◆僕がなぜ、澤瀉久敬(おもだかひさゆき)の古い過去に読んだ文庫の再読に引かれたのかと言えば、世界のベストセラーを学ぶ(「読む」ではなく、この国においてキリスト教神学を学ぶと言い換えてもいい)人々の心構えということに必要な前提であろうなと思われたからなのである。だから、僕はこの国の歴史にも関心があって、この国の古来からの人々がもつ信仰心というありどころ、その所作や伝統に残されてきたところの形にもその本来の、本当の行き所を提示しく求めたいがために学んできたところなのです。現に形としても伝統としても残されて来ていることがあるではないか、そのおおもとは何なのかということ。言葉が文字となってから、歴史が始まるのだろうが、結局、信仰心、まして神が人を創造されたというその神を求める、慕う、願う信仰心というものは、文字以前のことだからである。しかし、僕らは、神を求め、学ぶにしてもその「学ぶ自分」という当然のことが分かっていない。本当の歴史も教えられていない。だから、イエスが「自分を捨て・・・我に従え」などと言う言葉にであうと、面食らってしまうのである。◆「人と言うのものは誰でも過去をもつ、自分の過去を現在に保存しながら、現在の自分をふくらませることによって、はじめて自分と言うもの、すなわち他人ではなくこの特殊な自分というものが形成されるのである。文化と言うものはそういうものである。・・・現在とは、拡がった過去を現在の一点に集め、それを更に未来に開いてゆくものである。それは、拡がった過去と拡がった未来を結ぶ一点である。・・・現在とは扇子の要なのです。」(「自分で考える」ということp84~86)◆欧米の哲学や特に実存主義などは、まさに自分とのすべての関りを言葉にすべくための格闘だったのではないだろうか。イエスは、生きているというその彼との対話であり、格闘であった。「天国は激しく攻められている、攻めるものがそれを奪う」の言葉のとおりである。先に書いた二つの「J」のためにと、この日本を愛した内村鑑三の信仰心は、神がこの国を導かれているに違いないという確信があったからなのです。しかし・・・ 続く
◆人生もだいぶ後半の入り口になって来て、暗い学生時代に求めていたことが、例えば、'60年代、E・H・エリクソンなどの「アイデンティテー(自己同一化)」などが、読まれた時代や、あるいは、心理学が台頭し教会の教えにとって変わるのではないかと叫ばれた時代もあったけれど、今一度、問うているのは、何ら僕らが生きて来て、人として当たり前のこと自体が、誰でもが当然のこととして、その前提自体を問うて見ることもなかった「人というのは、そもそも何なんだ」ということだったのではないだろうか。そして、それは、今でも学校で教えられることとはなっていないというのは、なんとも不思議なことではないだろうか。◆例えば、こうだ。前に書いた東証のシャットダウン。あたまえに動いているそのインフラがダウンすることで、すべてが何おか言わんやとなってしまう。すべての舞台がなりたたない。これはまさに、イエスが、例えでこう述べたことを思い出す。天国のことも考えないある金持ちがたんまり金を蓄えて、これから何をすべきかと思案すると、神がその男の命をとってしまうというおろかな男の話。あるいはトルストイの寓話でもいい。一日歩き回れるだけの土地をお前にやろうと言われ、欲をかいてまだまだと歩き回っている内に死んでしまい、その男に必要な土地は自分の入る墓穴だけだったという話。◆さて、イエスが言われた「自分の命を愛するものはそれを失い、自分の命を憎むものはそれを得、永遠の命に入るであろう」と言われた「自分」とは何なのか・・・。今、世界で実に多くの方がコロナ・ウィルス感染で亡くなっているではないか。毎日のニュースでその数字をいわれても、マンネリ化しそうになってくる。関係の無い高齢者の方がたの数字が含まれている場合もあるだろうが、世界的にその数値はシェアーされて、実になんとも驚きの考えられない人間の時代になったのではないだろうか。まだ、永遠の道に残されている人々がいる。イエスは、このときも語るのである。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。(ヨハネ伝3章)
◆『「自分で考える」ということ』、という本の中の ”個性というもの” という章に「自分とは」が書かれていて感銘。しかし、この方は、医者でもあり、学者でもあり、すでに亡くなられていて・・・、そもそも世界の多くの著名な本を残されている方々はご先祖伝来の知能、DNAのレベルが異なるのであろと。けれど、それらもある人々には必要であって、それは、人が自らの「言葉」でもって人それぞれのありようを、その時代、その時代を改善すべく書物に著してきたのものなのだ。だから、時代に影響されていない書物とはないわけだが、なぜならその読者はその時代に生きて読まれていたから。その中でも後の時代に読み継がれるのは、それなりの数段うえの普遍性を述べたてきたからであろうと。◆その”個性というもの”の章から拾い書き留めておく。****「結局、個性的であるとは、自分と言うものを持っているということである」、「個性がなりたつためには統一的な働き、すなわち内的統一がなければならないということになります」、「自分というものは、ただ内的統一の原理であるというだけでなく、外界に積極的に働きかけるものである」、「能動性をもつということは、一言で言えば自由をもつことです。・・・自由のないところには自我はなく、自我のないところには個性もないということになります」、「要約するとこういうことです。個性的であることは自分をしっかりもつことで、その自分とは内部的にも外部的にも自主的な自発性、能動性をもつことである。それは一言で申しますと、自由を持つことであります。だから、自由のないところには自我はなく、自我のないところには個性もないということになります。」(p79~82)この後にさらに、「我々は過去を背負っている存在で、それが文化を作っていくものであると、さらに、人の精神性の一般化、普遍性に及びます。自分の現在とは扇子の要のようなものであり、芸術における普遍性は、それらの個性的なものが自分の内においてより根源的なものに触れているために、同じ根底の上にあるすべてのものと相通ずることとなるのである・・・・」と語られます。◆考える基本としての「自分」の基が、普遍的な時間の流れの根源に触れる。僕が求めている「G」とは、その流れに乗る自分の中の核(芯)となるものを述べているので非常に共感を持って読んだのだった。
◆AIやDXなどが流行り、これからは人が考える代わりにそれらが、人の思考や五感機能のほとんどの代役を果たしてくれる時代となるだろう。もうすでに多くの願望や欲求を叶うべくゲームや漫画などビジュアル系は、僕らの目からの欲求を満たしてくれている。しかし、受けとる側の僕らの肉体の機能は、どうなのだろう。まったく、僕らの頭脳がそれに順応するかは、別問題だ。それは、基本の知能の優れた親からDNAを受け継いでいない僕らにとって、ますます被享楽者側になっていくからだ。そこにあるのは、結局のところ、そのルートを発展から維持、そして拡張すべく、インフラのためのお金に係わってくるものなのだ結局のところ。その切り替わりの、時期に気を付けないと手段と目的がひっくり返ってしまう。つまり、あのユダのように”命”を”お金”で売るという手段にとって代わる危険性があるからなのだ。◆これは、いつの時代も、人の営み、考えに付きまとうものである。怖いのは、それに気づかないでいることなのである。だから、僕は考える、自分と言う核(芯)を常に確認すること、そこから始めることだ。生まれてからそのままの人は「自分とは何か」などということなど考えもしない。それが普通なのだ。勝手に思うことなのだが、雲水が坐禅を組み、修道者が早朝に祈るなど、その核心が、滔々と流れる命の根源に同期させ、人々の安泰を願い、祈る。命あるすべてのもの。◆人は能力や機能の衰え、存在自体に悩むこともある。しかし、その我らのすべての命をあらしめている存在が、その存在自体を肯定する。誰でも、今あることに肯定がなされるのだ。そして、それに繋がっていなさいと、常に促される。観念的?! 否、とその方は言う。東証がシャットダウンした事故があったでしょう。私が例えたいのはそういうことだと。私が愛して止まない人のドラマも、その舞台のインフラが消滅すればドラマはなくなるのだ。あなたはそれでいいのか、と問うているのだ。普段の中の知られざるその中に、いきいきと生きる哲学があるだ、と。今、まさにその多くの主人公が消されようとしている。世界の死者185万1千人(今朝現在)
◆昨年末の12月26日に挙げた”☕ ブログに掲載の”の再紹介。澤瀉久敬(おもだかひさゆき)の著した『「自分で考える」ということ』(当時、角川文庫)の再度の紹介。この「自分」というのは、どこにあるのか、ということが課題だった。今も生きておられ語られているイエスという方が「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言い、他のところでは、「自分の命を愛する者はそれを失い、自分の命を憎む者はそれを得るであろう」と言われた相反するようにも読める「自分」についてである。◆医者でもある澤瀉が信仰などとは無関係に、事実としてその著書で語った「自分」とは、「神の愛された自分とは何か」の回答を与えているように思われたのだ。イエスが語られた「神が愛され、永遠の命に導かんとするあなたの真の霊的核(芯)ともなるべく本当の自分に気付き愛せよ(わたしに帰れ)、そして良し悪しにつけ遺伝的にも、肉にまとわりつく生きる過程で多くの雑音にまとわりつかれ、霊的障害をも犯しているその肉の自分と隔絶せよ(憎め)」と言われているように思われるである。パウロが手紙に書き「自分の救いのために励みなさい」と述べた彼の神学は、まさに今、そして後世において世界の人々が読んでくれるであろう、自分の手紙に、誰でもは人はどの時代に生きようと、生きているのは自分であってどこにも似逃げ切ることはできないからだ、命を与え、霊を吹き込み、永遠の命に導かんとしてされて、いつも語りかけられている「真の自分」に気付きなさい、とそう述べているように読めてならないのです。◆人は、真の自分を知り始めたときに、イエスの十字架が見えてくるであろう。生きているイエスに出会いうのは「今生に命ある今と言うこの時にしかないのだ」と・・・続く