Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

2013-01-31 00:15:00 | コラム
取材で知り合って以降、仲のいい友達関係になった企画AV女優さんから、

「先走りのまっき~へ、先走った誕生日プレゼントを送ります」というメッセージのついた「無料膝枕券」をもらった。

パパへ贈る「肩たたき券」のパロディみたいなもので、
15分コース、30分コース、60分コースの3枚セットというのが泣かせる。

誕生日は2月4日、苦笑を禁じ得ないが、うれしいものはうれしい。
これは期待に応えねばならない―と思って、当日前に「全部、一気に使う。だから合計105分ね」といったら、「ざんねーん、マックの無料券と同じで、複数同時利用はNGなの」ときたもんだ。

М男子の体質をよく分かっている子だなぁ、この生殺し感がたまらないよまったく。


それはともかく。

30代後半になって、変化が訪れたことがふたつばかり。

10代のころは「老けている」と評されがちだった顔が、20代後半になると「若々しい」と評されるようになる。
30代前半で「まぁ、歳相応」といわれることが多くなり、やっとのことで顔と年齢が追いついたかな、、、と。
しかし最近「やや老けている」と評されるようになり、おいおいシンクロ期間はもう終了かよ! なんて。

「若く見られたい」―と強く思うほうではなかったはずなのに、
もっといえば、「早くオッサンになりたい」などと思っていた時期もあったはずなのに、
なんとなくショックだったり。

ひとは変わるものだねぇ。

仕方ない? から目標を変更し、「トシの割にはギンギンなのね」といわれるように鍛えてみようと思う。
鍛えかたがまったく分からないが、こういうときこそコネクションを活用するべきだろう、アドレス帳を検索し、AV男優にメールを送ってみたり・・・。


変化のもうひとつが、「いいトシこいて」という表現を多用するようになったこと。

原稿料をいただいた去年のコラムなどをチェックしてみると、20回以上使っている。

未だ欠かさぬ毎日の自慰であったり、アイドル礼讃であったり、いっつもハーフパンツを穿いていることなどに対する自分ツッコミというわけである。

モノを書き出したころは確か「ガキのクセに」を多用していたはずで、
こういうところでも、ひとは変わるものだねぇ、、、などと実感する。当たり前っちゃあ、当たり前のことだけれども。
異端「風」を気取っているだけで、そういうところは「意外とフツーにトシを取る」ってわけだ。


ところで話を大幅に逸らすが、
女子タレントを検索してみると、検索予測として人名の横に「整形」って表示されるのが常だ。

少し売れるとすぐに表示されるようになるから、ある意味でのバロメーター? になっているのかもしれないが、
それが事実だとして、そんなに叩くべきところなのかなぁ、、、なんて思う。


自分?

キッタネー男子を売りにしているんだから金があったとしてもやらないが、女子だったら分からない。
エリカ嬢の映画みたいに、目から鼻、唇に胸までメスを入れてもらうかもしれない。


整形であろうがなんであろうが、それを含めて美しいものを「ありがたがりたい」・・・というのは、少数意見なのかな。


※トップ画像と動画は、デヴィッド・フィンチャーの『ベンジャミン・バトン』。
年老いて生まれ、徐々に若返っていく男の一生を描く。

ブラピさん、こういうのでオスカー取ってほしかった。




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aftermath

2013-01-30 00:15:00 | コラム
基本的に羞恥心はない。
あったのだろうが、モノスゴ小さく軽かったため、たぶんどこかに置き忘れてきたのだ、、、と思う。

土下座してエッチをお願いすることになんの抵抗感もないし、この年でザーメンザーメンと連呼するところも、その証明になっているんじゃないか。

そんな、まもなく39歳になるチューネンが、ほとんど唯一といっていい「自分を恥ずかしいと思っている」こと―それが、10割負担の「ばかでかい」国民健康保険証だった。

「ばかでかい」にもほどがある! と突っ込みたくなるが、だからこれは、フツーの保険証との差異を図るためなのだろう。
運転免許証を有さない自分にとって身分証明といえば保険証になるのだが、これを提示するのが恥ずかしくてたまらなかった。

10割?
かっこわりー! みたいな。

なぜそうなったのかというと、多重債務者時代、弁護士事務所への入金を最優先にしていたから。
放っておいたわけではないが、いつの間にか3年分くらいの保険料が未納状態となり、そうして「ばかでかい」保険証が送られてきたと。

余波、映画『グッドフェローズ』(90)で印象に残る「aftermath」というヤツだ。

この甲斐性のなさから、女子に別れ話を切り出されたことが「何度か」あった。

「まっき~って飽きないし、一緒に居て楽しいけれど、ちょっと不安になる」なんていわれたらもう、完全に二の句が継げないのである。


完済人となったのが約3年前で、そのころには未納は5年分くらいとなっていた。
だからここ数年は、ギャラの半分ちかくを保険料に充てていた。

そうして先日―じつに6年ぶりに、フツーサイズの保険証をいただいた。

担当者からの手紙には「未納額が大幅に減りましたので、通常の保険証を送付します。今後も継続的な納入をよろしくお願いします」とある。

まだ延滞金は残っているものの、やっと「フツーのひと」と認められたわけだ。

情けない話ではあるが、うれしかったなぁ。
これで欠けた歯の治療が出来る、怪我自慢みたいなところがあるから思いっきり怪我が出来る。
なにより堂々と? 身分証明として提示出来る。


借金についてはいい思い出などひとつもないが、勉強にはなった。
身の丈、身の丈でいこうぜよと。


それにしても資産家夫婦の失踪・殺人事件の展開は異常に早いな。
犯人たちに同情の余地はなさそうだが、やりくちが雑過ぎる気がする。そりゃ、すぐに捕まるだろうよ。

彼らを狂わせたのも、また金だ。
金ってやっぱり、それをうまく扱えるひとのところに集まるもの、、、なのかもしれない。


さて強引に話を変えるが。

スコセッシの映画を「主題」という点で評価するならば最高作は『タクシードライバー』(76)で決まりだが、
「技術」では『レイジング・ブル』(80)、
単なる面白さ、つまりエンタメ性で捉えれば『グッドフェローズ』を挙げる。

自分史上で最も多く観た映画である。

途中までカウントしていたが、50回を超えたところでやめてしまった。そのくらい観ている。そのくらい観ていても、まだ飽きない。

きょうはそんな名画から、自分が二番目に好きなシーンをリンク。

デ・ニーロによる「粛清」が描かれる場面で、『レイラ』(の、ピアノ部分)を流す超絶的なセンスに痺れまくった。

元々この映画は、コッポラの『ゴッドファーザー』(72)に対するアンチとして制作されたもの。
ふたりはNY派の親友同士だが、オペラのようなコッポラ演出に対し、少年時代からギャングを見てきたスコセッシは「格好つけ過ぎている、彼らはもっとケチであり、格好悪いところもあった」という感想を抱き、この映画を撮った。
『ゴッドファーザー』にも「粛清」のシーンがあり、『グッドフェローズ』におけるこの描写は「その変奏」だったんじゃないか、、、と思う。





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『顔』

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悪趣味映画館

2013-01-29 00:15:00 | コラム
エド・ウッドと井口昇について書いたので、ついで―というには一大テーマ過ぎるとは思うが、
どう頑張っても「いわゆるフツーの映画」を撮ることが出来ない監督による「悪趣味な映画」を特集してみたい。

誤解がないように前置きをしておくと、悪趣味イコール駄作、、、ではない。

きょう挙げた10本の映画は「なんらかの意味において」観る価値がゼッタイにあり、
もっといえば、趣味はいいが中身のない「そこそこ売れた映画」をアクビしながら一度観るのであれば、刺激に満ちたこれらの作品を「顔を背けながら」二度触れたほうが人生充実するかもよ、、、と。


自分だって、美しいものが大好きだ。
それはたぶん自分が身も心も美しくないからだが、
たとえば、じゃあなぜ美少女の顔がザーメンで汚れまくる「ぶっかけ」AVが好きかというと、美醜「ごった煮」の過程で表現される「その倒錯性」にあるわけで。

鼻まで塞がれて息出来ない!

ハァハァ、、、みたいな。

引くなら引いておくれ、しかし「ぶっかけ」の支持は高く、いまでは日本AVを代表する一ジャンルとなっている。

「ぶっかけ」と悪趣味映画をいっしょくたに論じるのも「また」悪趣味のような気もするけれど。

「こういうのは苦手」「一生観たくない」
というひとが居るのは分かる。
そういうひとのほうが多いだろうし、そのほうが健全ではある。

あるが、その存在そのものを否定してほしくない。

これがあるから生きていけるひとが居るし、こういうものしか創れないひとも居る。

無菌状態の映画館なんて、面白くもなんともない。

スクリーンから汚物を投げまくる映画のパンク精神は、きっと我々の人生に「黄土色」の彩りを与えてくれるはずだ。


(1)『ピンク・フラミンゴ』(72)…トップ画像

もはや伝説と化した悪趣味映画の金字塔。

「下品チャンピオン」を決めるという筋自体も素敵にくだらないが、主演のディヴァインがとにかく強烈。
この映画を観たあとにマツコ・デラックスの番組に触れたら、彼女が可愛らしく見えるくらい。

(2)『ムカデ人間2』(2010)

意外な好評を受けた(?)前作は「まだ」正視に耐えられたが、バージョンアップされた続編は創るほうが観るほうを選んだような悪趣味のオンパレード。

口と肛門を繋げるという発想がどうかしているわけでね、
オランダあたりが本気出すと、恐ろしいものが出来上がる―これ、常々思っていたこと。

(3)『クラッシュ』(96)

オスカー受賞作ではなく、カナダの変人クローネンバーグによる近未来映画のほう。

交通事故で性的快楽を得る男女が「わざと」事故を起こす倒錯の世界を描く。

事故った車中でセックスを始める―しかも、すべてが後背位―展開に、なんとなく分かる・・・と思ったひと、居なかった?

現実の交通事故は悲惨そのものだが、そこをひっくり返してみせることこそ、映画の本分―と、クローネンバーグは信じている。
そこが感動的。

(4)『悪魔のしたたり』(74)

ハダカと拷問、それだけの映画。
しかしクライマックスに用意されている驚愕の展開―は、ここには記さないが、ある意味でハッとするものであり、制作者たちの本気度が伝わってきた。

これ、カルトムービーが好きと公言する女子と一緒に観たが、彼女は大爆笑していたよ笑

(5)『イレイザーヘッド』(76)

リンチの映画から一本。
このリストのなかだと「むしろ」地味な感じがするのが笑えるが、貧乏だったリンチ青年はチマチマチマチマ、10年を要してこの怪作を創りあげた。

結果、悪趣味をアートにまで高める―と強引に結ぶことも出来るが、

どんな映画? と問われても、消しゴム男の悪夢・・・としかいえない。

(6)『ソドムの市』(75)

もはやクラシック。
思いつくかぎりの変態行為が活写されている。

変人として名高いパゾリーニ最後の作品として、一時期、このひとの命日に繰り返し鑑賞、その度に気持ちが悪くなった。

そういう意味では、悪趣味映画へのリトマス試験紙になるのかもしれない。

(7)『フリークス』(32)

悪趣味映画の原点。
古い作品ゆえ、現在ではその衝撃度は「弱め」かもしれないが、悪意というだけでは片付けられない、その鋭い批評性は「未だ効果絶大」だと思う。

だからこそリバイバル時のコピーは、「この映画は、あなたの心を写す鏡です」。

(8)『吐きだめの悪魔』(86)

サイテーな邦題だが、ポスターもチラシもビデオパッケージもサイテーで、誰が観ようと思うのか・・・と。

しかし当時21歳だったという新人監督の才気は「一瞬」爆発、切り取られたイチモツでフットボールを始めるという奇跡のシーンを生み出した。

(9)『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』(76)

日本映画から一本。

残酷なシーン(牛裂き!)満載の前半と、なぜか陽気な後半。
この対比が「なんの効果も生み出さない」というオチにこそ注目してほしい。

(10)『アタメ』(89)

ポップなアルモドバル映画から一本。

いわゆるSMの世界だが、ポップゆえに見易く、これは悪趣味映画の入門篇になるかと。

だからお薦めは、10位から順に挑戦し、最後の最後に「ディヴァイン」と対峙してみよう。


人生が、ちょっとだけ変わるかもしれない。


※じゃあ口直しに、ディズニーによるフラミンゴを。




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サヨナラ、サヨナラ、…サヨナラ

2013-01-28 00:15:00 | コラム
後輩の女子に、どれだけ泥酔しようが挨拶だけはきちんとしている子が居て、
だから? 別れの挨拶は『東京物語』(53)の東山千栄子がいう「ありがと」のアクセントで「さようなら」という。

三重出身ゆえか、その独特なアクセントが癖になって、「さようなら」を聞くために早く呑み会をお開きしたくなる―とまでいうと嘘になるが、とにかくそんな彼女の「さようなら」が好きなのだった。

そういえば「さようなら」なんて、小学生以来いっていないことばかも・・・などと思う。

「先生さようなら、みなさんさようなら」というやつだ。

中学生になると、だいたいが「じゃあね」「ばいばい」であった。
「じゃあね」を多用したのはたぶん、おニャン子「中島美春」の影響だろう。

現在は、年下・年上を無関係にして「どうも」で統一している。
この「どうも」は出会いにも別れにも使える、たいへん便利なことばである。多用し過ぎると「ちょっとだけ」軽薄そうに捉えられるが、実際に軽薄なので気にしないことにする。


「さようなら」で想起する有名人は三人居る。

「サヨナラダケガ人生ダ」のことばを愛した映画監督、川島雄三。
映画『サヨナラ』(57)でオスカーを取ったナンシー梅木。

そして「サヨナラ、サヨナラ、…サヨナラ」で有名な淀川さんだ。

自分が淀川さんを尊敬する理由は、映画愛や名調子とかではなく、その驚異的な記憶力、これに尽きる。
幼少のころに観た映画を「きのう触れてきた」ように語られたらもう、無条件降伏するしかないでしょうよ。


主題を表現し易いからだろう、
「さようなら」というのは音楽や小説、映画のタイトルに多用されていて、先日も「さようなら」を冠したふたつの映画に出会った。


『さよならドビュッシー』は、イチオシの橋本愛が主演した「音楽とミステリをからめた」青春映画である。

「このミス」と略されることの多い「このミステリーがすごい!」大賞受賞の原作を映画化したもので、利重剛が久し振りにメガホンを持ったことでも話題になっている。

過剰な説明的台詞や描写が気にはなるが、そこらへんは愛(呼び捨て)の魅力で相殺。
結果的に及第点ぎりぎりかな、、、という出来。

愛(呼び捨て)は17歳だが、インタビューで「(魅力とされている)自分の目は、好きでも嫌いでもない。でも、武器であることは分かっています」と答えるほど、自分というものをきちんと捉えている大人っぽさがある。

いいなぁ、あの目で見つめられて「死ね」とかいわれたら、ほんとうに死んでやろうかな・・・と、ちょっとだけ思ったり。


『みなさん、さようなら』も原作ありの映画だが、映画でしか表現出来ないことをやっていて、1月の収穫といえる会心作となっている。

『ピアノ・レッスン』(93)のエイダが「喋らない」と誓ったように、
『ブリキの太鼓』(79)の少年が「成長しない」と誓ったように、
『みなさん、さようなら』の主人公(濱田岳)は「団地から出ないで一生を過ごす」ことを決める。

濱田岳は13歳から30歳まで好演しているが、この映画の成功はたぶん、
団地とその周辺の移り変わりを描くことによって、日本の近代史が浮かび上がってくる構造になっている―そこにあるのだと思う。

もちろん筋もしっかりしていて、基本は喜劇調なのに、最後のほう「ほろり」とさせる創りは巧いのだが、
自分が団地族であることと無関係ではないのだろう、寂れていくいっぽうの団地というものを主人公とした都市論なんじゃないか・・・そんな風に捉えて感心したのであった。


ただひとつ。
倉科カナのような女の子なんて、隣人には居ないよ・・・とは思ったんだけれど。

彼女みたいな子が居たら、自分だって団地から一歩も外に出なくなるよ。




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初体験 リッジモント・ハイ(31)

2013-01-27 05:41:03 | コラム
まぁ自分もそうなのかもしれないけれど、そのことは都合よく「置いておく」ことにして・・・

愛と情熱は溢れんばかりだが、どうにも才能が追いつかない―そんな映画作家を挙げるとするならば、やはりエドワード・ウッド・ジュニア、、、ということになるのだと思う。

通称エド・ウッド、ティム・バートンがジョニー・デップを起用した伝記映画でこのひとを知ったひとも多いはずで、
この映画は観ていても、あるいはエド・ウッドの「最悪ぶり」は耳にしていても、実際にそんな「ひどい作品」にチャレンジしてみた「勇気あるもの」は少ないと思われる。

うん、日本で触れることの出来るエド印の映画は全部観たよ。
映画小僧を自称する以上、それは避けて通れない道であるし。

冒頭5分で睡魔が訪れる―というのは、絵が動き物語が進むはずの映画ではなかなか考えられないことではあるが、実際にそうなった。
代表作とされる『プラン9・フロム・アウタースペース』(56)も『グレンとグレンダ』(53)も、邦題のセンスは絶妙な『死霊の盆踊り』(65)も、とにかくひどい。ひど過ぎて感動を覚えるほどなのである。

じゃあなぜエド・ウッドが(ごく一部で)評価されているのかというと、批評家にも観客にも無視され続けながら、それでも映画にしがみついていたから。
好きなものを生業にしたのではなく、そこでしか生きられないから映画を撮り続けたという、独特な切なさが胸を打つじゃないか。

さて。
時代も味方している感のあるひとだが、エド・ウッドとは似て非なる存在―つまり愛と情熱のほかに「きちんと」才能まで持つ現代の映画作家が日本に存在する。

最新作『デッド寿司』(トップ画像/文末予告編参照)が公開中の、井口昇である。

AVから出発し、タイトルも素敵な『片腕マシンガール』(2007)や『電人ザボーガー』(2011)でカルトな人気を獲得したオタク系監督。

井口さんとは何度か会ったことがあるが、まぁ見た目はフツーか。
小太りで160cm前半の身長がそう思わせるのだろう、会ってすぐに親しみがわく。

かつて「トマト」が人格を持ち、人間を襲う―という怪作『アタック・オブ・ザ・キラートマト』(78)というのがあったが、
『デッド寿司』は「トマト」を「寿司」に変えてみました、、、という作品である。

自分は井口演出と主演の武田梨奈が目当てで鑑賞したが、充分に楽しめた。
しかし2割にも満たない「入り」に、打ち切りも近いのかな・・・なんて悲しい気持ちになった。

ただエド・ウッドとはちがい、井口さんには固定ファンがついている。きっと死ぬまで馬鹿な映画を「本気で」創ってくれることだろう。


前置きが長くなったが、自分の寿司初体験のつづき。
というか、その後の話はたいしたことないので映画で稼いだ―というのがほんとうのところだが汗。


最初は遠慮して? サーモンやタコくらいしか口にしなかった美女も、自分が「がぶがぶ」とビールを呑み、「わしわし」と中トロを喰らい続けるので、大トロやウニを注文し始めた。

こうなったらヤケクソだ、
ヤケクソついでにこの店を出たらエッチに誘ってみよう・・・などと考えながら中トロばかりを喰う自分。

確かに美味である。
しかし元々が舌の偏差値「低め」なわけで、なにを出されても「美味い、美味い~♪」といっていた可能性は高い。

「美味しい~」
「ねぇ、美味いねぇ。満足?」
「うん、しあわせ」
「よかった」
「なんでそんなにお金、持ってるの?」
「(苦笑)いや、持ってないし。単なるエーカッコシーでしょう」
「そうなの?」
「そうだよ、同性の友達だったら、たぶん、命を救ってくれたとか、そういうことがないかぎり奢らないもの」
「女子でラッキーなんだ、あたし」

「しかしあれだね、なにが緊張したかって、こういう店にハーフパンツで入れるものかっていうね」
「あはは!」
「大将、自分、間違った格好で来てます?」

「いえいえ、そんなことありませんよ。好きな格好で来てもらって、好きなものを食べてもらえれば」

いいこというじゃないか。

で、会計は4万8千円くらいだった。
前住居の家賃と同じである。

内訳は完全に忘れたが、高いか安いかもぜんぜん分からない。
分からなかったが、いいもの喰わせてもらったし、いい経験もした。


その後?

そりゃあ、エッチ出来なかったさ。
彼女、ウニを食べながら「プロポーズされたの」といったわけでね。


まぁだから、これを結婚祝いだとするならば、安いほう、、、なのかもしれない。





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