「―いいね、かなり、いい」
「へ?」
「いいよ、面白い」
「・・・ほんとうですか」
「よく出来ているよ。ちょっとこの、なんというのかな、品のない台詞が多過ぎるっていうのは感じたけど」
「(苦笑)」
「でもこれで、独特な空気感を作っている」
25歳のころだったと思う、受講料も払わずにシナリオ教室に「潜入」した。
「潜入」という割には図々しく自作を添削してもらったりしたのだが、そのときの講師が新藤兼人だった。
約13年前のことだが、この時点で既に80代後半だったのだから驚く。
家でのんびり碁を打っていてもよかったはずなのに、このひとは現役にこだわった。「一番絞りカス」になるまで、映画人であり続けた―というところが、最高に格好いい。
このころの自分は、シナリオで褒められたことがほとんどなかった。
荒井晴彦には「この程度でオレに持ってきたの?」、
松竹“Team Okuyama”の幹部には「受け手のことを考えていない」、
大映のプロデューサーには「これじゃあ映画にならん」、、、などなど、
専門学校で中途半端に評価されてきたものだから「自分、意外といけるかも?」などと勘違いしていて、
先輩たちからのストレートパンチは、それはそれは、そーとー堪えたのだった。
しかし自分、基本は「褒めて伸びる」タイプで。
あんまりクサされると立ち直れなくなる、岩石じいさんは、そんな自分の弱った精神を支えてくれたのである・・・って、なに、岩石じいさんって?
自分が抱いた、新藤兼人の偽らざる印象である。
顔、こええよ。
と、ずっと思っていた。
だからシナリオ教室に「潜入」するのも、それなりの勇気を必要とした。
映画屋のイメージとは「すぐに怒鳴る」であったから、なんだ小僧! って一喝されるかとビクビクしていた。
そこへきて、冒頭の優しいやりとりである。
あぁ岩石が喋っている。優しい感じの声で。
いや馬鹿にしているんじゃない、そのギャップにやられたのだ。
自分が女子であったら、この時点でスカートを脱いでいたことだろう。
70年以上のキャリアを誇る、存在自体が映画史のようなひとである。
きちんとした経歴などは佐藤忠男あたりが追悼文で、あるいは映画マニアがウィキペディアで展開してくれるだろう、
だから割愛するが、このひとを映画監督としてでなく、脚本家として評価するひとのほうが多いのかもしれない―ということについて、少し書いてみたい。
ネット上で知り合った年配の映画好きから、ある資料を送ってもらったことがある。
シナリオコンクールの予選通過者発表の記事であり、その通過者名をひとりひとりチェックして、たいへん驚いた。
井上ひさし、筒井康隆、藤本義一の名前があったのだから。
逸材が揃うこともあるのだなぁ・・・と呆けるような感動を覚えたが、
岩石じいさん―この際、敬意を込めて最後までこう記すことにする―が出品した国民映画脚本の公募には、若かりし黒澤も『静かなり』という作品を出品しており、そうしてこの作品が当選したのだった。
岩石じいさんの作品は次席にあたる佳作で、悔しかったのだろう、翌年、再び同公募に挑戦し『強風』という作品で当選を勝ち取った。
その数年前―演出の鬼として恐れられた溝口健二の撮影チームに、建築監督として参加。
溝口に自作を読んでもらった際、コテンパンにやられて自死まで考える。
ここからシナリオの学び直しが始まるのだが、おそらくこの経験があったからこそ、映画小僧に対して優しいことばを発したのだと思う。
「溝口さんはあんな風だったけれど、私は優しくいこう」って。
実際、教室でも撮影現場でも、岩石じいさんが怒鳴ったという話は聞いたことがない。
見た目だけでいったら、溝口より「はるかに」怖そう、、、なのに。
映画監督としては「インディーズの社会派」というイメージが強いが、脚本家としては「なんでも書ける職人」であった。
とくに京マチ子のエロスが炸裂する『偽れる盛装』(51)、川島雄三の才気が爆発する『しとやかな獣』(62)、鈴木清順のアナーキズムが開花する『けんかえれじい』(66)のシナリオは、読み物としても成立する完成度だった。
自分の映画を撮りつつ、他者の依頼に応えホンを仕上げていた―ということは、そーとーな速筆だったのだろう。
アタリハズレはあったかもしれないが、たとえハズレであったとしても「ホンではなく演出が悪かった」と評されるほど、受け手からも信頼されていたひとである。
訃報に触れた山田洋次は「仰ぎ見る先輩いなくなった」といったが、個人的には不思議なくらいに哀しみの感情が湧いてこない。
合掌とは書くが、哀悼の意を・・・という気にはなれない。
だって100歳だもの、
それまで現役を続けてきて、『一枚のハガキ』(2011)発表時に「これが最後の作品」と、自分でいっているのだもの、
完璧な最期じゃない、格好良くて羨ましいくらいに。
だから。
岩石じいさん、あっぱれ!! と、大先輩を葬ろうと思う。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『スコセッシ、始動。』
「へ?」
「いいよ、面白い」
「・・・ほんとうですか」
「よく出来ているよ。ちょっとこの、なんというのかな、品のない台詞が多過ぎるっていうのは感じたけど」
「(苦笑)」
「でもこれで、独特な空気感を作っている」
25歳のころだったと思う、受講料も払わずにシナリオ教室に「潜入」した。
「潜入」という割には図々しく自作を添削してもらったりしたのだが、そのときの講師が新藤兼人だった。
約13年前のことだが、この時点で既に80代後半だったのだから驚く。
家でのんびり碁を打っていてもよかったはずなのに、このひとは現役にこだわった。「一番絞りカス」になるまで、映画人であり続けた―というところが、最高に格好いい。
このころの自分は、シナリオで褒められたことがほとんどなかった。
荒井晴彦には「この程度でオレに持ってきたの?」、
松竹“Team Okuyama”の幹部には「受け手のことを考えていない」、
大映のプロデューサーには「これじゃあ映画にならん」、、、などなど、
専門学校で中途半端に評価されてきたものだから「自分、意外といけるかも?」などと勘違いしていて、
先輩たちからのストレートパンチは、それはそれは、そーとー堪えたのだった。
しかし自分、基本は「褒めて伸びる」タイプで。
あんまりクサされると立ち直れなくなる、岩石じいさんは、そんな自分の弱った精神を支えてくれたのである・・・って、なに、岩石じいさんって?
自分が抱いた、新藤兼人の偽らざる印象である。
顔、こええよ。
と、ずっと思っていた。
だからシナリオ教室に「潜入」するのも、それなりの勇気を必要とした。
映画屋のイメージとは「すぐに怒鳴る」であったから、なんだ小僧! って一喝されるかとビクビクしていた。
そこへきて、冒頭の優しいやりとりである。
あぁ岩石が喋っている。優しい感じの声で。
いや馬鹿にしているんじゃない、そのギャップにやられたのだ。
自分が女子であったら、この時点でスカートを脱いでいたことだろう。
70年以上のキャリアを誇る、存在自体が映画史のようなひとである。
きちんとした経歴などは佐藤忠男あたりが追悼文で、あるいは映画マニアがウィキペディアで展開してくれるだろう、
だから割愛するが、このひとを映画監督としてでなく、脚本家として評価するひとのほうが多いのかもしれない―ということについて、少し書いてみたい。
ネット上で知り合った年配の映画好きから、ある資料を送ってもらったことがある。
シナリオコンクールの予選通過者発表の記事であり、その通過者名をひとりひとりチェックして、たいへん驚いた。
井上ひさし、筒井康隆、藤本義一の名前があったのだから。
逸材が揃うこともあるのだなぁ・・・と呆けるような感動を覚えたが、
岩石じいさん―この際、敬意を込めて最後までこう記すことにする―が出品した国民映画脚本の公募には、若かりし黒澤も『静かなり』という作品を出品しており、そうしてこの作品が当選したのだった。
岩石じいさんの作品は次席にあたる佳作で、悔しかったのだろう、翌年、再び同公募に挑戦し『強風』という作品で当選を勝ち取った。
その数年前―演出の鬼として恐れられた溝口健二の撮影チームに、建築監督として参加。
溝口に自作を読んでもらった際、コテンパンにやられて自死まで考える。
ここからシナリオの学び直しが始まるのだが、おそらくこの経験があったからこそ、映画小僧に対して優しいことばを発したのだと思う。
「溝口さんはあんな風だったけれど、私は優しくいこう」って。
実際、教室でも撮影現場でも、岩石じいさんが怒鳴ったという話は聞いたことがない。
見た目だけでいったら、溝口より「はるかに」怖そう、、、なのに。
映画監督としては「インディーズの社会派」というイメージが強いが、脚本家としては「なんでも書ける職人」であった。
とくに京マチ子のエロスが炸裂する『偽れる盛装』(51)、川島雄三の才気が爆発する『しとやかな獣』(62)、鈴木清順のアナーキズムが開花する『けんかえれじい』(66)のシナリオは、読み物としても成立する完成度だった。
自分の映画を撮りつつ、他者の依頼に応えホンを仕上げていた―ということは、そーとーな速筆だったのだろう。
アタリハズレはあったかもしれないが、たとえハズレであったとしても「ホンではなく演出が悪かった」と評されるほど、受け手からも信頼されていたひとである。
訃報に触れた山田洋次は「仰ぎ見る先輩いなくなった」といったが、個人的には不思議なくらいに哀しみの感情が湧いてこない。
合掌とは書くが、哀悼の意を・・・という気にはなれない。
だって100歳だもの、
それまで現役を続けてきて、『一枚のハガキ』(2011)発表時に「これが最後の作品」と、自分でいっているのだもの、
完璧な最期じゃない、格好良くて羨ましいくらいに。
だから。
岩石じいさん、あっぱれ!! と、大先輩を葬ろうと思う。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『スコセッシ、始動。』
それから延々監督さんの事でなく先に亡くなった乙羽信子サンの話でした(笑)
最後の最後まで現役映画人魂を見せつけられたような気がします。
もう、あちらで奥様と逢えたかな??