連休中は毎日が「五月晴れ」だった。こんなことも珍しい。
現職教員時代は連休といっても、クラブの指導に明け暮れた。特にこの季節、5月の終わりから6月の初頭にかけて県下高校総合体育大会が行われる。1年間スポーツクラブ生にとって最大行事であり、それぞれの競技での「甲子園」を目指す。この日のために日頃からきつい練習を続けているのだ。
バスケットは高校時代に入ったクラブ。練習は外のコートだった。コーチもいないし、監督は引率用の理科の教師だった。中学時代はバレーボール部。9人制の前衛のセンター。所謂トッサー(セッター)だ。中衛のセンターが核になるのだが、それは豆腐屋のYちゃん、後衛のセンターが近所のSちゃん。縦1列の3人が大の仲良しだった。
高校では割りに身長が高かった(173cm)ので、それだけで重用されてすぐレギュラーに。でも地区の大会ではお隣の県立工業高校や市立商業と勝ったり負けたりで、鹿児島市内で行われる県大会試合ではせいぜい1回戦に勝つくらいで、弱かった。練習がきつかったという覚えがない。
自分のチームを率いたはじめの頃は、あまり叱ること出来ずに練習もいい加減で、いつも1回戦負け。5,6年経ってから実践と経験を「学習」、次第に勝つことを意識するようになっていった。
県庁所在地の中心部に学校があったので、中学時代に活躍していた有力な選手が入ってきた。目立つ有力な子は自意識が強く「私はあなた達とは違うのよ」と確かにうまいのだが、チームワークを疎外し、いずれチームから去った。
思い出に残るチームはいわば荒武者軍団のチームで、キャプテンはNという隣県から転校してきた抜群に上手い子でしかも性格は強いのだが、強引さも他の子への思いやりもあってチームはまとまりを示していた。なにしろこの子以外は初心者ばかりだが、身長が図抜けていた。174cmのKを筆頭にみな165以上あった。やはり高さは大きな武器だ。「りバウンドを制するもの試合を制する」。負け続けの弱小チームがどんどん勝ち上がった。しかし3回戦で立ちはだかったのがその年大会で優勝し全国大会へ進んだ県立O高。この試合は激戦だった。壮絶な試合で、スタートの5人全員がとうとう5ファール退場となった。試合には負けたものの大きな感動を残した。
どの学校も私立の特色を出すためにクラブは強化している。公立でさへ「スポーツコース」を設けて、私立のスポーツ特待生の争奪戦に参入している。「特待生」という、表現は悪いが「餌」懐に、監督は早くから中学回りをして勧誘する。まさに人間の奪い合いだ。強い選手を多く採った方が早く結果を出せる。
しかし、こういうクラブになると、監督・顧問・コーチは「勝たねばならない」というプレッシャーが精神を抑圧する。指導の中で起こる暴力事件は「勝たねばならぬ」意識=一種のストレスが強過ぎる中で、起こる。わが県でも数え上げたらきりがないくらいに「暴力事件」が生起した。
試合で勝ち上がるチームは殆ど固定している。生徒の側も勝ってインターハイ(「甲子園」に匹敵する)に行きたい。その実績が今度は大学入試に影響するからだ。親も子も、先の先進学就職のことまで視野に入れて高校に入ってくる。強いチームには部の予算が一般クラブの何十倍とかけられる。遠征も遠くへスクールバス(強いところはチームがバスを所有している)で行く。強くなるシステムが強固に出来上がっているのだ。私はこんなのはアマチュアスポーツではないと批判してきた。普通の生徒がスポーツを通して体と精神を鍛え上げていく。まさに教育の一環でなければならない。「青い!」といわれてもこの信念は変えなかった。
最近TVで流行った不良高校生達が野球を通して、監督と信頼関係を結び次第に荒れた生活から離れ練習に打ち込み強いチームに育っていくというドラマがあった。これが正道なのだ。京都伏見工業のラグビー部の歴史が高校スポーツの原点を示している。
さあ、「総体」、弱小チーム最後まで諦めずに精一杯頑張れ!!頑張ることによって一生の思い出になるのだ。連休中は毎日が「五月晴れ」だった。こんなことも珍しい。
現職教員時代は連休といっても、クラブの指導に明け暮れた。特にこの季節、5月の終わりから6月の初頭にかけて県下高校総合体育大会が行われる。1年間スポーツクラブ生にとって最大行事であり、それぞれの競技での「甲子園」を目指す。この日のために日頃からきつい練習を続けているのだ。
バスケットは高校時代に入ったクラブ。練習は外のコートだった。コーチもいないし、監督は引率用の理科の教師だった。中学時代はバレーボール部。9人制の前衛のセンター。所謂トッサー(セッター)だ。中衛のセンターが核になるのだが、それは豆腐屋のYちゃん、後衛のセンターが近所のSちゃん。縦1列の3人が大の仲良しだった。
高校では割りに身長が高かった(173cm)ので、それだけで重用されてすぐレギュラーに。でも地区の大会ではお隣の県立工業高校や市立商業と勝ったり負けたりで、鹿児島市内で行われる県大会試合ではせいぜい1回戦に勝つくらいで、弱かった。練習がきつかったという覚えがない。
自分のチームを率いたはじめの頃は、あまり叱ること出来ずに練習もいい加減で、いつも1回戦負け。5,6年経ってから実践と経験を「学習」、次第に勝つことを意識するようになっていった。
県庁所在地の中心部に学校があったので、中学時代に活躍していた有力な選手が入ってきた。目立つ有力な子は自意識が強く「私はあなた達とは違うのよ」と確かにうまいのだが、チームワークを疎外し、いずれチームから去った。
思い出に残るチームはいわば荒武者軍団のチームで、キャプテンはNという隣県から転校してきた抜群に上手い子でしかも性格は強いのだが、強引さも他の子への思いやりもあってチームはまとまりを示していた。なにしろこの子以外は初心者ばかりだが、身長が図抜けていた。174cmのKを筆頭にみな165以上あった。やはり高さは大きな武器だ。「りバウンドを制するもの試合を制する」。負け続けの弱小チームがどんどん勝ち上がった。しかし3回戦で立ちはだかったのがその年大会で優勝し全国大会へ進んだ県立O高。この試合は激戦だった。壮絶な試合で、スタートの5人全員がとうとう5ファール退場となった。試合には負けたものの大きな感動を残した。
どの学校も私立の特色を出すためにクラブは強化している。公立でさへ「スポーツコース」を設けて、私立のスポーツ特待生の争奪戦に参入している。「特待生」という、表現は悪いが「餌」懐に、監督は早くから中学回りをして勧誘する。まさに人間の奪い合いだ。強い選手を多く採った方が早く結果を出せる。
しかし、こういうクラブになると、監督・顧問・コーチは「勝たねばならない」というプレッシャーが精神を抑圧する。指導の中で起こる暴力事件は「勝たねばならぬ」意識=一種のストレスが強過ぎる中で、起こる。わが県でも数え上げたらきりがないくらいに「暴力事件」が生起した。
試合で勝ち上がるチームは殆ど固定している。生徒の側も勝ってインターハイ(「甲子園」に匹敵する)に行きたい。その実績が今度は大学入試に影響するからだ。親も子も、先の先進学就職のことまで視野に入れて高校に入ってくる。強いチームには部の予算が一般クラブの何十倍とかけられる。遠征も遠くへスクールバス(強いところはチームがバスを所有している)で行く。強くなるシステムが強固に出来上がっているのだ。私はこんなのはアマチュアスポーツではないと批判してきた。普通の生徒がスポーツを通して体と精神を鍛え上げていく。まさに教育の一環でなければならない。「青い!」といわれてもこの信念は変えなかった。
最近TVで流行った不良高校生達が野球を通して、監督と信頼関係を結び次第に荒れた生活から離れ練習に打ち込み強いチームに育っていくというドラマがあった。これが正道なのだ。
さあ、「総体」、弱小チーム最後まで諦めずに精一杯頑張れ!!頑張ることによって一生の思い出になるのだ。自分の力を信じ、友を信じ、一つの目標に向かっていく。精一杯頑張ることによって一生の消えない思い出になるのだ。辛苦を共にした部員は30数年間で百を優に超える数になっているが名前を忘れていないのが不思議だ。そして今でも親交がある。
現職教員時代は連休といっても、クラブの指導に明け暮れた。特にこの季節、5月の終わりから6月の初頭にかけて県下高校総合体育大会が行われる。1年間スポーツクラブ生にとって最大行事であり、それぞれの競技での「甲子園」を目指す。この日のために日頃からきつい練習を続けているのだ。
バスケットは高校時代に入ったクラブ。練習は外のコートだった。コーチもいないし、監督は引率用の理科の教師だった。中学時代はバレーボール部。9人制の前衛のセンター。所謂トッサー(セッター)だ。中衛のセンターが核になるのだが、それは豆腐屋のYちゃん、後衛のセンターが近所のSちゃん。縦1列の3人が大の仲良しだった。
高校では割りに身長が高かった(173cm)ので、それだけで重用されてすぐレギュラーに。でも地区の大会ではお隣の県立工業高校や市立商業と勝ったり負けたりで、鹿児島市内で行われる県大会試合ではせいぜい1回戦に勝つくらいで、弱かった。練習がきつかったという覚えがない。
自分のチームを率いたはじめの頃は、あまり叱ること出来ずに練習もいい加減で、いつも1回戦負け。5,6年経ってから実践と経験を「学習」、次第に勝つことを意識するようになっていった。
県庁所在地の中心部に学校があったので、中学時代に活躍していた有力な選手が入ってきた。目立つ有力な子は自意識が強く「私はあなた達とは違うのよ」と確かにうまいのだが、チームワークを疎外し、いずれチームから去った。
思い出に残るチームはいわば荒武者軍団のチームで、キャプテンはNという隣県から転校してきた抜群に上手い子でしかも性格は強いのだが、強引さも他の子への思いやりもあってチームはまとまりを示していた。なにしろこの子以外は初心者ばかりだが、身長が図抜けていた。174cmのKを筆頭にみな165以上あった。やはり高さは大きな武器だ。「りバウンドを制するもの試合を制する」。負け続けの弱小チームがどんどん勝ち上がった。しかし3回戦で立ちはだかったのがその年大会で優勝し全国大会へ進んだ県立O高。この試合は激戦だった。壮絶な試合で、スタートの5人全員がとうとう5ファール退場となった。試合には負けたものの大きな感動を残した。
どの学校も私立の特色を出すためにクラブは強化している。公立でさへ「スポーツコース」を設けて、私立のスポーツ特待生の争奪戦に参入している。「特待生」という、表現は悪いが「餌」懐に、監督は早くから中学回りをして勧誘する。まさに人間の奪い合いだ。強い選手を多く採った方が早く結果を出せる。
しかし、こういうクラブになると、監督・顧問・コーチは「勝たねばならない」というプレッシャーが精神を抑圧する。指導の中で起こる暴力事件は「勝たねばならぬ」意識=一種のストレスが強過ぎる中で、起こる。わが県でも数え上げたらきりがないくらいに「暴力事件」が生起した。
試合で勝ち上がるチームは殆ど固定している。生徒の側も勝ってインターハイ(「甲子園」に匹敵する)に行きたい。その実績が今度は大学入試に影響するからだ。親も子も、先の先進学就職のことまで視野に入れて高校に入ってくる。強いチームには部の予算が一般クラブの何十倍とかけられる。遠征も遠くへスクールバス(強いところはチームがバスを所有している)で行く。強くなるシステムが強固に出来上がっているのだ。私はこんなのはアマチュアスポーツではないと批判してきた。普通の生徒がスポーツを通して体と精神を鍛え上げていく。まさに教育の一環でなければならない。「青い!」といわれてもこの信念は変えなかった。
最近TVで流行った不良高校生達が野球を通して、監督と信頼関係を結び次第に荒れた生活から離れ練習に打ち込み強いチームに育っていくというドラマがあった。これが正道なのだ。京都伏見工業のラグビー部の歴史が高校スポーツの原点を示している。
さあ、「総体」、弱小チーム最後まで諦めずに精一杯頑張れ!!頑張ることによって一生の思い出になるのだ。連休中は毎日が「五月晴れ」だった。こんなことも珍しい。
現職教員時代は連休といっても、クラブの指導に明け暮れた。特にこの季節、5月の終わりから6月の初頭にかけて県下高校総合体育大会が行われる。1年間スポーツクラブ生にとって最大行事であり、それぞれの競技での「甲子園」を目指す。この日のために日頃からきつい練習を続けているのだ。
バスケットは高校時代に入ったクラブ。練習は外のコートだった。コーチもいないし、監督は引率用の理科の教師だった。中学時代はバレーボール部。9人制の前衛のセンター。所謂トッサー(セッター)だ。中衛のセンターが核になるのだが、それは豆腐屋のYちゃん、後衛のセンターが近所のSちゃん。縦1列の3人が大の仲良しだった。
高校では割りに身長が高かった(173cm)ので、それだけで重用されてすぐレギュラーに。でも地区の大会ではお隣の県立工業高校や市立商業と勝ったり負けたりで、鹿児島市内で行われる県大会試合ではせいぜい1回戦に勝つくらいで、弱かった。練習がきつかったという覚えがない。
自分のチームを率いたはじめの頃は、あまり叱ること出来ずに練習もいい加減で、いつも1回戦負け。5,6年経ってから実践と経験を「学習」、次第に勝つことを意識するようになっていった。
県庁所在地の中心部に学校があったので、中学時代に活躍していた有力な選手が入ってきた。目立つ有力な子は自意識が強く「私はあなた達とは違うのよ」と確かにうまいのだが、チームワークを疎外し、いずれチームから去った。
思い出に残るチームはいわば荒武者軍団のチームで、キャプテンはNという隣県から転校してきた抜群に上手い子でしかも性格は強いのだが、強引さも他の子への思いやりもあってチームはまとまりを示していた。なにしろこの子以外は初心者ばかりだが、身長が図抜けていた。174cmのKを筆頭にみな165以上あった。やはり高さは大きな武器だ。「りバウンドを制するもの試合を制する」。負け続けの弱小チームがどんどん勝ち上がった。しかし3回戦で立ちはだかったのがその年大会で優勝し全国大会へ進んだ県立O高。この試合は激戦だった。壮絶な試合で、スタートの5人全員がとうとう5ファール退場となった。試合には負けたものの大きな感動を残した。
どの学校も私立の特色を出すためにクラブは強化している。公立でさへ「スポーツコース」を設けて、私立のスポーツ特待生の争奪戦に参入している。「特待生」という、表現は悪いが「餌」懐に、監督は早くから中学回りをして勧誘する。まさに人間の奪い合いだ。強い選手を多く採った方が早く結果を出せる。
しかし、こういうクラブになると、監督・顧問・コーチは「勝たねばならない」というプレッシャーが精神を抑圧する。指導の中で起こる暴力事件は「勝たねばならぬ」意識=一種のストレスが強過ぎる中で、起こる。わが県でも数え上げたらきりがないくらいに「暴力事件」が生起した。
試合で勝ち上がるチームは殆ど固定している。生徒の側も勝ってインターハイ(「甲子園」に匹敵する)に行きたい。その実績が今度は大学入試に影響するからだ。親も子も、先の先進学就職のことまで視野に入れて高校に入ってくる。強いチームには部の予算が一般クラブの何十倍とかけられる。遠征も遠くへスクールバス(強いところはチームがバスを所有している)で行く。強くなるシステムが強固に出来上がっているのだ。私はこんなのはアマチュアスポーツではないと批判してきた。普通の生徒がスポーツを通して体と精神を鍛え上げていく。まさに教育の一環でなければならない。「青い!」といわれてもこの信念は変えなかった。
最近TVで流行った不良高校生達が野球を通して、監督と信頼関係を結び次第に荒れた生活から離れ練習に打ち込み強いチームに育っていくというドラマがあった。これが正道なのだ。
さあ、「総体」、弱小チーム最後まで諦めずに精一杯頑張れ!!頑張ることによって一生の思い出になるのだ。自分の力を信じ、友を信じ、一つの目標に向かっていく。精一杯頑張ることによって一生の消えない思い出になるのだ。辛苦を共にした部員は30数年間で百を優に超える数になっているが名前を忘れていないのが不思議だ。そして今でも親交がある。