っていたけれど、日本人だとが思っていた私たち三人(100%日本人なのだけど。たまたま英語が話せて、たまたま海外経験があっただけなのだけど)は

には『ちゃんも、も、○○さん(代母さん)もみんな日本人じゃなくて、Englishの人だったの?』
ちょっとややこしかったみたい。(「の家族だよ」と家族関係を説明しても、国籍と言語と民族は的には、家族で必ずしも同じでなくても良いらしい。世の中にはそういう家族もいるけれど・・・

(ちなみに100%NZ人の白人の友達、教会のベルギー人の神父さま、幼稚園のスペイン人のシスターが日本語がべらべらなので、は最近、もともと混乱中。)

は数年前、幼馴染とちゃん(in Malaysia)と遊びに行ったことがある。関西のと関東の幼馴染なので、ちゃん最寄空港で待ち合わせ、帰りは最寄空港から首都クアラルンプールまで一緒に行き、成田と関西行きのに分かれた。

屋台のおいしさに4日間で3キロ太り
同じく幼馴染も3キロ太って
いまだ忘れられず
は近々(の近々はスパンが長い
また行くつもり
きっとさんも都合がつけば行くでしょう

解散してから、ちゃんも、さんも、お互いのことを『もっとソフトなかんじだと思ってた』らしく、その理由も『下の名前の印象』
・・・にはあんまり『ソフト』な友達はいない。『ソフトに見えるけど、実は・・・』と、何か個性が付随する友達ならたくさんいる

でもは(なんだか二人とも似たようなこといってるな~)と思いつつ、お二人を『ソフトでやわらかい(だけ)』と思ったことのなかったはちょっとびっくり。

ちゃん、残りの日本、たっぷり満喫してね



一歳半

2007年05月18日 20時22分49秒 | こども
ペット番組を見ていた

うちはマンションなので原則的にペットの犬や猫は飼えない。それがには不満

も犬飼いたいな~」
は犬より猫が好きだな~NZでも二匹飼ってたし。はどんな犬が飼いたいの?」
(サッカーボールくらいの丸を両手で作って)「一歳半の犬

一歳半犬の種類とか色じゃないのね・・・

Port Liner

2007年05月14日 21時29分48秒 | 二分脊椎
入院していた病院で、たまたまWOCナースという人がいて、「じょくそう」を診てもらったら「この先生なら治る」という先生を紹介していただけることになり、今日、神戸の病院に行ってきた

なにがビックリだったかと言うと、ずっとは神戸のポートライナーというものは「船」だと思っていて、今日もJRから船に乗っていくと思っていたなのに駅に着いたらモノレールだった

英語の響きでPort Linerと聞いたらなんとなく、神戸港の中を巡回する水上バス系の、先がとんがった高速ジェットみたいな船を想像して、そんな船に駅があるなんて、昔からさすがハイテク日本やな~と感心していた。紛らわしい英語・・・

病院は素晴らしく、どこかハイテクで関西空港を思い出させるような病院。
各診療科の待合はなぜか出発ゲートみたいで、会計やロビーはチェックインカウンターを思い出した
先生も名医と評判なので、堅苦しいドクターかと思ったら、宇宙人みたいなところもあり、無事の病院恐怖症やドクター恐怖症は克服されたと証明できるほど、拍子抜けした

すべて良かったのだけど、車椅子トイレ。

便座の真後ろに、バーになってるタイプでつかんで押し下げる流すもの?があった。体がねじれない人、立って振り返れない人、手の力のない人は流せない。

そこで考え出されたであろうものがこの、床にあるボタン。
でも・・・立てなかったり歩けなかったり、踏めなかったりするから、普通は車椅子にのるわけで、どうやって手も足も不自由な人は、このトイレを流すんだろう・・・と思った。
一回車椅子の前輪で踏めるかやってみたけれどうまく行かなかった。

それを母にメールしたら「の学校(がバリアフリーチェックに行った母校)みたいに、実際に車椅子の人を呼んで作ったらよかったのにね。」たしかに、建築って想像でバリアフリーにしてるのかもしれない。

はチビなので、電動車いすの人が楽に乗り移れる高さの便座に座ると、脚が地面についていないので、ぴょんと飛び乗ってぴょんととびおりるので、導尿のときや前かがみになったとき、おでこから数回落ちたことがある

でもバリアといっても、ある人にはバリアでもある人には必要だったりするから、むつかしいなあと思った

竜宮城

2007年05月11日 19時56分03秒 | こども
は来週「お泊り保育」

琵琶湖に家族や友達と行ったり、家族の大人の誰かの友達のに、「同伴で」泊まりに行ったことはあるけれど(たとえばと、の友達のに、ともども泊まりに、とか)だけどこかに泊まりにいく、という設定は今までなかった。
伯母のの両親、つまりの祖父母も一緒に住んでいるので、は「おじいちゃん、おばあちゃん、おばちゃんのに泊まりに行く」というのもない。

、「お泊まり」は気乗りしないらしい。

去年の教会のお泊り会のとき、が泊まるならも泊まろう(年長からは一人で泊まれる。でもは信者なのでスタッフだからどっちにしろ一人ではないのだけど、「お泊りはしない、一回帰って次の朝また来る」
今年、YMCAを始めたのだけど、キャンプは

他の子はお泊り保育の歌を歌ったり、話題に出るけれど、
泊まる場所の名前
泊まる日付(がの生年月日の「日」と同じ)
そして聞くと
歌を2曲昨日初めて歌ってくれた。(いやいや)

その代わり、現実逃避か母の日の話と、が小学校に行ったら・・・という話をする。

今日、幼稚園から泊まる場所の(お寺)パンフレットをもらってきた。(写真参照)そして
たち泊まる、●●ジ(お寺というものがもう一つは理解できないので「~~ジ」という一つの名前だと思っている)って雲の上なの
確かに紛らわしいCG・・・
すると母が「雲の上って竜宮城かいな・・・」と呆れた。
「リューグージョーって?」
「浦島太郎が亀にお礼に連れられて行った海の底」(また適当な説明・・・
そこではたと
「おかあさん、竜宮城あるのって海やん、雲ちゃうやん
・・・大ボケ家族・・・

どっちにしろ、は海の底でも、雲の上でも、地上でも気乗りしないのには変わらない。。。







思い込み

2007年05月10日 12時03分47秒 | Weblog
ブックマークに入れさせていただいている「てる・てる・てるリンのホームページ」のなかの掲示板、「花言葉」
は毎日覗いていて、ここ数日思い込みの話をが書き込んだ。
内容としては、は「白内障は世界が白く見えて、緑内障は世界が緑に見えると、かなり大きくなるまでおもっていた」と
すると何人か反応があって、面白かったので両親に読み聞かせたら(うちはがリビングにある)両親はの無知さに呆れてしまった

の家は父以外、女で、父がコーヒー、母が紅茶、高校生までも妹も紅茶を飲んでいた。
はまだジェンダーなんて興味もなく、父は男だから、黒い飲み物のコーヒーを、私たちは女だから赤い飲み物の紅茶を飲むんだ、と思い込んでいた

は中高一貫の女子校に通っていて、生徒会が動いてジュースの自動販売機が入ったとき、缶コーヒーが自販機に入っていて(もちろん紅茶もあった)、はてっきり男性の先生方用だと思っていたのに、生徒が(女子)缶コーヒーを買って飲んでいるのを見てビックリ

帰って父に、恐る恐る「コーヒーが飲みたいんだけど・・・」
父「忙しいから自分で入れなさい
は父にコーヒーを入れていたので入れ方は分かっていた。
(いいのかな~ホントに飲むよ~ホントに飲むで~)と思いながら「コーヒー飲むよ

「何回言うねん、飲んだらいいやないか

おいしかったです。それからはコーヒー党。
実はあんまり紅茶は得意ではなかったのだけど、飲めないわけではなく、母と妹はコーヒーが飲めないから紅茶を飲んでいた、というだけだった。

はかなり思い込みが激しいので、日々ビックリ仰天するでも、まあ日々発見があって飽きないけれど・・・

でもの無知さに呆れた父が「キクラゲってあるやろ?あれ、なんかクラゲに似てるやん。だから木にもクラゲがおるねんなとおもってた時期があった」

あんまりのこと言えないじゃん、おとうさま・・・





文明の弱さ

2007年05月08日 21時29分11秒 | Weblog
退院後、初めての外来。
タクシーで最寄り駅に出て、地下鉄で一回乗り換えて、一時間。
駅員さんに連絡してもらって、乗換駅でも車椅子を押していただき、病院の駅でも改札から出口までかなりの距離があるので押していただいた。いつもは自分で押す、というかこぐ、というか、まわす?転がす。
(英語では車椅子は自分が動かそうが他人が動かそうがPushだけど、日本語ではおしていただくけれど、自分で操作する場合はどうなんだろう・・・

でも退院後初めての遠出だから、体力温存しようとお言葉に甘えた

病院への出口は改札を出て、構内の端っこまで平坦な道を行って、その後延々とゆるやか~~~な全面点字ブロックのスロープが、二回お休み(踊り場というのか)があった後、エレベーターまで続く。はそのスロープで疲れてしまう(その代わり帰りは、両手を離してもタイタニック状態で下りられる

連休の谷間にバタバタと退院したので、診察券を病棟に忘れたまま帰宅してしまったので、病棟に上がり券をもらい、尿検査を出して脳外科へ。1時間遅れ、でもに異常なし
泌尿器科まで時間があったので「お昼食べてきて」と言われ、院内のカフェでお昼を食べて外来へ。

診察室にいるはずのドクターやナースがフロアにうじゃうじゃ。

泌尿器科に行こうとしたら泌尿器科の受付ナースが
「あ、さん、うわさ聞いた?」
「えなんですか
・・・行っちゃった・・・

すると脳外科外来のほうから、先ほど見ていただいた脳外科のドクターと、NZ人のドクターが二人で連れ立ってやってきて
さん、うわさ聞きました?」
「何のうわさなんですか?」(今度は逃がさない、なんのうわさかきいてやる~

の脳外科の診察の後で、ドクターがもう一人患者さんを見た後、病院のコンピューターが止まってしまったらしい

ネットにはつながるけれど
ネットにつながっても電子カルテが開かない
検査結果が分からない
予約が入れられない
投薬が出来ない
会計が出来ない・・・

「診察中断」

そしてその内容の院内放送が流れた
白衣のうじゃうじゃは、診察が出来ないし復旧までにっちもさっちも行かないので

「お昼ごはん食べに行こう
「なんか食べるもの買ってこよう」という人々だった。

は院内ポケベルをもらって(順番が近くなると鳴る)病棟へ。
まだ退院して一週間だから、何人も入院しているのでおしゃべりに
結局ポケベルが鳴ったのは3時間後
でも一部だけが戻っただけでドクターは手書きでカルテを書き
(「この用紙どう書くんやったかな・・・」などと言いながら)、
院外処方も手書き
検査結果は電話、かなり原始的な診療だった。
は結果良好

病院全体がいわゆる混乱状態なので、会計は紙類を渡して、保険証や医療証をコピーして次回に払うことに

は待っている間、病棟でおしゃべりできたけれど、まちぼうけを食らった人や、機能しない病院、手持ちぶさた(あら?てもちぶたさ?)なドクターやナースは大変だっただろうと思う
すべてがコンピューター化されてきていて、一見便利だけどこんなことがあればって便利なのか、不便なのか良く分からなくなってしまった

院外処方は薬局にFAXしたのだけど、も混乱して
今日、薬を取りに行かなきゃいけないのか、明日以降でいいのか、
また病院で薬局カードを作らなくてはいけないといわれたけれど、それは病院で作るのか薬局で作るのかわからなくなって
薬局に寄ってから帰宅した

結局大した検査もなく、問診だけだったのになんだかとっても疲れてしまった

でも、経過は良好なようなのでよかったよかった
夜も起きなくて良くなって、日常生活に戻る準備着々

今日は早く寝よう・・・


電車の席

2007年05月06日 21時29分59秒 | こども
「きのうな、琵琶湖から大阪に帰ってくるとき立ったの」
「いっぱいやったん?」
「ううん、はいどうぞ、って」
「席をお譲りしたのね
「セキヲオユズリってなに?」
「・・・が座ってた席やん、いす?おじいさんかおばあさんか、あかちゃんいるひととか、みたいなどっか悪い人に代わってあげたんでしょ。」
「ううん、男の人と女の人が立ってたから代わった」
「どっちが座ったの?」
「女」「その女の人、おばあさんやった?あかちゃんおなかにいた?どっか悪かった?」「ううん」「・・・あらそう・・・」「なんで?」
「いやぁ~、が代わってあげたのはさ、の優しい気持ちがあったからは誰に代わってもいいんだけど、ふつうはお年寄りとか、赤ちゃん連れとか、おなかに赤ちゃんいる人とか、足やら目やらどっか悪い人に代わるんだよね・・・優先座席っていうのよ」
「お年寄りって?」
「おじいさんとかおばあさん」
のおばあさん、Nanaやで、でもおばあさんやけどおばあさんじゃない(50代初めなので)。でもの父、の祖父)は頭さらさらやから(髪の毛が薄いという語)おじいさん。」
、おばあさんってどんなひとかわかる?」
「顔に線が入って耳聞こえなくなって、大阪弁とか、普通の日本語(標準語)喋らない人」(それはの88歳の祖母の方言・・・
「じゃあおじいさんってどんな人?」
「髪の毛のない人!」
「じゃあお坊さんは???」
「お坊さんって何?」
「お寺にいる、神父さまみたいな頭つるつるの人」(Y子ちゃんごめん
「七五三と初詣出の?」
「それは神社・・・」

席を譲る話から果てしなく話がずれていく・・・

、じゃあ神父さまはおじいさん?」(の教会の神父さまは80代です)
「お父さん!」

のおじいさんとおばあさんの基準ってもしかしたらものすごく一般的でないかも・・・だからむやみやたらに席代わるのかも・・・

、ママはそのとき何言ってた?」「何も言ってなかった」

そして妹に聞くと「なんか席代わってるなと思ってた」そう。

まあいいや・・・

フクシチョーサン

2007年05月05日 09時31分28秒 | 二分脊椎
が前回日本で入院したときは、まだ男のナースは少なくて、「看護婦さん」「看護師さん」だった。

のいとこはナース夫婦。は日本の大学にいったことがないので(高3のときに受験というものをしなかった。というか、小六で受験しただけ)よくシステムが分からないが、看護大学と看護学校と医療技術短大(医技短)などからナースになれるらしく、うちのいとこ(男)は医技短からナースになったハシリ。
入院中、男のナースもちらほらいて、呼称も「看護師」になっていた。男女同権そして「婦長さん」は「師長さん」になっていた。

それでも使い捨てエプロンはピンクだし、それを着ている男性看護師や男性医師はちょっとかわいいものがあった。せめて中性色に出来ないものか・・・

のお見舞いに来たとき、パンツルックのナース服の女性ナースがいたり、普通の服に白衣だけ着ている男女のドクターや、下のパンツだけオペ着の男女ドクターを見たり、「誰がドクターで誰がナースかわからなく」なって混乱していた
病院はまだナースはナースキャップをつけていたので「頭に(帽子にははみえないだろうから)なんか白いのをピンで止めてる人がナースで、白い服を着てて頭が普通なのがドクター」と説明した。(また適当な説明・・・

すると良く考えたら男性ナースはナースキャップをつけていない。卒業式というか戴帽式のときはどうもコックさんみたいな帽子を受け取るらしいのだけど・・・、ますます混乱

私が混乱したのは病棟ナースに珍しい苗字の人がたまたま集まっていて、「フクシチョー」さんが「副師長さん」と気がつかず、かなり長い間、珍しい名前の人だと思っていた

NZでの入院生活とも、前回の入院ともまた違っていて、比較文化論医療編でも書けそうな感じだった
カルテはパソコンだし、検温の時間にはパソコンが乗ったカートをガラガラガラ・・・と押してくる音が聞こえる。
ご飯の配膳車も、半分は温かく、半分は冷たいので、トレーの形が変わっていて、温かいものは温かく、冷たいものはキンキンに冷たくて、時代もかわったな~と思った

毎週木曜日は昼と夜は選択食で(普通に食べられる人)、A定食かB定食から選べて、朝ごはんは最上階のレストランでバイキングを希望すれば食べられる
は朝が弱いので行ったことがなかったが、かなりいけるよう。もちろん別途料金がかかるのだけど、150円とかその程度。

インフォームドコンセントとか、医療として変わっていた部分も多かったけど、細かいところも変わっていて、なかなか面白い発見があった


初外出

2007年05月04日 21時39分06秒 | 二分脊椎
日曜日に退院して、を幼稚園バスに朝送っていった1日、そして2日にを公園に夕方連れて行った以外、PCか寝てるか、食べてるかのグーたら

今日、教会へ行ってみた
いつもは代母さんがで送迎してくださったりするんだけど、そうでないときはタクシー

導尿は毎食後と寝る前と言われているけれど、ちっと退院後初めて出かけるし、朝と、もう一度出かける前、9時20分くらいに導尿してみて(実験)10時のミサへ。
その後聖書のお話を聞いて、少し教会の人々と積もる話をして(60日ぶりくらいだし)教会の方の一人に送っていただいて、正午前には帰宅。

手術前、導尿は毎時間だったので、金曜日に教会に行くと同じ時間で3回の導尿で、残ってお祈りするときは3時くらいまでいたので、計5回の導尿・・・

でもの性格的に、「毎食後導尿でいいよ、その間は自排尿でいいよ(普通にトイレに行く)、ただ、三時間以上空けないで」という単純な指示よりも、時間よりも、外出すると心配で、今日は家を出る前、教会について、ミサが終わって、家に帰る前の計4回していた癖で、教会に着いたときと、ミサ後にトイレに行きそうになった。

でもおかげさまで、今日は教会ではトイレに行った回数はなんと0回。手術の甲斐があり
ほんとにストレスフリーそのうえ荷物が少ない

60日近く留守していたとは思えないくらいすんなり皆さん受け入れてくださり、
のバス停も普通に行けたし、
年少さんが入っているので(豆まきをしたときに顔は合わせていたけれど)、
「教会やバス停をはじめとする日常に戻るのに、もっともっと時間がかかる」と覚悟していただったけれど、予想外にすんなり元に戻れた

14日からはレッスンも始める予定だけれど、継続の子供たちのグループは、
(もしかしたらうまくいくかな)と希望を持てた一日だった

しかし体はさすがに少々疲れやすく、昼寝の日々。
でも精神的に楽だし、導尿に振り回されていないので、なんと生きやすいことか

月曜の外来までは教会しか行かないので、今日、教会はクリアできたから、一歩一歩すこしづつ、元気なで活動できるようにしていきたいと思う



3月

2007年05月02日 22時18分41秒 | Weblog
8日の金曜日に入院。
は母と、妹と病院へ。は幼稚園の園バスのバス停のママが預かってくれて、三人でタクシーで出発 手術の説明はは受けていたけれど、母と妹とともにもう一度受けて、同意書にサイン
入院したことのない妹(の出産以外)は輸血や出血や合併症の説明だけでだんだん顔色が悪くなり、ドクターに「妹が(でなく)」大丈夫か聞かれていた・・・

「おなかに残らない食事」は案外普通で(失礼・・・)宇宙食みたいなものを想像していたけれど、カリフラワーとか普通のものを前日まで食べた
泌尿器科病棟が満床で数日は別の病棟に。脳外科からも手術の説明があり、先生の若さにびっくり説明も身近なものを例にするので(時計とかお菓子のトッポとか)分かりやすかった。

12日に手術。1番で朝8時半にはオペ室へ。

前の日に2リットルの下剤を二時間かけて飲んだ。「苦しいよ~、まずいよ~」と前評判を散々聞かされていたので、コッブの容量と、時間を計算して(算数できないくせに、こういう知恵は回る・・・)あるコップ一杯を15分おきに飲めばいいことが分かり、15分ごとに一気飲み。おかげでなんなくクリア。

当日は血栓予防の弾性ストッキングをはき(海外旅行や長時間座っていたらなる、いわゆるエコノミークラス症候群予防。全身麻酔で長時間寝たきりで、術後もしばらく動けないから)輸液の点滴をしてオペ室へ。夕方四時くらいに終わり、ICCUに移され、両親はの顔を見て帰宅一泊した。

数日苦しんだのは腰から麻酔を持続して入れてもらっていたので、痛みより痰がからんでからんでしかたがなかったし、鼻のチューブが気になって、ドクターに「もう・・・一日早いけど抜くで気分悪くなったらまた入れるよ」と脅されたけど、取ってもらった(結局気持ち悪くならなかった)。

そこから一週間弱はさすがに開腹手術、声は出ないし起き上がれないし普段は痛みはなくてもCTなどで持ち上げられたら叫びまくる・・・

お見舞いに来てくださったさんが「このままの人格が変わるかと思った」くらいおとなしかったらしい。

手術次の日より、3日目と4日目に余人部屋を仕切るカーテンが、天井のほうは布ではなく四角い升目状の網目になっていて、身動きがとれずそれしか見ることの出来ないは2日連続夜八時前後に、
「このまま寝たら起きずに死ぬ」
という思い込みから来る大パニックの発作に悩まされ、強い薬を処方されて点滴を入れる羽目にでもやがて落ち着いた。その間、夜勤で看護師が少ないのにも関わらず、が眠りに付くまで看護師が交代で手を握って見守ってくれた本当に感謝。

すこしづつ点滴やチューブが抜けていき(最高6本管が出ていた)、重湯から始まり、すこしづつ食事も出来るようになって、膀胱洗浄はバルーンカテーテルが入っていたのでドクターがしてくださり、(バルーンが膨らんだままカテーテルが3回抜けて、ナースもドクターもだった)困ったことといえば身動きが取れないことからの筋肉痛

最初は管だらけのを見られるのが「みっともないなあ」とか思っていたけれど、お見舞いに来てくださった方から病院の場所を聞かれたときに
「管だらけですので、お見苦しく、お話も出来ないかもしれません」と最初の頃は言っていたのにもかかわらず、
病棟の人やナースに「は毎日毎日お見舞いがあっていいね」といわれるくらい、関係やレッスン関係、教会関係や母校関係と次から次へときてくださり、私も治療中の体を見せることに抵抗がなくなった
逆に、電車乗り継いで、またでも30分以上かかるのに来てくださって、「なんて、は幸せなんだろう」と感激の日々だった
家族が病院に来れたのもをあずかってくれた同じ幼稚園のバス停のママたちの協力
神父さまなんて80歳を超えた方なのに3回くらいも来てくださったし、レッスンの子供たちも可愛い絵や手紙をくれたり、苦しくても痛くても乗り越えられた原動力だったのだと思う。

54日の入院生活のなかで、50日以上も誰かがのお見舞いに来てくださったあんなに苦しんできめた手術だったけど、導尿が一時間毎でノイローゼになり、一度は「生を取るのか死を取るのか」ということまでは考えざるを得なくなったけれど、今健康に生きていて、たくさんの人々に生かされていて、手術をして良かったと思う。