そくてん―きょし【則天去私】
天に則(のっと)り私を去るの意。
夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地。自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの。漱石自身の造語。
(『大辞泉』より)
…………………………………………
きのうの音楽につづき、書物で「自分にとっての、そのときどきに相応しいもの」を選出しようとしたのだが、
映画や音楽は「気に入ったら、何度でも触れる」積極性? があるのに、
書物に関しては「表現の力を再確認するために読む」ということ以外で読み返すことは「まず」ない、つまり「そのときどきに相応しいもの」を選出することが出来ないことに気づいた。
なんか、ちょっとだけ格好いい? が、
エロ本だったら、しわくちゃになるほどページを繰るクセしてねー。
映画監督リュック・ベッソンが雑誌の企画で生涯のベストテンを挙げた―スコセッシやミロシュ・フォアマンの作品が多かった―際、
「すべてにおいて完璧な映画に出会うと、映画監督を辞めたくなる。そのくらい、落ち込む」とコメントしていた。
その複雑な感情、すごく分かる。
自分の場合、映画よりか書物にその傾向が強い。
やろうとしていることが脚本や批評、コラムにあるから、、、だろうか。
きょう挙げてみた10作+αは、2度3度ではなく、少なくとも5度は繰り返し読んだ作品である。
読む度に打ちのめされ、読む度に「ことば紡ぎを辞めようかな」という気にさせてしまう、ある意味では悪魔の書。
しかし無視することも出来ず、ときどき手に取ってみたくなる。
取ったが最後、表現のパワーに圧倒され終わりまで投げ出すことが出来ないが、読み終えた直後から圧倒的な敗北感というか絶望感というか厭世観に襲われる。
その、繰り返し。
いままで観てきた映画の総数は・・・
16歳以降、確実に年間200本は超えていたので、単純計算すると45000本くらいは観てきたのか。
音楽は意識したことがないので分からないが、確実に映画よりは多いと思う。
そんな音楽よりも映画よりも少ないだろう・・・と推測出来るのが、ことば主体で表現されたもの、つまり書物。
「読み過ぎた」ということはあり得ないわけで、同じ作品を繰り返し読むより初対面のものに触れたら? といわれたこともあるが、
「表現の力を再確認するため」というのを目的とした場合、これだけで充分、、、だったりもするのだ。
あくまでも、自分にとっては―だけれども。
(1)夏目漱石『それから』
たぶん、最も多く読んだ小説。
これを読んでモノを書こうと決意したのだが、じつをいうと「則天去私」の意味は、いくら読み返してもさっぱり分からないのだった。
漱石、ごめんなさい。
(2)(3)小林よしのり『東大一直線』『東大快進撃』
ギャグ漫画としてスタートしたにも関わらず、最後は笑いではなく戦慄に包まれた。
最終回「前」の10回分くらいは、もうほとんど神の領域に達している。
(4)松尾スズキ『この日本人に学びたい』
自分のコラムの原点。
自虐とリズムの技術を沢山学んだ。
(5)業田良家『詩人ケン』
漫画と詩の、奇跡的な融合。
ページを繰るのがこれほど「もったいない」と感じさせる漫画は、ない。
<6>落合信彦『葛飾発アメリカ行き』
ほとばしる映画愛。
<7>ロジャー・コーマン『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』
トップ画像。
なにかのテレビ番組で「不平不満をいうよりも、すすんで灯りをつけましょう」というナレーションがあったが、そういうことが延々と書かれている。
現状への不満とは、結局はイイワケ。映画をやりたいんだったら、とりあえずカメラ抱えて街へ飛び出そうぜ! といっている。
<8>中島敦『山月記』
『詩人ケン』が好きなのも、小説と漢詩を組み合わせた本作の存在が大きい、、、のかもしれない。
短い物語だが、想像力がおおいに刺激される。
<9>筒井康隆『大いなる助走』
愉快痛快、毒はある種の読者に勇気を与えてくれるものだと知った。
<10>吉岡忍『М 世界の、憂鬱な先端』
飽くなき探究心を持ち、分からないものの正体を探ろうとする。
ノンフィクションの、真髄を見た気がした。
そうか、「則天去私」分かんねぇ! とかいっている場合じゃないのだ。
<α>永沢光雄『おんなのこ AV女優2』
同じようにAV嬢へのインタビューをおこなうものとして、(吉田豪のインタビューより)勉強になること多し。
※ロジャー・コーマンの映画は、いつでも元気と勇気をくれる
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『フリーズドライは生意気か』
天に則(のっと)り私を去るの意。
夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地。自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの。漱石自身の造語。
(『大辞泉』より)
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きのうの音楽につづき、書物で「自分にとっての、そのときどきに相応しいもの」を選出しようとしたのだが、
映画や音楽は「気に入ったら、何度でも触れる」積極性? があるのに、
書物に関しては「表現の力を再確認するために読む」ということ以外で読み返すことは「まず」ない、つまり「そのときどきに相応しいもの」を選出することが出来ないことに気づいた。
なんか、ちょっとだけ格好いい? が、
エロ本だったら、しわくちゃになるほどページを繰るクセしてねー。
映画監督リュック・ベッソンが雑誌の企画で生涯のベストテンを挙げた―スコセッシやミロシュ・フォアマンの作品が多かった―際、
「すべてにおいて完璧な映画に出会うと、映画監督を辞めたくなる。そのくらい、落ち込む」とコメントしていた。
その複雑な感情、すごく分かる。
自分の場合、映画よりか書物にその傾向が強い。
やろうとしていることが脚本や批評、コラムにあるから、、、だろうか。
きょう挙げてみた10作+αは、2度3度ではなく、少なくとも5度は繰り返し読んだ作品である。
読む度に打ちのめされ、読む度に「ことば紡ぎを辞めようかな」という気にさせてしまう、ある意味では悪魔の書。
しかし無視することも出来ず、ときどき手に取ってみたくなる。
取ったが最後、表現のパワーに圧倒され終わりまで投げ出すことが出来ないが、読み終えた直後から圧倒的な敗北感というか絶望感というか厭世観に襲われる。
その、繰り返し。
いままで観てきた映画の総数は・・・
16歳以降、確実に年間200本は超えていたので、単純計算すると45000本くらいは観てきたのか。
音楽は意識したことがないので分からないが、確実に映画よりは多いと思う。
そんな音楽よりも映画よりも少ないだろう・・・と推測出来るのが、ことば主体で表現されたもの、つまり書物。
「読み過ぎた」ということはあり得ないわけで、同じ作品を繰り返し読むより初対面のものに触れたら? といわれたこともあるが、
「表現の力を再確認するため」というのを目的とした場合、これだけで充分、、、だったりもするのだ。
あくまでも、自分にとっては―だけれども。
(1)夏目漱石『それから』
たぶん、最も多く読んだ小説。
これを読んでモノを書こうと決意したのだが、じつをいうと「則天去私」の意味は、いくら読み返してもさっぱり分からないのだった。
漱石、ごめんなさい。
(2)(3)小林よしのり『東大一直線』『東大快進撃』
ギャグ漫画としてスタートしたにも関わらず、最後は笑いではなく戦慄に包まれた。
最終回「前」の10回分くらいは、もうほとんど神の領域に達している。
(4)松尾スズキ『この日本人に学びたい』
自分のコラムの原点。
自虐とリズムの技術を沢山学んだ。
(5)業田良家『詩人ケン』
漫画と詩の、奇跡的な融合。
ページを繰るのがこれほど「もったいない」と感じさせる漫画は、ない。
<6>落合信彦『葛飾発アメリカ行き』
ほとばしる映画愛。
<7>ロジャー・コーマン『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』
トップ画像。
なにかのテレビ番組で「不平不満をいうよりも、すすんで灯りをつけましょう」というナレーションがあったが、そういうことが延々と書かれている。
現状への不満とは、結局はイイワケ。映画をやりたいんだったら、とりあえずカメラ抱えて街へ飛び出そうぜ! といっている。
<8>中島敦『山月記』
『詩人ケン』が好きなのも、小説と漢詩を組み合わせた本作の存在が大きい、、、のかもしれない。
短い物語だが、想像力がおおいに刺激される。
<9>筒井康隆『大いなる助走』
愉快痛快、毒はある種の読者に勇気を与えてくれるものだと知った。
<10>吉岡忍『М 世界の、憂鬱な先端』
飽くなき探究心を持ち、分からないものの正体を探ろうとする。
ノンフィクションの、真髄を見た気がした。
そうか、「則天去私」分かんねぇ! とかいっている場合じゃないのだ。
<α>永沢光雄『おんなのこ AV女優2』
同じようにAV嬢へのインタビューをおこなうものとして、(吉田豪のインタビューより)勉強になること多し。
※ロジャー・コーマンの映画は、いつでも元気と勇気をくれる
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『フリーズドライは生意気か』
私は学生時代 教科書で読んだのが最初でした