ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

かわいらしいハッチョウトンボを見ました

2010年07月23日 | 季節の移ろい
 ハッチョウトンボ(八丁蜻蛉)は胴が真っ赤なトンボです。
 長野県大町市の唐花見湿原(からけみしつげん)で見ました。このトンボは、トンボ科に分類されるトンボの中で、日本一小さいそうです。世界的にも最小の部類に属するそうです。暑い夏はトンボが謳歌する季節です。
 
 長野県大町市の南側から長野市に向かう国道につながる山道の途中に、唐花見湿原があります。針葉樹の森の小道を抜けて立ち寄ってみました。比較的小さな低層湿原です。入り口には「熊出没注意」の札が立っていました。

 木道に注意深く踏み出すと、湿原は水量が豊かで、ヨシなどが人の背丈より高く伸びて茂っていました。湿原全体が見通せないほどです。ヒオウギアヤメが数本、湿原の奥で咲いていました。ヒツジグサの葉も水面に浮いています。花は咲いていませんでした。


 湿原は針葉樹の深い森に囲まれ、一部開けた部分が夏の高原野菜をつくる畑になっています。鳥の鳴き声以外は何も聞こえない静けさに包まれています。

 この唐花見湿原の見所は、7月中旬から8月まで飛び交うハッチョウトンボだそうです。全長2センチぐらいの小さなトンボですが、緑色の草などの上を飛んだり、留まったりするので、補色の赤色の胴体はとても目立ちます。


 胴が真っ赤なのは雄だそうです。近くに似たようなトンボで、胴が褐色のものがいました。これが雌のようです。

 飛び立って、すこしホバリング飛翔してどこかに留まります。最初は小さいので見つけるのに苦労しましたが、よく見るとかなりの数のハッチョウトンボが飛び交っていました。


 ハッチョウトンボ以外のトンボも数種類います。この湿原は、トンボが謳歌する楽園でした。午前9時ぐらいに立ち寄りました。既に先客がお一人おられました。ハッチョウトンボ目当ての方で、盛んに撮影されています。接写用のレンズをつけたかなり高価な機材をお使いでした。トンボは羽根が透けているため、できるだけ下側から撮影して羽根を巧みに表すようです。自然観察の写真撮影がご趣味のようでした。

 湿原の中には低木が多数生えています。湿原が時間をかけて変化している途中です。この低木の中に、多くのモズがいました。鳴いたり、飛んだりと賑やかです。じっとしていないので、モズは残念ながら撮影できませんでした。うっそうとした針葉樹の森はカッコウが鳴いてもいい雰囲気でしたが、鳴きませんでした。遠くでイカルがたまに鳴いていました。

 湿原から山道に戻り、国道を目指しました。現在は大町市になっている旧八坂村を流れる金熊川(かなくまがわ)沿いを抜けていきます。金熊川は、長野市に向かって流れる犀川(さいがわ)の支流です。川沿いに小さな畑や田んぼが続く山村です。

 山道の途中のバス停で、バス待ちの方々が高年齢者ばかりだったことが気になりました。公営のマイクロバスとすれ違いました。住民の高年齢化と少子化の片鱗を感じました。この山村の住人の方々は何で生計を立てているのか気になりました。

 

八方尾根自然研究路で出会った高山植物の話です

2010年07月22日 | 旅行
 八方尾根自然研究路を散策した話の続きです。
 白馬岳(しろうまだけ)を中核とする一連の北アルプスの連峰は、“花の名山 白馬”としてアピールしています。特に7月下旬はその最盛期として、白馬村はスキーシーズンに加えて、春から夏、秋にかけての観光にも力を入れ、集客に成功しています。

 標高1974メートルの石神井ケルン(八方山ケルン)の下側には、ある程度の規模の雪渓が広がっています。7月下旬に残雪に会える点でも驚きです。この雪渓は猛烈な勢いで溶けて小川をつくり、周辺に清水を供給しています。この結果、ワタスゲなどを中心とした高山植物のお花畑がトレッキングの路の周辺に広がっています。

 トレッキング客にとってはちょうど目指す八方池までの中間地点になるため、お花畑を見ながら一休みする絶好の場所になっています。半分まで歩いてきたと、ほっとするいい場所です。木道の路の両側にベンチが設けられ、休みをとる雰囲気を醸しだしています。ここでは、休憩をとりながら、高山植物の“図鑑”などと照らし合わせて、花の名前を熱心に調べる方や、正確な名前は知らなくても、きれいな高山植物を見て満足する方など、反応はさまざまです。

 ちょうどワタスゲの開花時期だったので一番目に付きました。緑色の絨毯の上に、綿のような白い花が風になびいて心安らぐ雰囲気です。


 辺り一面は高山植物のお花畑で緑色に染まっています。岩がごろごろしている乾いた感じの部分が多い中で、高山植物が広がっているお花畑はまさにオアシスです。見事な緑色の眺めです。ユキワリソウ、チングルマ、ハクサンチドリ、ハクサンフウロ、タカネマツムシソウ、ミヤマダイモンジソウ、コイワカガミ、ショウジョウバカマなどが所々に咲いていました。

 どの花も、一般の高原など(私の場合は、霧ヶ峰高原の八島湿原などが比較対象です)で見かける花より一回りか二回り分小さく、地面にしがみついている感じでした。高原などの高山植物の亜種で、「タカネ」「ミヤマ」「コ」などの名前が付いています。

 例えば、標高1100メートルの荒船高原ではショウジョウバカマ(猩々袴)は5月上旬ごろに、浅間山に近い湯の丸高原の上側にある標高2000メートルの池の平湿原ではハクサンチドリ(白山千鳥)は6月下旬ごろにそれぞれ咲きます。今年はハクサンチドリの花に会いに行く機会をつくれなかったと思っていたため、今回出会えて予想外の驚きと幸せを感じました。

 八方尾根では雪渓の下で雪解けまで待って、湿地が出現し、高山植物は急速に成長して花を咲かせ、実をつけて次の初夏までじっと待っているのが、八方尾根の高山植物の一生のようです。

 今回、初めて出会ったのは、ミヤマダイモンジソウ(深山大文字草)です。2カ所で花を見ました。そう多くはなく、意識して探さないと見逃してしまいます。


 普通の園芸植物のダイモンジソウに比べて、葉が小さく少ないです。花も数輪つけているだけでした。可憐です。

 花が少し小さく、全体に地を這うような感じのチングルマは、やはり高山植物の代表格でした。高山植物のイメージを具現化した感じだからです。もうすぐに実を付けます。この実をつけた風情もなかなかかわいいのです。


 ユキワリソウ(雪割草)も小さなサクラソウの感じがしました。か弱い感じのサクラソウです。荒船高原に5月に咲くサクラソウは可憐ですが、力強く群生しています。

 このお花畑以外では、出発点から石神井ケルンまではミヤマアズマギクやクガイソウが、到達点の八方池付近ではタカネバラとチシマギキョウがそれぞれ印象に残りました。タカネバラはハマナスに似た花で、低木に咲く花なので目立ちます。鮮やかな赤色の花です。

 八方尾根自然研究路では、このように、多彩な高山植物がいくつも観察できるので、みんな苦労して上っていきます。可憐な高山植物の“ショールーム”になっています。スキー場のリフトやゴンドラなどのおかげで、歩き始める個所として、標高1800メートルまで一気に上れるからできる芸当です。上り始める個所は、1998年に開催された長野冬季オリンピックでは、大回転競技の滑り始める場所だったそうです。文明に支援されながら、ご年配の方々や子供たちは高山植物を楽しんでいます。おそらく、数10年前は秘境だった場所です。

八方尾根自然研究路を歩いてきました

2010年07月21日 | 旅行
 名峰の白馬岳(しろうまだけ)を仰ぎ見ることができる八方尾根のトレッキングコースを歩いてきました。
 八方尾根スキー場の上側部分に伸びている登山道までのアプローチを歩くコースです。多彩な高山植物がいっせいに開花する7月下旬に一度行ってみたかったコースです。

 このコースは「八方尾根自然研究路」と、仰々しい名前が付いています。標高2060メートルにある八方池まで歩く、距離約7キロメートルの“素人”向けコースです。これより上側を登るには「本格的な登山装備が必要」と説明されています。コースの途中では、五竜岳や鹿島槍ガ岳を間近に望める個所や、白馬三山(鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳)を望める個所があるなど、登山を少し体験した気になれる路です。


 歩く個所を地図で冷静に眺めると、白馬岳や立山などの長野県と富山県にまたがる2000数100メートル級の山々が連なる北アルプスの縁(ふち)です。イントロ部分です。でも、あこがれの名峰を望むことができ、可憐な高山植物や雪渓が楽しめる人気のコースです。

 歩き始める出発点は、八方池山荘がある黒菱ラインの起点です。ここはスキー場の一番上で、冬にスキーやスノボウを滑り始める場所です。ここの標高は1830メートルもあります。標高差200メートル強を約2時間30分かけて往復するコースです。標高2000メートル付近にはまだ小さな雪渓があり、溶け出した水が勢いよく流れていました。この清水が貴重な高山植物群を育てているようです。

 歩くコースは整備されています。雪渓近くには木道が配置され、歩きやすかったです。これ以外の個所は石を組み合わせて、階段状に組んであります。段差が大きい個所は、日ごろ鍛えていない足腰には効きます。ご年配の方は下りの際に、自分の脚力以上の段差を降りるのに苦心していました。こうした年配の方まで引きつけるのは、可憐な高山植物を数多く見ることができる山野草の宝庫だからです。ある意味では山岳信仰による修行の意味も少しはあるのかもしれません。

 出発点までは、スキー場の「グラートクワッドリフト」で一気に標高約1800メートルまで上がります。リフトはニッコウキスゲやワレモコウなどの野草が咲く草原をグングン上っていきます。以前にスキーをした場所から上に向かって歩き始めます。この出発点付近の小さな湿原には、ニッコウキスゲやクルマユリがよく咲いていました。

 クルマユリは標高が低い場所では背が高くよく見かける大きさでしたが、標高が高い場所では背がかなり低く地面に這うように育ち、花も1輪を咲かせるのがやっとの感じでした。標高が2000メートル近いと、成長するだけでも大変そうな感じで、厳しい環境を身をもって示していました。


 普段でしたら、こうした高山植物を見ただけで十分満足するのですが、多くの方は黙々と上を目指して歩き始めます。目指す場所までの体力消費の厳しさを考えて、まずは歩き始める感じです。

 7月の連休のため、観光業者が企画した観光ツアーのお客であることを示す“ツアーバッジ”を胸に付けた方も多数おられました。高年齢者や小学生などの子供づれのグループが多い初心者向けのトレキングコースで、登り始めの場所から人の列が切れない感じの混雑ぶりでした。何回か来ている方は「人波が切れないので、今日はものすごい混雑だ」と、あきれていました。半分以上の方はしっかりした登山装備を身につけています。登山用のポールを持っている方も多かったです。皆さん、手慣れた感じです。

 当方は靴以外は、リゾート地を歩くような軽装の服装で上りました。しっかり装備した方からみれば「トレッキングコースをなめているな」と思われる気楽な格好でした。飲み物と軽食以外は持たない身軽な装備です。このため、露出した首回りや二の腕は日焼けしました。準備不足の罰でした。夕方に入った温泉ではしみました。

 目標の八方池の周りでは、お弁当を食べる方が多く、目標まで登った満足感に満ちていました。


 八方池の下側に雪渓があったり、小さな池もありました。この小さな池ではカエルが鳴いていました。急いで求愛し、子孫を残すようです。

 野鳥は数羽と出会いました。ウグイスがあちこちに鳴いています。姿はほとんど見せません。八方池付近の低木の間を、ウグイスが行き交う姿をやっと見ました。雪渓付近では、ビンズイが低木の上で鳴いていました。低木の梢の上から上に舞い上がり、鳴きながらまた梢の上に留まります。岩原に降りたビンズイを双眼鏡で確認したのですが、正確にはビンズイかどうかの判定する自信はありません(トレッキングには双眼鏡の持参をお薦めします。いろいろな確認に便利です。本格的な装備の方も双眼鏡はほとんど持っていません)。昆虫は、アゲハなどを数羽見ました。標高が高すぎるためか、アサギマダラは見かけませんでした。

 登り始めの朝方は快晴でした。上っている途中から白馬岳に上昇気流による雲(霧?)がかかり始めました。八方池辺りまで上ると、お目当ての白馬岳の山頂は雲の中でした。白馬岳周辺だけに雲がかかっていて、他の方向は快晴でした。残念ですが「またお出で」との山からのメッセージと考えています。氷河時代からの生き残りの高山植物を観察するために、また訪れようと思います。日ごろの運動不足を解消するためでもあるのですが。

 今回の“散歩”は、日本が山国であることを改めて感じました。7月でも残雪を上下方向に筋状に残す山々の姿はなかなか荒々しく、人間が簡単には近づけない雰囲気を感じました。しかも、そんな山々が多数並んでいるのですから。

 

世界遺産を目指す富岡製糸場に行ってきました

2010年07月20日 | イノベーション
  「富岡製糸場」は明治時代に最先端技術を投入した最新鋭工場でした。明治政府が描く日本の新産業振興の牽引役を担ったハイテク工場の代表格です。明治時代に描かれた日本の新成長戦略の「富国強兵」施策を具現化したイノベーション創出の仕掛けの中身を具体的に知る機会になりました。

 群馬県富岡市の中心部にある富岡製糸場の跡地は、ここ20年間にわたって、結構近くを通り抜けながら、いろいろな理由で一度も立ち寄ったことがない場所でした。富岡市の市街地の周囲にバイパス道路ができ、市の商業地区の中心地がバイパス側に移ったことが、市の元の市街地を通らなくなった主な理由です。バイパス道路には、最近勢いを増している家電量販店や大型スーパー、携帯電話機販売店などが出店し、ここだけで主な買い物が済む状況になっています。

 7月18日に富岡製糸場を訪れてみて分かったことは、当時投入された最新技術は製糸技術だけではなく、一連の連立方程式を解くのに必要な多彩な要素技術だったことでした。明治時代の日本に必要だった一連の要素技術が育ったことで近代産業が育つ産業基盤が育ったことを学びました。


 一つの要素技術があっても、それを支えるいろいろな要素技術がないと新産業が育成されない点は、現在でも変わりません。

 富岡製糸工場は明治5年(1872年)に稼働し始めました。当時はフランス製の300人繰(く)りの最新繰糸システムを導入し、世界最大の生産能力を誇ったそうです。だだし、フランスの最先端技術を単純に導入し、生産システムを設置しただけではなかった点がポイントです。

 蚕の繭(まゆ)から生糸を機械システムによってつむぐには、まず動力源が必要です。当時の最新技術だった蒸気エンジンの通称「ブリュナエンジン」(5馬力=たぶん5PS)をフランスから導入し、蒸気エンジンの往復運動を、ロッドとカサ歯車を組み合わせた動力伝達システムによって繭から糸をつぐむ動きに変換しました。動力伝達の機械技術が必要となり、その動力伝達システムが設計され作製されました。これによって、歯車やロッドなどの主要な機械部品を学ぶ機会を得ました。

 同時に蒸気エンジンを動かす蒸気ボイラーもフランスから導入されました。蒸気をつくる熱源となる燃料の石炭は近くの群馬県吉井町から採掘したそうです。当然、石炭を蓄える設備も製糸場内に設けました。

 こうして、工場の中核となる生産システムはメドが立ちました。この生産システムを雨風から守る工場の建屋の建設にも最先端技術が必要になりました。建屋は“木骨レンガ造り”が採用されました。レンガは近くの甘楽町の福島という場所にレンガを焼く窯をつくって生産したそうです。埼玉県深谷市出身の瓦職人にレンガづくりを教えた結果、数10万個のレンガが焼かれたそうです。最近のテレビ番組の中で、深谷市がレンガ窯で栄えたとの情報を知りました。深谷市にはレンガ製の煙突などが残っているそうです。富岡製糸場の建設の波及効果だったとしたら、明治政府が目指した新産業興しの一つの成果かもしれません。現在、深谷市は「レンガのまち深谷」のキャンペーンを展開しているそうです。

 当時のレンガはやや低温で焼かれているため、“焼きがやや甘く”、機械的性質などの性能がやや劣るそうです。富岡製糸場では、レンガはフランスの「フランドル工法」で積まれて壁をつくりました。レンガ同士はしっくい(石灰など)を“目地”につかって接合しました。このレンガ壁は間仕切りとしての役目を果たしています。床もレンガを敷き詰めてつくったそうです。レンガの応用技術も伝播(でんぱ)したようです。

 工場の力学構造体は木を組み合わせた“木骨”です。木材は近くの妙義山(現富岡市内)から杉を、群馬県吾妻郡の中之条町から松を切り出して木材に加工し、トラス構造(三角形の構造)などを組み上げたそうです。生糸を製糸した繰糸場の内部を見学すると、木材をトラス構造に組み合わせた屋根の躯体(くたい)を見上げることができます。


 工場の構造体の基礎をつくる礎石は群馬県甘楽町(かんらまち)の連石山(れんせきざん)から切り出した砂岩を利用したとのことです。礎石の上に木骨で構造体をつくり、レンガ壁を組み込みました。明かり取りのガラス窓を構成するガラスと鋼製枠は輸入品を採用しました。屋根は瓦拭きと、日本の要素技術を採用しました。食料品などを蓄える地下室はレンガ壁づくりだそうです。さまざまな部分で、先進国のフランスの要素技術と日本の要素技術を巧みに組み合わせて実現しています。必要な要素技術を決めるために、必要な技術体系を得るための連立方程式を解いた結果の和洋折衷でした。

 このほかにも、石炭を燃やした際の排煙を出す煙突や、生糸を洗う清水を蓄える“鉄水槽”などをつくるために、当時の製鉄技術などを育成したようです。


 必要は発明の母です。「横浜製造所」で鉄板を製造したとのことでしたが、この横浜製造所について質問してみましたが、説明員は「分からない」との答えでした。

 明治政府が産業振興の切り札として、生糸の模範製糸工場を富岡市に設けた理由は、群馬県内などから繭を集めるのに適した地の利があったからでした。富岡市周辺には、現在でも桑畑があちこちにあります。また、生糸を洗う冷たい清水が手に入る場所だったことも決め手の一つになりました。現在の富岡製糸場は代官所の跡地としてまとまった土地を提供できることも決め手の一つだったそうです。

 工場建設は明治4年(1871年)から始まり、翌年7月に完成しました。建屋と生産システムは手当できました。次は生産要員の確保です。当初は、人材確保に苦労したそうです。富岡製糸場の建設はフランス人のポール・ブリュナー氏のグループにプロジェクト・マネージメントを依頼し、基本設計と建築を頼みました。工場建設を指揮するフランス人技術者たちは、食事の際に赤ワインを楽しみました。当時の日本人は、この赤ワインを人間の血と勘違いしました。先進技術者のフランス人は「人間の生き血を飲んでいる」との噂が流れ、最初は女性の工員がなかなか集まらなかったそうです。

 初代工場長は自分の14歳の娘を女性工員の第一号に採用し、この誤解を解く努力をしたそうです。当初の計画から3カ月遅れで、工場の操業開始にこぎ着けたそうです。文化の違いから誤解を招く典型例のようなエピソードです。文化の違いは説明し合うことで克服するしかないようです。

 明治6年(1873年)1月時点で404人の女性工員が確保され、製糸の操業が本格的に始まりました。全国から富岡製糸場に集まった女性工員は、その後、地元の製糸工場などに戻って先進技術者として活躍したそうです。

 富岡製糸場が官営で創業された理由は、明治初期に生糸が日本の主要輸出品になった際に、生糸の輸出量が急に増えたため、各地の生糸の品質がバラつき、日本の生糸の評判を落しました。生糸の優れた品質を維持するために、官営の大工場の製糸場をつくり、輸出品を確保するために運営されました。明治初期も輸出主導の国だったようです。

 興味深いのは、当初は外国人の先進技術者を指導役として招聘しましたが、明治8年(1875年)に日本人が経営するように切り替えられたことです。この結果、生糸の高品質は実現できたのですが、黒字経営は実現できなかったようです。官営工場が経営下手なのは、この時代でも同じだったようです。このため、明治26年(1893年)に三井家に公開制度で払い下げになったそうです。その後、製糸大手の片倉工業に譲渡されました。民営化され、工員の技術教育などを施し、働くモチベーションを高めたとのことです。人材育成がイノベーション創出のポイントである点も、明治時代から同じようです。高校の日本史の教科書には「八幡製鉄所などの官営工場がつくられ、民間に払い下げられた」との記述はありますが、「黒字経営にするのに苦心した」とは書かれていなかったと記憶しています。

 今回、富岡製糸場を見学して感じたことは、展示の見せ方の下手さや説明文の不具合です。現在、富岡製糸場は富岡市が所有しています。「見学させるだけの安易な発想に終わっているな」と感じた部分がいくつかありました。見学者がどう考えるかなどの反応を想定していない産業遺跡の説明がいくつかあります。見学者の知識レベルを想定した説明文では無いなと思う個所がいくつかありました。見学者に最低限伝えたいメッセージが決まって無く、詳しい説明が羅列されているだけです。自分で学びとったことを自分なりにまとめ上げるやり方です。“文明遺産”まで消化された文化にはなっていないと思いました。

 同産業遺産は、ユネスコの世界遺産に登録されることが一番の目標なのでしょうか。富岡市の“街興し”の手段との発想しか頭にないのかと感じました。「訪れる見学者に分かりやすい説明の工夫を地道に増やすことが大切ではないのかな」と感じました。これも日本では科学・技術コミュニケーション教育がまだ未定着なことの証拠かなと、やや辛口な思いを持ちました。

 当時の生糸の製糸手法は、隣の安中市にある碓氷製糸農業協同組合が守っているそうです。昔ながらの伝統を守っているようです。

佐久荒船高原は真夏を迎える準備中です

2010年07月13日 | 佐久荒船高原便り
 佐久市の佐久荒船高原は真夏を迎える準備の真っ最中です。

 例えば、ユリ科のウバユリ(姥百合)が次第に大きくなって、花芽を膨らませ始めました。いい香りを漂わせる薄緑色の花が咲いた時にご報告します。木々が葉を茂らせ、うっそうとした森の奥でウバユリは開花準備中です。

 長野県東部の佐久市と群馬県下仁田町の境の内山峠近くにある佐久荒船高原は、初夏から盛夏に衣替え中です。6月中旬に草原ではレンゲツツジが、森ではヤマボウシ(山法師)などが咲き終わりました。現在、山道を彩っているのは山あじさいの花です。多彩な種類があり、山道を通る度にいろいろな山あじさいが目に付きます。
 
 バラ科のシモツケ(下野)もピンクの花を咲かせ始めました。小さな花がかたまりをつくっています。遠目には、緑の葉を背景にピンクの花がきれいな低木です。秋までと、かなり長く楽しませてくれます。白い色のシモツケもありますが、佐久荒船高原ではピンクが多いようです。


 
シモツケの学名は「スピラエア・ヤポニカ」だそうです。“日本産”と名付けられているのは日本固有種なのでしょうか。

 ヤマホタルブクロ(山蛍袋)も咲き始めました。最近は花がそろってうまく膨らんで咲くヤマホタルブクロが以前に比べて減ったような気がします。



 ヤマホタルブクロの花の色は濃い赤紫から淡いピンクまで多彩です。種類が違うのかもしれません。山道の端に花を咲かせるものが多いため、下草刈りによって、あっさり刈られてしまうものも多いようです。
 淡い紫のコバギボウシ(小葉擬宝珠)も先駆けが咲き始めました。気品のある花です。盛夏でも、涼しさを感じさせる、さわやかな花です。

 真夏に向けて準備を進めている佐久荒船高原は、標高が1100から1200メートルとそれほど高い訳ではありません。すぐ近くに標高1423メートルの荒船山がそびえています。溶岩がかたまった独特のトモ岩が有名な山です。


 
 荒船山は少し霞んでいて、色合いがよくありません。

 内山峠は、夏が近づくと佐久市側からか下仁田町側から朝霧が登って来て、冷気が滞ります。盛夏に麓から荒船高原や荒船山辺りを見上げると、内山峠付近にだけ、雲がかかっていることがあります。麓は快晴なのですが。

 霧がかかっている佐久荒船高原では、やや厚地の服が必要なぐらい寒いのです。高原から佐久市の街中に向かって山道を下ると、途中から急に暑くなって車中に冷房のスイッチを入れることになります。羽織った厚地の服を脱いで、軽装にならないとこの気温の変化に対応できません。逆にいえば、快晴の時でも、森の中は涼しく快適なのです。

 現在は盛夏に野鳥のコーラスグループの主役を務めるアカハラがあまり鳴いていません。カッコウとホトトギスは時々遠くで鳴きます。伏流水が流れ出した小さな渓流付近ではミソザザイがよく鳴いています。下流側に砂防ダムができたため、コマドリの鳴き声がほとんど聞こえなくなりました。環境が大幅に変わったため、独特の鳴き声のツツドリも去ったようです。約20年前に比べると、野鳥の鳴き声は大幅に減りました。やはり環境破壊が進んでいるのだと思います。どうも、人間の経済活動は地球の環境保全には適していないようです。