いざべる・あじゃー「に」→「に」んげんのじょうけん(人間の條件)
長い映画が好きだ。阿呆のように長い映画が。
長いというだけで、傑作の予感がする・・・というのは、けっこう的外れではない。
極端に長い映画に触れて、時間を無駄にした! とか、ざけんなっ!! と憤った記憶がない。
かぎりある1日のうちの何割かを「その映画」に捧げることになり、受け手はたいへんなリスクを負うわけだが、創り手はその倍以上のリスク―ずばり、信用―を負うはずで、つまり、そのうえで上映にまで漕ぎ着けたということは、
配給会社や劇場主の理解を得ている→「それなりの水準に達している」、、、と結論づけることも出来る。
上映時間を聞いただけで「うぇ!」と敬遠するひとも居るだろう、そもそも長いってどの程度の時間を指すのか。
その基準として、人気の高い『ゴッドファーザー』の第二作(74)を挙げてみよう。
上映時間は、202分(3時間22分)である。
現在のハリウッド映画は2時間を超えるものが多く、大作の平均は140分くらい。
だから160分くらいは耐えられるが、180分となると「うっ、、、」となるはず。
その「うっ、、、」となった感情をひっくり返すパワーと面白さが、確かに『ゴッドファーザー』にはあった。
だから多少の「座り疲れ」は感じるものの、観てよかった! と感動出来るというわけだ。
では、それよりも長い映画でも、同じように感じることが出来るのか。
いってしまえば、『ゴッドファーザー』なんて長いうちに入らない。
世の中には、興行や観客のコンディションなどといったものを「微塵も」配慮しない「表現至上主義」の映画が沢山あるのである。
『風と共に去りぬ』(39)は231分、『ベン・ハー』(59)は240分。
日本映画だって負けて? はいない、
青山真治の大傑作『ユリイカ』(2000)は、217分。
瀬々敬久の『ヘヴンズ ストーリー』(2010)は、278分。
まだまだ甘い。
ベルトリッチの『1900年』(76)は、316分。
イングマール・ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』(82)は、311分。
ちょこざいな。
イタリア産の『輝ける青春』(2003)は、366分もある。
いやいや負けんぞ、
旧ソ連の『戦争と平和』(65~67)なんて、424分ときたもんだ。
しかし。
それでも上には上が居て、ドキュメンタリーの『ショアー』(85)は、570分を超えるのである。
そんな大長編映画の仲間入りを果たすことが出来る日本映画に、五味川純平の小説を原作としたふたつの作品がある。
『戦争と人間』の三部作(70~73)と、『人間の條件』(59~61)。
前者は528分、後者は571分。
どっちも凄いけれど、個人的には「タイトル的」にも「内容的」にも『人間の條件』のほうが好き。
ただどちらも舞台背景に戦争があり、これは世界的な傾向なのか、戦争を描くと長くなってしまうもの、、、なのかもしれない。
『人間の條件』の監督は、『切腹』(52)や『東京裁判』(83)で知られる硬派・小林正樹。
キャスト陣は仲代達矢に新珠三千代、淡島千景、有馬稲子、佐田啓二・・・と、たいへん豪華。
タイトルがすべてを語る(物語の)解説は不要の感動作だが、
たとえば、『失われた時を求めて』とか『ユリシーズ』のような大長編あるいは超難解小説を読み終えると、読み終えた自分自身に感動したりするものだと思う。
それと同じ現象が、映画にも起こると。
もちろん物語がつまらなければ、感動もクソもないわけで。
つまり物語で受けた感動と、それを最後まで観届けた自身への感動。それがプラスされることによって、「ふつうサイズの映画」では不可能な未知の領域に到達することが出来る―それが、大長編映画の「ありがたみ」といえるのではないか。
次回のしりとりは・・・
にんげんのじょう「けん」→「けん」・らっせる。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『○○コス + 9月コラムの目次』
長い映画が好きだ。阿呆のように長い映画が。
長いというだけで、傑作の予感がする・・・というのは、けっこう的外れではない。
極端に長い映画に触れて、時間を無駄にした! とか、ざけんなっ!! と憤った記憶がない。
かぎりある1日のうちの何割かを「その映画」に捧げることになり、受け手はたいへんなリスクを負うわけだが、創り手はその倍以上のリスク―ずばり、信用―を負うはずで、つまり、そのうえで上映にまで漕ぎ着けたということは、
配給会社や劇場主の理解を得ている→「それなりの水準に達している」、、、と結論づけることも出来る。
上映時間を聞いただけで「うぇ!」と敬遠するひとも居るだろう、そもそも長いってどの程度の時間を指すのか。
その基準として、人気の高い『ゴッドファーザー』の第二作(74)を挙げてみよう。
上映時間は、202分(3時間22分)である。
現在のハリウッド映画は2時間を超えるものが多く、大作の平均は140分くらい。
だから160分くらいは耐えられるが、180分となると「うっ、、、」となるはず。
その「うっ、、、」となった感情をひっくり返すパワーと面白さが、確かに『ゴッドファーザー』にはあった。
だから多少の「座り疲れ」は感じるものの、観てよかった! と感動出来るというわけだ。
では、それよりも長い映画でも、同じように感じることが出来るのか。
いってしまえば、『ゴッドファーザー』なんて長いうちに入らない。
世の中には、興行や観客のコンディションなどといったものを「微塵も」配慮しない「表現至上主義」の映画が沢山あるのである。
『風と共に去りぬ』(39)は231分、『ベン・ハー』(59)は240分。
日本映画だって負けて? はいない、
青山真治の大傑作『ユリイカ』(2000)は、217分。
瀬々敬久の『ヘヴンズ ストーリー』(2010)は、278分。
まだまだ甘い。
ベルトリッチの『1900年』(76)は、316分。
イングマール・ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』(82)は、311分。
ちょこざいな。
イタリア産の『輝ける青春』(2003)は、366分もある。
いやいや負けんぞ、
旧ソ連の『戦争と平和』(65~67)なんて、424分ときたもんだ。
しかし。
それでも上には上が居て、ドキュメンタリーの『ショアー』(85)は、570分を超えるのである。
そんな大長編映画の仲間入りを果たすことが出来る日本映画に、五味川純平の小説を原作としたふたつの作品がある。
『戦争と人間』の三部作(70~73)と、『人間の條件』(59~61)。
前者は528分、後者は571分。
どっちも凄いけれど、個人的には「タイトル的」にも「内容的」にも『人間の條件』のほうが好き。
ただどちらも舞台背景に戦争があり、これは世界的な傾向なのか、戦争を描くと長くなってしまうもの、、、なのかもしれない。
『人間の條件』の監督は、『切腹』(52)や『東京裁判』(83)で知られる硬派・小林正樹。
キャスト陣は仲代達矢に新珠三千代、淡島千景、有馬稲子、佐田啓二・・・と、たいへん豪華。
タイトルがすべてを語る(物語の)解説は不要の感動作だが、
たとえば、『失われた時を求めて』とか『ユリシーズ』のような大長編あるいは超難解小説を読み終えると、読み終えた自分自身に感動したりするものだと思う。
それと同じ現象が、映画にも起こると。
もちろん物語がつまらなければ、感動もクソもないわけで。
つまり物語で受けた感動と、それを最後まで観届けた自身への感動。それがプラスされることによって、「ふつうサイズの映画」では不可能な未知の領域に到達することが出来る―それが、大長編映画の「ありがたみ」といえるのではないか。
次回のしりとりは・・・
にんげんのじょう「けん」→「けん」・らっせる。
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