◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回は脱線、雑談入ります。
今、僕は公の仕事の休暇中、いわゆる盆休みにある。理系頭だがだいぶ文系頭になっている。海外(中国<具体的には上海、厦門、杭州、東莞>、韓国<馬山>、台湾、香港(これは経由)、フィリピン、ベトナム<ハノイ>)などに行かせていただき体験させていただいたのが仕事勤めの大きな収穫だった。国内の主要な大手電機メーカーにも何度か出張で行かせてもいただいた。品質関係を担当させていただき今の残りわずかな時間その残党を務めている。どうして、こんな話が聖書に関係するのか? 前に書いた作家の佐藤優さんではないが「神学(プロテスタントの方です)は身を助ける」ということを言われていろいろ聖書を学ぶことにおいて思考が訓練されたと思われる事が多く、仕事の上でも良かったと思っているからである。
◆不明な言葉はネットで調べて欲しいけれど、仕事で工場勤めだけでなく、ある目標を達成し成果を上げる為には、その為の一つの仕組みを採用する方法として、品質に関わる要求事項 ISO(International Organization for Standardization)国際標準化機構というものがある。要求事項は、2008年版から2015年版に変わり、その中の冒頭にリーダーシップの説明責任(アカウンタビリティー:Accountability)が明記されたことだ。これも特殊な言葉のようでこれだけで、今ネットで検索し論文のようなものを読むことが出来る。上に立つ者の”説明責任”である。
◆今、僕はこれに少しかかわっているのだが、昔、出張で飛行機の中で読んだ日本経済新聞の記事欄に(飛行機の中に新聞用意されてます)「交遊抄」という欄があって、その中に当時、日銀総裁の速水優さん(~2009年)の記事があった。「ニーバーの教え」という題で、ライン・ホールド・ニーバーの「セレニティー(平静さ)の祈り」が、速水さんの座右の言葉と書かれていておられた。これを日本で紹介されたのが1956年から4年間ニューヨークのユニオン神学校博士課程でニーバーから直截お教えを受けた神学者の大木英夫さんだった。その記事の最後に今回のその次の言葉で速水さんが日経新聞に次の記事を載せて終えられていたのだ。
◆「~頼まれて大学院の公開講義を特任教授として15回ほどやった時も、いつも大木さんは最前列できいてくれた。『アカウンタビリティーとは聖書の言葉だよ』といって教えてくれたのも彼だった。」(2002年1月4日付けの記事)
◆聖書の言葉が我々の隙無く物事を進める仕組みの上に採用されていると言うことになる。イエスは言われる。”さばき”とは、わたし(イエス)を信じるか、信じないかである。一人一人が最後の審判の時に自分の生き様についての説明責任があるのだと思ってしまうのはわたしだけだろうか。そんなことを思ってしまった。・・・Ω
今、僕は公の仕事の休暇中、いわゆる盆休みにある。理系頭だがだいぶ文系頭になっている。海外(中国<具体的には上海、厦門、杭州、東莞>、韓国<馬山>、台湾、香港(これは経由)、フィリピン、ベトナム<ハノイ>)などに行かせていただき体験させていただいたのが仕事勤めの大きな収穫だった。国内の主要な大手電機メーカーにも何度か出張で行かせてもいただいた。品質関係を担当させていただき今の残りわずかな時間その残党を務めている。どうして、こんな話が聖書に関係するのか? 前に書いた作家の佐藤優さんではないが「神学(プロテスタントの方です)は身を助ける」ということを言われていろいろ聖書を学ぶことにおいて思考が訓練されたと思われる事が多く、仕事の上でも良かったと思っているからである。
◆不明な言葉はネットで調べて欲しいけれど、仕事で工場勤めだけでなく、ある目標を達成し成果を上げる為には、その為の一つの仕組みを採用する方法として、品質に関わる要求事項 ISO(International Organization for Standardization)国際標準化機構というものがある。要求事項は、2008年版から2015年版に変わり、その中の冒頭にリーダーシップの説明責任(アカウンタビリティー:Accountability)が明記されたことだ。これも特殊な言葉のようでこれだけで、今ネットで検索し論文のようなものを読むことが出来る。上に立つ者の”説明責任”である。
◆今、僕はこれに少しかかわっているのだが、昔、出張で飛行機の中で読んだ日本経済新聞の記事欄に(飛行機の中に新聞用意されてます)「交遊抄」という欄があって、その中に当時、日銀総裁の速水優さん(~2009年)の記事があった。「ニーバーの教え」という題で、ライン・ホールド・ニーバーの「セレニティー(平静さ)の祈り」が、速水さんの座右の言葉と書かれていておられた。これを日本で紹介されたのが1956年から4年間ニューヨークのユニオン神学校博士課程でニーバーから直截お教えを受けた神学者の大木英夫さんだった。その記事の最後に今回のその次の言葉で速水さんが日経新聞に次の記事を載せて終えられていたのだ。
◆「~頼まれて大学院の公開講義を特任教授として15回ほどやった時も、いつも大木さんは最前列できいてくれた。『アカウンタビリティーとは聖書の言葉だよ』といって教えてくれたのも彼だった。」(2002年1月4日付けの記事)
◆聖書の言葉が我々の隙無く物事を進める仕組みの上に採用されていると言うことになる。イエスは言われる。”さばき”とは、わたし(イエス)を信じるか、信じないかである。一人一人が最後の審判の時に自分の生き様についての説明責任があるのだと思ってしまうのはわたしだけだろうか。そんなことを思ってしまった。・・・Ω
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