marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

近代社会における『女性の不幸』

2024-02-03 14:38:14 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 矢田津世子・・・『凍雲』の冒頭である。

『秋田市から北の方へ、ものの1時間も汽車に揺られてゆくと、一日市(ひといち)という小駅がある。ここから軌道がわかれていて、五城目という町にいたる。小さな町である。封建時代の殻の中に、まだ居眠りをつづけているような、どこやら安閑とした町である。現に一日市で通っている駅名も、元々、この町の名で呼びならされていたものだったけれども、いつのまにか奪取(とら)れてしまっていた。居眠りをしていたせいである。居眠りをしながら、この町は、老いて萎えてゆくように見える。

町の人たちの中には、軌道を利用する人が尠(すくな)い。結構足で間に合うところへ、わざわざ、金をかけることの莫迦らしさを知っていたから、大ていは軌道に沿うた往還を歩いて生き帰りした。

軌道の通じない頃は、この往還を幌馬車が通っていたし、雪が積もはじめると、これが箱橇に代えられた。町の人たちにとっては、そのころのほうが、暮らし良かった。文明というものは、金のかかるものだよ、とこぼしあった。』

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◆今はその軌道はない。その当時の駅の跡に五城館というレストランを兼ねた展示会場があって、そこに矢田津世子文学記念館がある。僕が春になると出かける田舎の山がわにあり、そこからも僕が生まれてから見続けて来た森山が見える。近くには有名な歴史ある朝市がたつ場所がある。軌道が通ていたころ、僕のお袋はその朝市に真坂部落から、それに乗ってナマズを売りに来ていたそうだ。あの泥の中にいる鯰である。

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 矢田津世子・・・『茶粥の記』の冒頭から

『忌明けになって姑(はは)の心もようよう定まり、清子と二人は良人の遺骨をもって、いよいよ郷里の秋田へ引き上げることになった。秋田といってもずっと八郎潟寄りの五城目という小さな町である。実は善福寺さんとの打ち合わせでは五七忌前に埋骨する手筈になっていたけれど、持病のレウマチス姑が臥せりはちだったし、それにかまけてとかく気がすすまない様子なので、ついにこれまで延びてしまった。それというのが四十九日の間は亡き人の霊が梁のところに留まっている郷里の年寄り衆の言い習わしに姑も馴染んでいためで、その梁の霊を置き去りにすることが姑にはどうにも不憫でならないらしかった。

荷をあらかた送り出して明日たつという前の朝、清子は久し振りで茶粥を炊いて姑と二人で味わった。・・・・』

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◆ところが小説は、帰郷のとちゅうから姑と長野の温泉に行く話に切り替わっていく。良人は実食はしていないが文章だけの食レポ作家という設定である。津世子は志賀直哉に心頭していたから、文章についての書き方や表現の仕方などを、心がけて作品にしていたのだろうと思われる。

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それで、坂口安吾の記念館は山形にあるので、津世子とのいきさつの何かが残っているものか、性懲りもなく尋ねたことがあった。その経緯は、当然、受付の方も知っていたのだが、津世子に関するものは何もありません、とのことだった。五城目の矢田津世子文学記念館には、安吾からの手紙や葉書が結構展示されている。けれど、津世子がどのように返事をしたとかの関係を示すものは一切ない。

◆1936年(昭和11年)29歳 3月、同人誌『日暦』より『人民文庫』へ移る。同日5日、「私が彼を愛してゐるのは実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのだ。だが、私は実物の彼に会ふと何らの感興もわかず、何らの愛情もそそられぬのだ。」というメモを書き、6月、坂口安吾と絶縁。9月『神楽坂』が第三回芥川賞候補になった。

ところがビックリというか、『神楽坂』や『父』などはあの家父長制時代の「お妾さん」の話なのだ。これでは普遍性はないからのちの時代まで残らんだろう、というものではない、その時代の事実として背景があるのだなぁ。主人公たちは、当たり前のようにそういう時代に浸りきっている。

不遇、不幸な女性たち。男性優位の近代社会にあって「女性の不幸」が書かれて何という時代だったのかと思わされて来る。そういう根っこが今も世界のあちこちで、この日本でも続いているのではないか、と思わされて来るのだ。

彼女は1944年37歳で亡くなった。肺病だったらしい。・・・あの時代。女性の地位が低くみられていた時代。

◆僕のお袋も人生は一度きりだと必死になって自分の自由を求めて生きぬいていたんだろうな。まったく、小説になりそうな人生を掛けぬけた人だったから。

世界で初めてよみがえったキリストにあったのは不幸な生い立ちのマグダラのマリアという女性だった。 僕はキリスト者になったのである。・・・



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