やっと五岳の向こう薄雲の裏に日の光が見える。雨は空から落ちていない。
午前6時半。書斎の室温が20度あった。それでも石油ストーブの火を入れている。
病み上がりの体にとって昨夜の布団がなぜか薄く感じて肌寒かったのだ。寝る前には熱は平熱に戻っていたのだが、体は正直、まだ十分体力が回復したとはいえないのだろう。
気分はとても良いのだが今日一日は用心したほうが良さそうだ。
2,3日降り続いた雨で苗作りのポットを見ると次々に芽を出して葉茎を伸ばし始めている。
やっぱり自然の力ってすごいな、脅威でもあり人間存在にとってこの自然あってのものなんだということを実感する。
ずっと臥せっているとどうしても本を読む時間が増える。
今は例の「1Q84」(村上春樹)の創作のベースになっているというジョージ・オーウェルの「1984」と関連性の深い清水幾太郎の「ジョージ・オーウェル1984への旅」、吉本隆明「世紀末ニュースを解読する」。そして鏑木蓮の「東京ダモイ」の再読。これは書棚からふと手にとった時、裏表紙を見ると1年半前に読んでいるのだが「ダモイ」という言葉もすぐに思い出せないしストーリーは完全に忘却の彼方。表装、デザイン、題名の奇妙さに惹かれ読みたいと思ったのだ。
こんなに忘れてしまうなって、俺の脳の記憶中枢海馬君、永年の酒漬けで滓(粕)漬け状態になっているのだろう。
過ぎたるは仕方なしと諦めるべし。
「東京ダモイ」は戦争でシベリア抑留されていた軍人軍属の悲劇とその中で起こった殺人事件(フィクション)をもとして書かれた推理小説だが、謎解きの鍵が俳句にあるという面白い工夫がなされている。
シベリア抑留の悲劇は辺見庸のノンフィクションで読んでいる。本の名前は例によってすぐに出てこない。最近芥川賞までとって純文学小説家になっちゃんたんだ。ノンフィクション畑でずっと行くのか思ってたけど。今でも新聞の連載で震災関係の文章を書いているがー彼は文章が巧みだ、言葉の選び方がとてもいい!
60年前の記憶を瞬時も忘れないで戦後もずーっと生き抜いていく。戦争体験はやはり非日常であり、極限状況を何度も繰り返すうちに不感症に陥ってしまう、そうしないと精神が保てない。生きるか死ぬか、細い線上の生死を歩み、置き去りにされた死体を乗り越え、或いは踏み付け、隣にいた兵隊がピュンと飛んできた敵弾に目を撃ち抜かれて即死していく姿を見、死体にウジが集(たか)っている地獄も垣間見る。
そんな地獄の中で人間としての矜持を失わなかった人間はいた筈だし、ヒューマニスティックな生き方を貫こうとして上官にいじめられ続けた無様に見える人間もいた。人間としても誇りさえ失い、ラーゲリーでの共産主義教育でスパイに身を窶して行った人間の弱さもまた人間なんだよなあ・・・
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「東京ダモイ」には極寒の極限状況にあったラーゲリーにあって一条の光を与え続けた看護婦マリアという人物が描かれている。
メーンの事件はまだ読了前なので書かないが、記憶というものの面白さと怖さ。
親父も戦争に衛生兵として長く中国大陸で戦った。しかし、酒を飲んで酔っ払っても決して戦争を語るということをしなかった。だから、どこでどうしていたのかほとんどわからない。終戦の時、准尉だったというから下士官か。馬になって軍刀を下げて凛々しい姿の若い親父の写真は残っている。
語らないことはそれほどの重く深い意味を秘めているのだろう。書くこと語ることの意味、書かない語らないことの意味が表裏の関係にあることを今考えている。
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午前6時半。書斎の室温が20度あった。それでも石油ストーブの火を入れている。
病み上がりの体にとって昨夜の布団がなぜか薄く感じて肌寒かったのだ。寝る前には熱は平熱に戻っていたのだが、体は正直、まだ十分体力が回復したとはいえないのだろう。
気分はとても良いのだが今日一日は用心したほうが良さそうだ。
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2,3日降り続いた雨で苗作りのポットを見ると次々に芽を出して葉茎を伸ばし始めている。
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やっぱり自然の力ってすごいな、脅威でもあり人間存在にとってこの自然あってのものなんだということを実感する。
ずっと臥せっているとどうしても本を読む時間が増える。
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今は例の「1Q84」(村上春樹)の創作のベースになっているというジョージ・オーウェルの「1984」と関連性の深い清水幾太郎の「ジョージ・オーウェル1984への旅」、吉本隆明「世紀末ニュースを解読する」。そして鏑木蓮の「東京ダモイ」の再読。これは書棚からふと手にとった時、裏表紙を見ると1年半前に読んでいるのだが「ダモイ」という言葉もすぐに思い出せないしストーリーは完全に忘却の彼方。表装、デザイン、題名の奇妙さに惹かれ読みたいと思ったのだ。
こんなに忘れてしまうなって、俺の脳の記憶中枢海馬君、永年の酒漬けで滓(粕)漬け状態になっているのだろう。
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過ぎたるは仕方なしと諦めるべし。
「東京ダモイ」は戦争でシベリア抑留されていた軍人軍属の悲劇とその中で起こった殺人事件(フィクション)をもとして書かれた推理小説だが、謎解きの鍵が俳句にあるという面白い工夫がなされている。
シベリア抑留の悲劇は辺見庸のノンフィクションで読んでいる。本の名前は例によってすぐに出てこない。最近芥川賞までとって純文学小説家になっちゃんたんだ。ノンフィクション畑でずっと行くのか思ってたけど。今でも新聞の連載で震災関係の文章を書いているがー彼は文章が巧みだ、言葉の選び方がとてもいい!
60年前の記憶を瞬時も忘れないで戦後もずーっと生き抜いていく。戦争体験はやはり非日常であり、極限状況を何度も繰り返すうちに不感症に陥ってしまう、そうしないと精神が保てない。生きるか死ぬか、細い線上の生死を歩み、置き去りにされた死体を乗り越え、或いは踏み付け、隣にいた兵隊がピュンと飛んできた敵弾に目を撃ち抜かれて即死していく姿を見、死体にウジが集(たか)っている地獄も垣間見る。
そんな地獄の中で人間としての矜持を失わなかった人間はいた筈だし、ヒューマニスティックな生き方を貫こうとして上官にいじめられ続けた無様に見える人間もいた。人間としても誇りさえ失い、ラーゲリーでの共産主義教育でスパイに身を窶して行った人間の弱さもまた人間なんだよなあ・・・
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「東京ダモイ」には極寒の極限状況にあったラーゲリーにあって一条の光を与え続けた看護婦マリアという人物が描かれている。
メーンの事件はまだ読了前なので書かないが、記憶というものの面白さと怖さ。
親父も戦争に衛生兵として長く中国大陸で戦った。しかし、酒を飲んで酔っ払っても決して戦争を語るということをしなかった。だから、どこでどうしていたのかほとんどわからない。終戦の時、准尉だったというから下士官か。馬になって軍刀を下げて凛々しい姿の若い親父の写真は残っている。
語らないことはそれほどの重く深い意味を秘めているのだろう。書くこと語ることの意味、書かない語らないことの意味が表裏の関係にあることを今考えている。
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