marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(184回目)ローマ人への手紙(第1章18節から17節)

2016-11-23 19:44:32 | 日記
◆人類の罪◆・・・とゴチックの小題が付けられているところ
(ギリシャ語原典にはついてません。章も節もついてません。)
さて、この章に入るととたんに僕は煙に巻かれるような思いになってしまうのだよ。畏れ多くも内容にではありませんよ。書き方に対して、というより日本語訳の原因なのかな。まずは内容について
◆「人類の罪」という小題が話のくくりとして付けられているけどいいのかな。ローマにいる人々、つまり巷では僕らが考えにくいほど退廃的であたりまえのようにここに書かれているように汚くなっていたのだよ。この地域はね。地中海は物や人の行き来で大変繁盛していたのですな。いわば下世話な何でもありの世界がつづいていたのだ。パックス・ロマーナの世界が広がって行きつつあったんだからね。400年後ほどのアウグスティヌスさんの時代も、それら(人間のていたらく)の余韻があり、彼は遊び人のようだけど「告白」読むと、まあこの時代、誰でもそんなこと(つまり女性との遊び、そういう階級もあったくらい)などは当たり前の世界だったのだ。(今や、キリスト教は世界宗教になったから善し悪しで見分けが言えるけど、つまりそうでない世界はいろいろないかがわしい宗教や道徳などがあたりきであったということなのね。)
◆だから、「他人の行為も是認している」と32節に書いているけど、みんなで行っているから、判定基準がないのだった。つまり、人間は自分で道徳律の基準は作れないということ。外部世界からこれだと示されない限り・・・完全に的はずれになっていても基準がないのさ。だからこそ、背後に律法が神から授けられたきたという歴史のある神の選民、ユダヤ人の存在が、そしてパウロのそれを携えてのキリストの十字架ということが、人類の歴史上、いかに重大なできごとであったのかが推し量られようというものだ
◆人類の罪というより、ここは罪の一端現れであると書かれるべき。実際、キリスト教で言うところの「罪」とは、神の道筋から、その目標からの「的はずれ」のことを言うのね。だから、道徳的に退廃しているなどから考えやすいけど第一にはそうではなくて(だって、道徳は国が違えば内容も違うからね。かといってどこの国でも同性に情欲を燃やすというのはおかしいと思うけど・・・その手の方が読まれていればごめんなさいです)で、神の関係が正常ではないことを言うらしいのですね。それがずれて外れているということ、神との関係が正常ではないことを「罪」というのですと。であるから、罪の結果として、パウロがここに述べたような現象が現れているのだと怒っている訳です。世界の中心たる人間の代表ともなるべき都会の人々がなんということだ。
◆で、煙に巻くようなと書いた意味は・・・読んでいくと、パウロが避難するところの「彼ら」は、先の文書のどこにきちんと読み取れますかということなのです。「彼らは」という言葉が、沢山出てきますが、「彼ら」をきちんと説明していないのですよ。強いて読み取るとすれば、一番最初に出てくる(1:18)「付議によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」とあるだけ、すぐ後に「彼らは」と続くのですね。とすれば、パウロさんから目から言えば、天下の世界の首都ローマとも言うべきところの当時の世界の中心はパウロにとって人間の代表であると見なしている訳です。当然、当時のです。ここが、僕らが今読むと文書からしても(訳のせいなのか分からないけれど)違和感を感じてしまうのね。先に「この人たち」ときちんと書いてないから。いずれにしても、手紙の前にこういうことを書いているのは、パウロはローマに訪れたことはないけれどいろいろいろ情報をたっぷり抱えていたと言うことになる。
◆ここでは、イエスのことが出てきませんね。内容からすれば、イエス以前の全人類を創造したことが書かれている創世記あたりがパウロさんの頭の視野にあるわけだ。当然、創造の摂理(神の規則)に従えば、そうではないはずなのにやはり異邦人たちは退廃の極みではないかと・・・。それと同様に神が造られし自然を見よ。(1:20)「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れているではないか、それを通して神を知ることができる」というのです。当然、このような書き方は、イエスを知らずに離散したユダヤ人、そしてその周囲の異邦人に向けて、つまり宗教にとらわれない地球的な視野を持った普遍性を交えてパウロは、語って自分が獲得した天地創造の父なる神を背後にイエスの理解が将来にわたり普遍的な世界宗教になっていくことが見えていたのです。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(183回目)脱線 K・バルトさんに文句をつける

2016-11-22 19:07:54 | 日記
◆20世紀最大と言われた神学者カール・バルトさんに文句をつける◆
先の「福音の力」とゴチックで小題が付けられた2節(第1章16節と17節)は、ローマ人の手紙のパウロさんの中心主題なのです。ですから、なまじ簡単に言葉の羅列でよく考えると分からない(せっかく自分の言葉で読もうとしているのに)観念的な言葉でごまかされそうで!?、これでふむふむなどど知ったかぶりしていると、なんかどこを読んでもそういう観念的な分かったようで実はよく分からん言葉で押し切られそうで、それでは駄目じゃんという気持ちになってしまうんだな。それで、ここの「信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる」という17節は、僕などは先の回に書いたとおりなのだよ。
◆パウロさんはその気持ちがあったからこそ、ローマにいる人々に手紙を書こうとしたのです。バルトさんの訳、「真実から信仰へ至らせる」というのは、僕に言わせると「Nein!」だなここの節はパウロの前までに書かれた文章から切り離されて読み取るべきではないのです。ギリシャ語でも繰り返し同じ言葉が並べられているから、訳としてはこのままなのだ。しかし、パウロが考えたのは、前の言葉の「信仰」は、エルサレムで、イエスが十字架に掛けられたそれは旧約時代からの神の言葉に預言されたものであった救い主であるとの言い伝え。それは、とおく離れたローマのおそらく離散のデアスポラユダヤ人たちが住む町との行き来をしていた異邦人たちなどからの話を信じたのであって、それはイエスを信じるという信仰ではあるけれども、しっかりした内容(どこまでがしっかりというのかは問題があろうけれども)の理解された内容のものでなかったのです。つまり弱い、僕の言葉で言うなら自分の言葉でしっかり捕らえられていない内容のものだったのです。それを、わたし(つまりここではパウロ)のように復活したイエスに出会い、今まで自分が学んできた律法やパリサイ派の決めごとなどを遵守してきた者が体験し、それこそ深いイエスの十字架の理解をしたもの、つまりは自分の言葉でしっかり捕らえた強く深い信仰(強い信仰)の者(パウロ自身)から話を聞くことができるのであれば、それはローマにいる信仰を持つ人々も、よりいっそう深い信仰となり喜びもさらに増し加わることになるだろうとの確信があったのだ。そのことが前の節にまで著されているのだ。だからこそわたしパウロは、ローマの人々にも早く会いたいし、喜びを共に心から分かち合い励ましあいたいのだと述べているのです。
◆(1:11)「あなたがたにぜひ会いたいのは、”霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」(1:12)「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし会いたいのです。」
どうです。パウロさんが「信仰に始まり信仰に至らせる」と書いた意味がすっきりしてきたでしょう。パウロのこの手紙を書いた意気込みが聞こえて来るようではありませんか。それはユダヤ人だけではなく、その福音の喜びは信ずる者すべてにとって救いをもたらす神の力であると、もう一度、これはみんなに語りかけるのですと前書きを新たに正して16節を入れているのです。
◆バルトさんも僕らも時代の人、必ずや何らかの制約を受けています。バルトは水平な広がりから解釈はしていません。神は絶対他者なのです。神と人間の断絶面が強く表れています。「真実」とは目の前の事実、十字架で言えば縦の杭です。しかし、パウロは、少なくともこの言葉では、十字架の横棒、つまり時間的経緯(旧約から、デアスポラから広がりへの)水平の考えを持っていたと読み取れます。
◆そうであることが、次回以降の手紙の内容からも読み取れてくるのです。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(182回目)ローマ人への手紙(第1章16節から17節)

2016-11-21 19:10:55 | 日記
◆福音の力◆ 2節のみですが話のくくりにゴチックで書かれている表題です。
この表題が少し前の口語訳聖書には書かれていないのもある。当然、後で訳者がつけたもの。ギリシャ語原点には当然、ルビのような節の数字や第何章などは書かれていません。で、この2節についての表題の中身は、実はパウロさんの中でも大切なところです。それは、ルターさんもパウロの手紙はローマ人への手紙と言われていますが第一に挙げる「信仰義人」の言葉が書かれているからなのでね。
◆(1:16)「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」(1:17)「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」 口語訳です。ところが、新共同訳では
◇(1:16)「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(1:17)「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しいものは信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」 少し違うね。前の方が原点に近いと思うよ。
◇その前に、書いてあるとおりです ってあるけどどこに? 前のどこかに。それは、先理解必要なところだな。旧約聖書ハバクク書第2章4節「神に従う人は信仰によって生きる。」(新共同訳) これは、ガラテヤ書第3章11節、へブライ人への手紙第10章38節にも同じ言葉があります。パウロの中心思想なのです。だから、こそといいますか、M・ルターさんはこの言葉に啓示をビビッと受けたのです。当然、ルターさんはそれまで求めに求めていたのよ。
◆「信仰」はギリシャ語で「ピスティス」という。バルトさんは次のように解釈したけど、僕などは凡人なのでその通りに読むな。小難しく解釈などしないよ。171回目に掲載した”平凡社ライブラリー”ローマ書講解(上)(小川圭治・岩波哲男訳)カール・バルトさん訳では、次のようになっているのです。「わたしは救いの音信(おとずれ)を恥としないからである。しかしそれは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。というのは、神の義は、その救いの音信の中に啓示され、真実から信仰へ至らせるからである。これは「わたしの真実によって正しい者は生きるであろう」と書いてあるとおりである。
◇曰く、信仰から信仰へ至らせるというのはどういう意味なの? ということなのだ。凡人の僕はそのとおりに読むとは、つまり、より深く信仰が自分のものになることを信仰から信仰へと書いたのだよ。
そのヒントはね、パウロのその前の文章に現れているのさ、僕が疑問に思ったところ。それは、一度も行っていないローマの人の群れに対して8節に、「あなた方の信仰が全世界に言い伝えられている」と書かれている。それなのにパウロは、15節で「わたしの節なる願いは、ローマにいるあなたがたにも福音を述べ伝えることなのです。」とあります。つまり、「信仰から信仰へ」とは、「読み、聞き伝えの漠然とした信仰」(8節)から「福音の信仰」(15節)(これは、より理論的につまりパウロがこれから書く手紙文の内容のようにしっかりした福音の信仰)へという意味なのです。これは、パウロのように自分の言葉で読み、聞き、理解して確信する深い信仰へと進んでいくことなのだね。それが、「信仰から信仰へ」ということなのです。(・・・と僕は思う)・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(181回目)ローマ人への手紙(第1章8節から15節)

2016-11-19 19:04:58 | 日記
◆ローマ訪問の願い◆
かっこえぇのでもう一度、パウロさんの気質を著しているような像の写真を掲載する。パウロはこんなイメージなのです。 
      (ローマのサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会の前の聖パウロ像)
コリントの教会はパウロが建てた教会である。ローマはすべての道はローマにつづくと言われていた大都会でした。今まで行ったことがないローマにパウロは何度も訪問したいと願っていたと。ところで、一度も行ったことがないローマになぜ、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることに感謝しているというのだろう。それから推察にするに僕らが今考えられる以上に、人の交流の行き来が盛んだったのですね。だから、天下のエルサレムとの交流はたいそうあったのだ。
◆僕はいつも壮大な神の計画のようなもの感じてしまう。神のことを全世界に知らしめるべく、その地で礼拝を捧げる選ばれし民の離散。旧約時代、イスラエルの12部族は離散の羽目にあう。世界史で習うバビロン(BC598,BC587)で失われた10部族の離散、どこへ行ったのか旧約の民。そして、イエス昇天後のステパノの殉教によるキリスト者の迫害、離散。ほんとうに広くこの世界は天地創造の唯一の我等の神が造られたのだと彼らは怖れず世界へ出て行ったのです。そこでシナゴークを作り礼拝を捧げた。当然、異邦の民もいたわけだからそれらは唯一の神の感化を受けて混然一体となった社会に神の民は生活を営むようになる。そして、顔立ちや風習や伝統も当然言葉もその根は残しつつも少しづつ変わっていく。ユダヤ人は今も失われた部族を探しているのだと。当然、日本にも。特に日本は神社の造りや風習、地方の言われ、民謡などのかけ声などこじつけがましいがヘブル語らしきものが残っていると。
◇日本の国民は特殊なように思うよ。仕事で海外出張に行って帰ってくると本当に日本人は優秀だと思う。まだ、組織面が弱いけどね。戦争に負けた真の原因がまだ分かっていない。だから現に今も、三●自動車の会長にカルロス・ゴーンさんがなるわけよ。彼の故郷はレバノンにさかのぼる。彼は宣教師からの教え、旧約の民の合理性に大きく影響を受けたようですね(・・・と脱線しはじめたのでやめます)。もとい
◆世の終わりにわたし(神)はエルサレムに集めるというようなことを言われているからね。だから、バルフォア宣言によってイスラエル国が1984年に誕生したときはそれはそれは大変な事件だった。今のパレスチナね。こういうことを書くときりがなくなりますからいずれ。
◆ヨハネで学んできたイエスが「その時が来た」と言われた時とは、いつであったかを思い起こしてみるとそれは、ギリシャ人がイエスに会いに来た時であった。つまり、イエスは失われた羊のところへと来られたわけであるが、すでに壮大な将来を見据えての父のからの使命の成就にこの世に来られたわけであるということが理解されてくるのです。パウロは言います。
◇「(1:14)わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。(1:15)それで、ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」
もう一度書くとローマに信仰が全世界に言い伝えられていると言いつつ(1:8)、パウロが 是非、福音を告げ知らせたいといっている(1:15)訳は、まさにすべての道はローマに続くが故に、ローマでイエスの言葉がしっかり定着すれば、つまりイエスの十字架の意味を知り、自分の言葉でイエスと会話でき(祈りができ)、信仰の告白ができる人が、その人々の群れが一つでもしっかりできれば、それは逆にローマに続くすべての道から全世界に出て行くであろうと確信していたからなのです。だから、この論文めいた手紙が書かれたのです。そして、今も全世界の人に影響を与えているのです。・・・ Ω 



世界のベストセラーを読む(180回目)脱線 ローマ人への手紙(パウロさんのこと)

2016-11-18 20:15:16 | 日記
◆パウロさんの一番著名な新約聖書のローマ人への手紙◆
いきなり聖書の読み始めも何ですから、脱線を入れまして、後半に表題のことを書きたいと思います。さすがパウロさんには、時代背景やご自身の経歴、そして気質などいろいろ細かに直接尋ねてみたいと思われる方がおられるでしょうが(そして、それは自分の言葉で読まれようとされる方には必要なことだし、そのことによってより当時のパウロさんの思いがより分かると思うので大切なことだと思います。パウロさんが真に伝えたいイエスの言葉が直接あなたに必ずや聞こえて来るに違いないと思います。)神に異邦人伝道者として別たれた方ですから、僕ら異邦人にはその内なる燃え上がるような闘志には圧倒されて元気が出ますよ。
◆ローマ人への手紙は、パウロさんが神からの啓示として受け取った教理(真理と受け止めた教えの体系)とも言えるものですね。パウロさんの手紙でとくにこれほど世界中で解説書が書かれたものはないと思います。日本でおそらく一番読まれております聖書は日本聖書協会からの新共同訳「聖書」だと思いますが(口語訳を使っているところはごめんなさい。他の宗派の方がおられたらごめんなさいです。)読む人が分かりやすいように、内容の説明が節のくくりごとに表題がゴチックで書いてあります。不完全で限界のある僕らには(罪ある人間はといった方がいいのでしょうが、”罪”というのもどういうことかと僕ら異邦人にはきちんと先理解しておかねばなりません。実は一般のかたが常識的にまず、毛嫌いと面食らうのはこのことで・・・)機械的に読むだけであれば、1時間もしないでこの手紙は読めますが、パウロさん曰く神からの啓示ということに関しては、真摯な思いでとり組みませんとパウロさんのような燃えるようなイエスを異邦人に伝え、共にその喜びにあずかり励まし合うという感覚にならないかも知れませんよ。
◇どうぞ、その思いのさわりにでも触れてあなたご自身もあなた自身の普段の言葉でイエスと語り会えるようになって欲しいと願います。ご注意は、啓示なりの真のところに触れたく確かなものにされたい方は、一転僕の考えだけでは白旗を振ります。どうぞ福音主義のキリスト教会へ行かれて牧師さんのお話を聞くために通い続けて欲しいと思います。そこではきっと機械的知識ではなく、共にイエスと語るご自身の言葉を見つけ出せると思います。それは、そこには共同体の群れから、また多くを学ぶことができるからです。そして実際はそちらが大切なのですが、この日記の趣旨からはずれますのでこれ以上は書きませんが 大切なのは自分の言葉です。(常に祈りなさい、とはそういうことだと思っています。これはイエスとの会話です。)
◇自分のものにしてしまう不完全な人間の集まりに対して、これでOKとういう自己満足が出てきて分かったようになることに対して(それはある到達点に行くのは大切なことなのですが、それに満足し腐敗が生じてくることに対して常に神は「Nein!」(違う)と言うのでは無いでしょうか。これが今までの歴史に中で生ぬるくなった時代にあのニーチェが「アンチ・クリスト」を書いた理由でしょう。(彼は牧師の息子で秀才でした)。その道の方で、彼をあれは読むべきではないなどとおられる方もおりましょうが、(だから、後年発狂したのだと言い放つ人がいるのですのですが)人間のうごめいたきた歴史というものをもう少し勉強されることを望みます。そういう意味からも戦争で人殺しする歴史を体験したかのカール・バルトは「Nein!」と言ったのだと僕は思います(これについては先の回読まれたし)。さて、
◆パウロがイメージ的にどんな方かというとふさわしい写真がありましたので掲載します。
      (ローマのサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会の前の聖パウロ像)
やっぱりこんなイメージですね。剣を持つことなどまずなかったでしょうが、異邦 人伝道に燃えていた熱血漢であり、ローマ市民権を持っており、生粋のヘブライ人であり、当時の筆頭の律法学者ガマリエルに学んだし、非の打ち所のないエリートだった人。復活されたイエスに会い、180度考えを入れ替えて異邦人伝道者となったパウロ。かっこえぇ!
・・・ Ω