marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(179回目)ローマ人への手紙(第1章1節から7節)

2016-11-17 19:06:58 | 日記
◇今、手短にある大きめの辞書、いや現在はインターネットで調べられるね。コリントゲームという検索をすると出てくるね。ゲームセンターのピンボール、町にあるパチンコ屋さんのあの台に釘を刺して玉のいくえを楽しむ奴です。パウロさんはその場所(コリントという町、つまり遊興の盛んだった)町から、まだ行ったことのない、すべての道はローマへ続くのあの当時の世界の中心ローマにいる信徒に向けて書いたのがこの”ローマ人への手紙”なのだ。来年は宗教改革から500年、パウロさんの手紙に入る前に今一度、M・ルターさんに再拝礼しておこう。たいていの人は知っている「キリスト者の自由」「聖書への序言」(一冊で一緒になってます:岩波文庫)のあとの「聖書への序言」の最後を今一度、ここに書きます。
◆「要するに、聖ヨハネの福音書と彼の第一の手紙、聖パウロの手紙、なかんずくローマ人、ガラテヤ人、エペソ人への手紙及び聖ペテロの第一の手紙、これらの書は、たといあなたがかつてそのほかの書物や教えを見もせずききもしなかったとしても、あなたにキリストを示し、あなたにとって知る必要のあるしかも祝福をもたらすに足るすべてを教えるのである。」(p64 昭和45年3月20日第18刷 石原謙 訳 岩波文庫)
◆ルターが、パウロの手紙にローマ人への手紙、ガラテヤ人の手紙を上げるのは、第一にまさにそのことがきちんとパウロの言葉で書かれているからなのです。それは、信仰義人ということ。ヨハネ福音書を読んできて、結論は、イエスは言われた「わたしを信じなさい」でありました。これは最優先事項であること。その土台がまずあって、それからいろいろ自分の言葉で疑問を思索解決していくのです。現に歴史はそう動いてきたし、いまもそのように見える。・・・しかし、悪魔も顔をのぞかせて盛ん対抗すべく必死に働いているというところか。その主題:(1:17)「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」
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◆ キリスト・イエスの僕(しもべ)、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから- ◆
まだ、見ぬローマの人々に自己紹介をする。ほかの手紙には見られない自己紹介。自分の過去はない。イエスに会ってからがわたしの人生そのものなのだ。それ以前のすべては糞土に等しいと。「別たれた」:それまでと異なり、イエスを異邦人に伝えるべく、今までのすべてから別たれたのであるという。「召されて使徒となった」:神の招きにより筆頭の働き人として指名されたパウロ。(1:1)福音の理解、我等が神に選ばれし民、その事実は古来の歴史をとおして預言者により伝えられ、書き残されたきた。そしてイエスは、聖書(旧約)の中で約束されたものであった。(1:2) その方、神の子であるイエスについて、肉においては(眼に見える肉体においては)、イスラエル国を統一したダビデ王の子孫から生まれた。(1:3)聖霊により、復活という神の力が著された神の御子、これがわたし達の主イエス・キリストであるとパウロは定義する。そしてその方を異邦人により深く伝え、霊の賜物を分け与えて共に励まし合うために・・・パウロはコリントの町でローマ人へ向かって手紙を書いたのであった。
◆ローマ人への手紙の特徴をメモしておこう。教理についてパウロの論文調のまとめについては 自然による啓示(1:19-20)、罪の普遍性(3:9-20)、義認(3:21-24)、信仰(4章)、原罪(5:12)、キリストとの一致(6章)、聖化(8:1-14)、神の選び(9-11章)などであるけれど、それらの解釈は、まさに正当化中のエリートが全く同じ方向と到達点を目指すその人間が180度真逆になりその真の道を伝えるべく別たれ、選ばれし人となった者の解釈(啓示)である。それでは、そのまとめごとに読んでいこう。・・ Ω                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

世界のベストセラーを読む(178回目)ローマ人への手紙を読み始める前に Ⅱ

2016-11-16 20:07:13 | 日記
◆パウロさんの自分というものの考えについての先理解の知識◆
いやはや、前置きや解説がいつもながらに多くて先に進まないでごめんなさいです。でも、パウロさんやはたまた、哲学というものは考えうるに自分ということが基点になっているのですね。かのソクラテスさんも”汝自身を知れ(あなた自信を知りなさい)”と語られたことはどういう場面で、いつ語られたのかというようなことはぼんやりしてても、その言葉だけは、高校時代倫理で習ったことだが、はっきり覚えているぞ!短い言葉だし・・・ねぇ。それで、パウロさんの手紙に自分とイエス、そして肉体と霊というような言葉が出てくるに、先理解として少しでも知識としてインプットしておくと少しはなるほどと合点がいくかも知れないと考えるのね。だから、助走がすごく今小難しくなってる訳。
◆この日記は、M・ルターさんのご推薦のヨハネ伝をずうっと読んできて、一世紀後半で書かれたその群れにイエスの業、つまり神でしか行えないだろうとの実証体験の証言者たちもいたと考えられる訳だから、まず、そこから僕らは(つまり、言葉以上にその神<イエス>の業が現実となったそのことからまずイエスを信ずる、その事実から)スタートしてみようということなのだ
◇”肉”に関しては、復活の事実がある。ラザロそしてイエスご自身。まずは、ラザロの復活、ヨハネは死んで墓に入って四日もたって臭くなっているとラザロの姉妹に言わせていること。(11:39)それから、十二弟子のひとりトマスに、わたしは十字架につけられたその釘穴に指を入れて確かめないとイエスが復活したことを信じない(20:25)などと妙にリアルに言わせていること、そしてその後の復活したイエスとの出会い、その他多くの奇蹟。だから記者ヨハネは、福音書の中で、”わざそのものによって信じなさい”と何度も繰り返しイエスが語ったことばを強調しているのである。その事実からまず信じなさいと。我々にとって死は絶望ではない、ラザロは死後も続く希望を持って地上の生涯を終えたのだとキィエルケゴールは書く。トマスは復活したイエスに会って「わが主、わが神」と叫んだ。そして伝説によれば、AD51年、パウロがテサロニケへの手紙を書き始めたころ、既に自分自身を奴隷の身分に落としインドに伝道に就いたと言われている。この事実は何と考えたらいいのだろう。もしあなたが心から愛していた人が亡くなったとし(11:35イエスは涙を流された)、死んで葬られてから、よみがえって現れ普段道理にあなたに微笑んだらどうだろう。そうなのだ。この事実を信ずるということからスタートすれば、多くの偉そうな言葉など儚く消えていくというものだ。ヨハネはそれなら先理解の知識など不要なことだと、目で見て、手で触れて確かなものを信じるのだと第一の手紙に書くのだ。
◇「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。それが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」。(14:11) とイエスは言われた。
◇次に”霊”。ヨハネ福音書で、イエスはユダヤ人の教師ニコデモに地上における霊の動きのことについて、それは常識のように語って、イスラエルの教師でありながらそのようなことも分からないのかと言っている。それは、「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と話されたことである。ここでなんどもイエスは「よくよく言っておく」と繰り返す。「だれでも、水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(3:6)と。我等は昨今のニュースにおいても人を簡単に殺めるような事件が起きていて特に幼い子供が命を落とすのは本当に悔しい思いがする。わたし達は本当に心しないといけない。肉体は滅んでも霊は死なないのだ。この肉体は、多くのだだよう霊の中にあるように思われる。そこで地上においてイエスが言われる潔い霊につながらなければ行けない。それが聖霊であろうと僕は考える。さて、パウロはローマ人への手紙においてどう述べているのだろうか・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(177回目)ローマ人への手紙を読み始める前に

2016-11-15 22:09:34 | 日記
◆パウロさんの語る私(自分)のこと◆
一日、おいておくと自動バックアップも消えてしまっていました。そこで頑張って、パウロさんのローマ人への手紙を読み始めようと書き込んでいましたが、このブログは”自分の言葉で聖書を読む”ということでしたので、イエスの体験をまったく自分の言葉にしてしまったそのパウロさんの手紙についての”パウロという私の言葉”というものについて考えてみました。少しわかりずらいかもしれませんが、”哲学、思想”のジャンルにも登録しましたので少し普段、考えていたことを書いておきたいと思いました。
◆デカルトさんという人の言葉に”我思う、ゆえに我あり”という有名な言葉がありますね。ちなみに、デカルトさんもしっかり神様のことは疑いなく信じていたの。哲学というと人間の言葉でいろいろ思索するので神というものを度外視していたかと言えば、まったくそういうことはなく、この時代の哲学者はベースには神の存在は疑ってはいなかったのだ。もちろんあの科学者ニュートンさんも。さて、僕がここで何を言いたいかと言えば、語られた言葉のその時の自分(私)の位置はどこに立つのか? ということなのだ。
◆どうしてそんなことが必要かって?、デカルトさんはずっと後の人で聖書に無関係なようだけど、私(自分)を考えて科学的に分析して、理性的に考えるには方法が必要であるといった人なのだ。”方法序説”というやつ。んで、パウロの手紙を読むにあたり、この辺をある程度かじっておけば、自分というものを神様相手に見つめた人パウロのことが少しは理解しやすくなるのではないかと思ったからなのです。さて、
◇「私は思う」(本来の自分がいる基点)は、まだ良しとして、次のその考えている自分を見つめて「そうしている自分」を規定していろ自分はどの視点(基点)に立っているのかということなのである。第三者としての自分という目線が入っているわけですね。ここの判断基準はどこにあるのか そうしているのを見つめる神の目線に近づいた自分がいるのではないかということ。生まれたままの人間なら、後者の目線は出てこないであろうと思う。後者の目線は省察者の目線だ・・・。こういう客観的に自己を見つめる目線。パウロさんはそういう目線で、自己の省察を通して、霊と肉ということを語ったのでした。いや、ばりばりのその道(神を信ずる者)のエリートだったから、まずはイエスに出会う前の先理解の自分の言葉の出所の省察は、十分と言えるほど出来ていたということなのである。
◆ガラテヤ人への手紙を読むとかなりの長期間パウロは、表舞台には実は出てこなかったのだ。ガラテヤⅠ(1:17~22)「また、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムに上らず、アラビアに出ていった。それから再びダマスコに帰った。その後、3年たってから~、キリストにある諸教会には顔は知られていなかった。」(2:1)「その後14年たってから~」
いずれ、パウロさんはこの間、自分の言葉でイエスの旧約来の言われてきた救い主の確証を自分の言葉で確認、獲得していったものであろうとの推察がなされてくるのである。・・・

世界のベストセラーを読む(176回目)脱線Ⅳ 神学者 W・パネンベルク

2016-11-13 15:32:16 | 日記
◆20世紀最大の神学者がK・バルトさんならば20世紀後半はW・パネンベルクさん(以降W・P)だって◆
前回に”最後”と書きましたが、言い足りなかったので・・・というか書いておきたいことがあったので。
◇それは、アメリカ大統領に実業家のトランプさんがなったこと。日本のバブル時代、あの演歌歌手千昌夫さんもかなり不動産を持っていて行け行けどんどんで結局落ちぶれたけど、トランプさんもそのときからかなりがんがんやりまくってまして、そのままトランプさんはつっぱしっていたんだ・・・と思わせられたこと。アメリカのマスコミ含めたエスタブリッシュメントは、上層の富を10%も満たない人たちが牛耳っていてその作られたマスコミの情報には中間層以下の声が反映されていないとの声をあからさまな過激な表現でストレートに訴えた訳だ。だからというか、日本もあちらのマスコミをそのままとして鵜呑みにしては行けないということが露出しただけのことだと理解すること。それに、とりまきブレーンには白人優位主義の右翼の方もおられるようだし、かのロックフェラー(おお出てこられた)関係のユダヤ系エリートの方もおられるようで(ということを今朝の特番でやってました。推測はできてましたけど)プロテスタントキリスト教国(そういう歴史を持っているという意味でですが)、日本の神学者の方でもおそらくどなたでもアメリカのどのような階層の人がどのような信条を持って、日常に関わっているかなど、そしてどのような国になるのかなどのご意見はもたれているに違いないと思うのです。何分にも旧約聖書から学ぶことは神から言葉を預かる(いわゆる預言者)の働きで持って、その神託は常に”わたし(神なる自分)は生きている”を示し、実際そのとおりにイエスをこの地上に送られた(誕生させられた)のであるから・・・これからの世界についても預言的推察はお持ちであろうと思われます。で、イエスの言葉を学ぶつつある人々はどう祈るべきか・・・。
◆さて、話が飛んでしまいましたが、元東京神学大学の学長であられた近藤勝彦先生が、そのように述べられており(先の回読んでくださいね)20世紀後半の世界最大の神学者と言えばW・Pさんだと述べられてました。 それで、前回には彼(W/P)の著書「歴史としての啓示」これは1994年11月の初版でしたが、今回載せましたのはそれより新しい「現代に生きる教会の使命」2009年4月25日初版 大木英夫、近藤勝彦 監訳)です。
◆一番初めに出てくる論文の題名が「教会なしのキリスト教」です。この訳にはすでに第171回目に書きました深井智明の「神学の起源」の中の後半にも出てくる内容です。深井先生は訳者の一人でもありますから、2013年6月7日初版のこの本「神学起源」は当然、W・Pの内容も含んでいてこの神学者の名前こそ出てきませんがそのこと「教会内の神学」,「教会外の神学」のことを述べています。それに、この題名からしても今、このような時代に生きているイエスの霊に対等に自分の言葉で格闘しなければいけないのではないかと思わされてくるのです。
◆日本の国はますます、漂う情報の中に埋没しそうになるようです。学校教育でも、自分の意見をしっかり持つことの教育が強調されていくようですが、人とは如何なるものか、父なる神に創造された人間がいかなる者かを相対的に自分自信で見つめ考え、その錨の落としどころをしっかり自覚しなければいけないものと思わされます。
◇わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる」(コリント人への手紙Ⅰ:13章12節)。「わたしは、既にそれを得たという訳ではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようとして努めているのです」(フィリピの信徒への手紙:3章12節)・・・ Ω  

世界のベストセラーを読む(175回目)脱線Ⅲ 神学者 K・バルトさんのこと

2016-11-12 08:44:38 | 日記
◆僕の記憶にあるカール・バルトさんと近藤勝彦先生のことを少し 最後◆
流布された知識としての神学もおそるに足らずです。なぜって、普段着のイエスが僕らにはおられるから「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」です。難しい神学、いやいや、イエスが、ご自身と共にパラダイスに一番はじめに招待された罪人の言葉を僕は自分の人生の終わりに必ず思い起こすでしょう。ルカによる福音書第23章42節。
◆小難しくてオタクのジャンルに入るか・・。で、さっぱりの人にはやはりさっぱりだけれど、神学の世界では今どうなのよ、と深入りしたい人のために。これから紹介の神学者はその道の方で教会形成に関わる方は、ほとんど知っておりますが、マス的には決してあがってこないだろう、その手の方たちが読む、あるいはクリスチャンが読む冊子には宣伝紹介がある中でもさらにオタクの究極のような方たちもいますが東京神学大学の学長を歴任された近藤勝彦先生の著書、「20世紀の主要な神学者たち」(私は彼らからどのように学び、何を批判しているか):教文館 2011年4月10日初版)を紹介します。(バルトさんの文章にはこのようなクネクネした書き方をしているところが時折、見られる。佐藤優さんに言わせると当時の表現主義とか)
この中でご自身が学ばれた主要な8人の著名な(といっても誰このひと?という方が多いでしょうが)神学者を紹介しております。いずれ、時代にあって神様の業(わざ)を自分の言葉で開示し、格闘された方々です。バルトさん紹介したので、近藤先生が”何を批判するか”と題名にありますように、20世紀最大と言われたバルトさんも 先の回に僕が書いた◇読むこと、書くことの制限、制約、人間としての限界にあって、むろんこういう制約から逃れる人間はいなしでしょうが、先生がバルトを批判されておりますので、といっても内容は一般方には困難かもですが、大変なるほどと思われるところがあって、オタクかかってる僕などはとてもおもしろく読みましたしこれからも繰り返し読むでしょう。「神学的に考え、それによって人生を方向づけ、また生きることができる、そういう素晴らしいものが神学にはあると経験した訳です。」(p11)と近藤先生が書かれておりますし、僕も囓っただけですがそう思います。
<8人についてページ内容> ○カール・バルトとの出会いと格闘、○ラインホールド・ニーバーの深遠な聖書的知、○わが青春のパウル・ティリッヒ、そしてその後、○エミール・ブルンナーの人格主義とその問題、○着想の冒険家ユルゲン・モルトマン、○ヴェルフハルト・パネンベルクの歴史の神学、○トレルチ研究とその後、○伝統的でファンタスティックな神学者ファン・リューラー 以上
◆近藤先生が神学を学んで来られた自伝のような書き方をされており、すごい勉強量で(学長さんもされて当然なのでしょうが)、神学の学びの紹介も最後に書かれておりますが、僕らどしろうとには紹介の一人の神学者をじっくり学ぶにしても一生掛けても無理という感じ!です。しかし、思考の訓練とともに、十字架にかかられたあの方から、歴史をもとおしてここまでいろいろ、神学が進展きたのも言葉にはできないけれどすごいものがあるなあと思わせられる収穫にはあずかることができそう。願わくは、僕のようなぼんくらが、偉そうになりそんな知識の大海でおぼれてしまわぬことを自念しております。
◇最後に近藤先生はカール・バルトは20世紀最大の神学者ではあるだろうけど後半のその人は誰かと言われれば・・・「わたしの見るところ、パネンベルクはカール・バルト以降のドイツ語圏最大のプロテスタント神学者、おそらくはドイツ語圏を越えて二十世紀後半、そして現代に及ぶ最大の神学者と言ってよいと思います。」(p19) 
で、もらったその神学者の本の写真を紹介”「歴史としての啓示」W・パネンベルク編著;訳者近藤先生はじめ7名:聖学院大学出版会1994年11月10日)・ ・・ Ω