◆新年早々、昨日に続き2日目の朝、BS1のテーマは実に重かった。死者も出るコロナ禍の中、生と死を改めて考えようとしているのか、そして戦争が年を跨いで起こったからなのか。テーマは「巨大戦艦 ”大和” 乗組員の見つめた生と死」・・・戦争は何故、起こったのだろう。やはり、当時は鬼退治か、お山の大将が一番と考える時代だったのだろう。・・・時代、時代。それにしても、すぐ近くの小高い丘のお寺の境内にある石の五重の塔の敷地にも、”軍国の母”と言えばいいのか、その大きな碑が建っている。全力尽くせば、神は願いを聞いてくれるのか、神の目線から外れた肉的次元の勝利を願えば聞いてくれるのか。無用の長物となった「大和」も、巨大空母「信濃」も、大きければ強いと思ったのだろうか。まさに時代と言えばそれまでであるけれど、戦う相手の神を知らなったと言えばそれまでである。日本のそこまでに至る経緯の歴史を学べば、そこに答えが見つかるだろうと僕はいつも思う。艦上員だった吉田満の”戦艦大和”という文庫がある。彼はキリスト者となったことを大木英夫という神学者の著作から知った。◆続いて放映された、アウシュビッツ”死者の告白”。ユダヤ人の中にもソルダーコマンドと言って、ユダヤ人のガス室、焼却を手伝わされたユダヤ人がいて彼らの埋められていた手記が収容所の周囲から見つかり解読されて来たという内容であった。なぜ、人はこんなにも残酷になれるのか。強制収容所を体験したV・E・フランクルの「夜と霧」を見たのは学生の時だったが、かなりショックだったな。彼の精神を支えたのは、やはり聖書だったろうと思う。彼の書いた「人間とは何か」の序には、詩編126.5-6が載っている。どのような人間でも、神は自分に似せて人を創造したと言われた。人を殺めることはその神の似姿を殺すことになろう。”汝、殺すなかれ”と神は言われたのである。・・・Ω
◆午前BS1で 『永平寺 禅の世界』 その後、『ニッポン創世 神々の道を辿る』を見た。日本人の信仰心、特に雲水や修行僧なんどの毎日の務め、朝早く寒い中に 生活のすべてが修行の内にあるというその行。日本にこのような宗教がある限り、日本の国は滅びない 何故か、そんな気がいつもしている。そして、後半、日本書記や古事記の神話を巡る旅、出雲や九州など今一度、大づかみの物語の把握ができた。◆先のブログに、聖書のイエスが語るところの「自分」ということについて僕なりに思わせられることを書いてみた。振り返って、道元は「心身脱落」をいう。つまるところ、肉につけるところの「自分」のその肉体、そして思いを脱落させる境地になることをいう。自分を知ることは悟りの入り口である、しがらみ、こだわりという自我を棄て自由な自分になることだと。それは他己への境地も脱落することであると。その行いは「只管打坐」。坐禅の教えは40ヶ国にもおよび、イタリア、ミラノに普伝寺という禅寺として承認された寺がある。イエスは山にのぼられ毎朝早く祈られた。その祈りの核。それは目には見えないが永遠に流れる普遍的命の霊の源泉。いずれも宇宙の普遍的な命の流れの異次元のスゥィートスポットに乗る・・・そんな気がする。◆日本の神々の神話は、古代、多くの渡来人が来て日本に同化したが、その国作りのアイデンテティーを形成するための物語であったろう。これも僕の追求のテーマだったから、元旦、午前のテレビを見て静かな新年を迎えることができ、感謝な朝だった。・・・午後、新年の祈り会へ出席。