素晴らしい朝日が書斎の出窓から差し込んでいる。
昨日、昼前に退院して、南阿蘇に帰った。気になることがあって、家に入らずに、近所の友人ところに顔を出すことにした。今回、私は誰にも秘密に入院した。5泊6日の入院で家を長く空けることになったので、この方が不在にしている私を「何かあったのではないか?」と案じて、電話をくれたり、メールで確かめたりしてくれていた。有難いことだけれど、今回は白内障手術という短時間で安全なものであり、前もって教えれば必ず見舞いに来られるのがわかっていたので、心苦しい思いはしたけれど嘘をついていた。市内の家に用があって泊まりに言っているとー。
心配されているので先ずは顔を見せなければならない。やはり「急病で入院しているのではないかと」心配されていた。「ごめんなさい」と素直に頭を下げた。この方は本当に義理堅い方で、とても信頼しているのだ。
さて入院して、他にすることがないからと本を7,8冊抱えていった。そのうち3冊を5日の間に読み上げた。読後感を少し書いておこうと思う。
「1Q84 第3巻」。面白かった。最後までぐいぐい引きつけたまま離さない村上の筆力は流石だ。決して重くない。どちらかというとタッチは軽妙。1行1行苦しみながら読み進めるような作品ではない。
昔読んだ埴谷雄高の「死霊」を思い出す。苦しみもがきながら読んだものだ。
閑話休題。
「BーOFF」の顧客であるが、五木の本の中にその経営戦略について書かれていた。売れない本はすぐ見切りをつけて「105円」の値札を附けるそうで、「死霊」も今では売れない本になってしまい、「105円」コーナーに出ていたとかー。なんという時代だろう!?
村上のこの本、ベースにはオウムがある。その教祖のことが描かれているのだが、作中ではいわば超能力者。決して世間的な常識で断罪していない。
主人公は天吾と青豆という奇妙な名前の二人の男女。形而上的な意味はどこにあるのか、未だによくわからない。死(父親の看取り)や宗教(オウムを思わせる教団さきがけや青豆の両親が属していた「証人会」という宗教組織)が書かれているのだが、それを表現としてはそんない深くは掘り下げていかない。だからすーっと読んでいける。
私は流行の速読をしない。必ず1行1行、1語1語丹念に読んでいくようにしている。書くものにとって言葉は大袈裟に言うと命をかけて紡ぎだしていると思うからー。
もっとよく考察していきたいと思うが、今言えるのは、「面白い」と感じたのは、ファンタジックで、現代的なセックス(天吾が10歳年上の人妻との不倫、青豆の本能的な欲望に任せた行きずりの性、レズビアン)が描かれているのだが、本質は純愛の二人。その恋が最後に成就する。これは純愛小説といってもいいのではないかー。「読みが浅いなあ」と非難されそうだが・・・
そして、二つある月の世界(「猫の国」)への旅路。冒険旅行小説ともいえよう。わくわくしながら読んだミハエル・エンデの「はてしない物語」を髣髴させる。
パッシバ、レシバ、マザ、ドゥタの象徴するものとは何なのか。教祖というのはパッシバでありレシバでもあるはず。宗教者(宗教学者ではなく)とは神(仏)の声を聞き、大衆に語る「語り部」でもあるので、宗教とは何かを表現しているのか、オウムに通じる何かがあるのか、まだわからない。
二つの世界については、なるほど私達の日常の世界の一つ向こうには別の世界が存在しているのかもしれない。もしかしたら時間を起点にして今住んでいる世界と過去の1分前、1時間前、1年前の世界が逆に1分後1時間後1年後、100年後の世界があるのかもしれない。
どうも第4巻が続くのではないかとも思うがー。
吉村昭の「日本医家伝」は2回目。近代の西洋医学者達の伝記。これも古本で買ったものだが、故吉村の直筆のサインがある。
五木寛之の「知の休日」は確かに頭休めの憩いの本だった。
昨日、昼前に退院して、南阿蘇に帰った。気になることがあって、家に入らずに、近所の友人ところに顔を出すことにした。今回、私は誰にも秘密に入院した。5泊6日の入院で家を長く空けることになったので、この方が不在にしている私を「何かあったのではないか?」と案じて、電話をくれたり、メールで確かめたりしてくれていた。有難いことだけれど、今回は白内障手術という短時間で安全なものであり、前もって教えれば必ず見舞いに来られるのがわかっていたので、心苦しい思いはしたけれど嘘をついていた。市内の家に用があって泊まりに言っているとー。
心配されているので先ずは顔を見せなければならない。やはり「急病で入院しているのではないかと」心配されていた。「ごめんなさい」と素直に頭を下げた。この方は本当に義理堅い方で、とても信頼しているのだ。
さて入院して、他にすることがないからと本を7,8冊抱えていった。そのうち3冊を5日の間に読み上げた。読後感を少し書いておこうと思う。
「1Q84 第3巻」。面白かった。最後までぐいぐい引きつけたまま離さない村上の筆力は流石だ。決して重くない。どちらかというとタッチは軽妙。1行1行苦しみながら読み進めるような作品ではない。
昔読んだ埴谷雄高の「死霊」を思い出す。苦しみもがきながら読んだものだ。
閑話休題。
「BーOFF」の顧客であるが、五木の本の中にその経営戦略について書かれていた。売れない本はすぐ見切りをつけて「105円」の値札を附けるそうで、「死霊」も今では売れない本になってしまい、「105円」コーナーに出ていたとかー。なんという時代だろう!?
村上のこの本、ベースにはオウムがある。その教祖のことが描かれているのだが、作中ではいわば超能力者。決して世間的な常識で断罪していない。
主人公は天吾と青豆という奇妙な名前の二人の男女。形而上的な意味はどこにあるのか、未だによくわからない。死(父親の看取り)や宗教(オウムを思わせる教団さきがけや青豆の両親が属していた「証人会」という宗教組織)が書かれているのだが、それを表現としてはそんない深くは掘り下げていかない。だからすーっと読んでいける。
私は流行の速読をしない。必ず1行1行、1語1語丹念に読んでいくようにしている。書くものにとって言葉は大袈裟に言うと命をかけて紡ぎだしていると思うからー。
もっとよく考察していきたいと思うが、今言えるのは、「面白い」と感じたのは、ファンタジックで、現代的なセックス(天吾が10歳年上の人妻との不倫、青豆の本能的な欲望に任せた行きずりの性、レズビアン)が描かれているのだが、本質は純愛の二人。その恋が最後に成就する。これは純愛小説といってもいいのではないかー。「読みが浅いなあ」と非難されそうだが・・・
そして、二つある月の世界(「猫の国」)への旅路。冒険旅行小説ともいえよう。わくわくしながら読んだミハエル・エンデの「はてしない物語」を髣髴させる。
パッシバ、レシバ、マザ、ドゥタの象徴するものとは何なのか。教祖というのはパッシバでありレシバでもあるはず。宗教者(宗教学者ではなく)とは神(仏)の声を聞き、大衆に語る「語り部」でもあるので、宗教とは何かを表現しているのか、オウムに通じる何かがあるのか、まだわからない。
二つの世界については、なるほど私達の日常の世界の一つ向こうには別の世界が存在しているのかもしれない。もしかしたら時間を起点にして今住んでいる世界と過去の1分前、1時間前、1年前の世界が逆に1分後1時間後1年後、100年後の世界があるのかもしれない。
どうも第4巻が続くのではないかとも思うがー。
吉村昭の「日本医家伝」は2回目。近代の西洋医学者達の伝記。これも古本で買ったものだが、故吉村の直筆のサインがある。
五木寛之の「知の休日」は確かに頭休めの憩いの本だった。