おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

パソコンの調子が悪い

2011年01月19日 10時52分50秒 | 日記
今朝パソコンを立ち上げようとしたが、全然だめで、買った店に連絡をしてセイフティーモードのことを教えてもらって彼方此方動かしてみて何とか立ち上げてここまで来たが、どうもわたしのhpのパソコンダメみたい。あーあ家のデスクトップは雷でやられ、何とか家財保障で3万数千円だけは下りたけど、新品はとても買えないしーノート型の私のものも買い換えないといけないとするとショックだ。

このセーフティーモードでずっと引っ張ることは無理だろうし、頭を抱えている。

暫くはブログお休みするしかないかもしれない。

田舎暮らしで「ネット情報」から遮断されることは取り残されるような感じですごく不安になる。

pcについて機械工学的な知識がなくて適当にいじくっているので寿命を短めているのかもしれない。説明されても、言葉=専門用語が英語ばかりでわからんし・・・浅学非才の身、仕方ないのかな

サッカーあれこれ

2011年01月18日 16時35分41秒 | 日記
82.5今日は数字のみにする。なかなかウマイコトイカンモンダワイ

さて、今買い物に出かけて帰りに、白水高原駅で降ろしてもらいそれから約6キロを歩いて帰って来たところ。300kcalは消費したろうか?お昼に親しくしている「あぐり」というレストランにパスタを食べに行き、お喋りしながらそれはそれは美味しいパストと自家製野菜のサラダ、ケーキ、コーヒーを頂いた。パスタセットで1000円(本当は確か1200円だけれど、特別にまけてくれる)。これを消費するのは困難だろう。せめてケーキ分でもエネルギーを使おうと歩いた。
途中田圃の畦道を歩いたので数点の写真を掲載しよう。






昨日はサッカー楽しみにして待っていた。2回戦の接戦で興奮したので、今回も対サウジ戦いい試合になるのではないかと思っていた。恐らく日本中皆そう思ったはず。ところが ドッコイショつまんない試合だった。5対0、勝てばいいというものじゃない。選手ならどんなしても勝ちたいと思うだろう。しかし、見る側、勝ってさらにいい試合じゃないと満足しないのだ
勝手といえば勝手すぎるだろうが、試合そのものは確かに冗長であっけないゲームだった。相手の気迫が微塵も感じられない、なんか消化ゲームみたいな雰囲気だった。サウジも監督と選手との間に対立があるのだろうか・・・イスラムでは17日という日は宗教的に戦ってはいけない日なのだろうかー。デフェンスは今日食べたロールケーキよりも甘く感じた。こちとら「ど素人」なのだが、みればわかるあんなのんびりしたプレーはないぞ
すでに予選リーグ敗退が決まっているとしてもだ

負けても手に汗握るような好ゲームなら見てる側も決して嫌な感じは持たないのだろうけどーバスケの監督をしていた時、負けゲームでもいい試合をした後は決して選手を責めなかった。かえって「ご苦労さん、いい試合だったね、ありがとう」といったはず。

香川は前評判とえらく違うぞ!実力出し切れていないのか?なんだかなあ・・・

さあ今から風呂に入るのだが、体重計に乗るのが恐怖

森村誠一の『エンドレスピーク』他

2011年01月17日 15時39分23秒 | 日記
久々の体重記録
病院での体重=82.35kgでした!ほんのちょっぴり減ったくらい。
昨日、家で計ると81.6kgでしたので、入院生活での規則正しい食事、禁酒で久々の81台を記録。早く80kgを切ること、これは医者の厳しいミッションなのだ。

気になっていた血圧は病院では平均すると120ー80くらいで落ち着いていた。精神的に動揺しやすいのか、入院した直後は下が106あったので心配したがー

               

森村誠一については以前から好きな作家であり、彼が心血注いで著した『悪魔の飽食』、『続悪魔のー』を読んで陸軍関東軍石井部隊(731部隊)について注目していた。現職時代には高校文化祭の時、自分のクラスで取り組んだテーマ「戦後50年ー戦争と平和展」の中で、この731部隊についても学習し調査したものを発表したし、その後自分の書いた研究論文(『反転の思想ー生命というもの』)のなかでも書いている。

現首相の菅氏が厚生大臣時代に薬害エイズの被害者に対して国の責任者として、謝罪したことでも知られているが、この事件は当時、血友病患者の治療のために、アメリカから非加熱製剤の導入を推し進めた責任者(厚生省エイズ研究班長)というのが阿部英であった。この男は東大の医学部を出ている医者であり、得意な履歴として戦時中海軍軍医大尉として731の人体実験に関わっていたのだ。
しかも、非加熱製剤を取り扱った製薬会社『ミドリ十字』という会社は厚生省からの天下り先であった。そして「ミドリー」を作った初代社長内藤良一が731部隊の防疫研究に当たっていたという。731は戦争でたいへんな過ちを犯している。人体実験の「材料」として中国人、ロシア人、朝鮮人を「マルタ」と称し3000人という実験の犠牲者を出しているのだ。戦争でよくドイツナチスのユダヤ人虐殺の話はよく知られているが、足許にこんな酷い話があることはあまり知られていない。政治、官僚、財界の癒着の典型がここにある。

石井部隊についてはもっと知りたいと思っている。あり得ないような人体実験による研究成果をもって戦後米軍側と秘密裏に交渉して、戦犯を免れ戦後医学会、政界、製薬などの産業界に過去を隠して入り込みトップにのし上がっていった石井をはじめ731の上層部。知りたい、知らなければならない。それが二度と過ちを犯さない第一歩になるはずだ。

さて森村の『エンドレスピークーはるかな嶺』はとても面白かった。ストーリーは戦前風雲急を告げている昭和16年、東京の大学で知り合った5人の若者が槍ヶ岳に登る。その時頂上で記念の石を拾う。その5個の石を戦争が終わっていつか必ず亦槍ヶ岳に帰ってきて一緒に返そうと約束する。この5人の若者が主人公である。日本人の3人の男女とアメリカ人、中国人の五人は戦争で厳しい立場に立たされていくが、それぞれの立場で精一杯に戦争を生き抜いていく。一人は戦闘機乗りの撃墜王、一人は陸軍の空挺部隊の兵士、対米謀略放送のアナウンサー、中国の対日工作員、そして米軍日本語通訳。
一人ひとりの戦争体験が生々しく語られていく。その中で、5人の中の一人の中国人は日本軍に捕まって731送りこまれ、戦争が終わった時、解放されないで残虐な人体実験の隠蔽のために収容されていた捕虜全員殺されてしまう。

そして、アナウンサーも長崎の原爆で被爆。沖縄戦もこの物語の重要な意味を持つ。

冷酷無比、人と人とのつながりを次々に切断していく愚劣な戦争のなかで、5人の友情は色褪せずに時を乗り越えていく。凄く感動する物語である。平和ボケしている今の日本人特に若者にしっかり読んで欲しいと思う。交際交流とかグローバルコミュニケーションもしっかりした歴史認識の基礎の上に築き上げねばならないと思う。

長くなった。住井すゑさんの本からは大事な言葉を抜書きしておこう。

「人間生きていることは法則であり、権利で生きているのではない。」
「権利というと誰かと契約で生きている様な、生きる権利を獲得しているのだからーというふうになって、生きることが小さくなってしまう。」
人間が生きるということは権利ではなく即ち人権という概念で表されるようなものではなく、「宇宙」の法則で生きているのだ。住井さんは実に気宇壮大だ。大き過ぎて近寄りがたいくらいの威厳がある。しかし、こういうほんとうの温かみを持った人間であって、こういう歯に衣着せぬ鋭い時代への風刺いや批評をする文学者がいなくなったことは寂しい。

また長くなってしまった

入院、手術!

2011年01月16日 11時33分21秒 | 日記
久しぶりに我が家に帰って来たところだ。たいへんな寒さで、家の中があちこちで珍現象。風呂場には何故か蛇口付近に30cm
以上の氷柱ができているし、トイレに入ったら便器の下の管の方が凍っているらしく、用を足した後、流れていかないので焦った。

石油ストーブ、ガスストーブ、さらにエアコンをつけて暖めてやっと1時間ほどで9度まで室温が上った。

新年早々ではあったが、白内障が進行していて見え難い状況が続いていたので、12日にK大学病院に入院手術することにした。

13日が手術で、去年左をすでに手術しているのだが、やはり緊張した。時間は手術室に入って僅か20分かかったろうか?あっという間に終了して、翌日には厚い霧がさあーっと晴れた。こんなに見えるのは何年ぶりだろう。きっと近視になりたての頃中学2年の終わり頃に戻ったみたい。

霧は晴れたけれど今度は眼鏡が合わなくなった。人工レンズが入ったので視力が良くなったので、今まで使っていたレンズが強過ぎることになった。今度はレンズの度数を落とさないといけなくなった。これでまたお金がかかる・・・とほほ

人はすべて繋がっているんだということをまたまた思った。

私の病室は9階の58号室4人部屋、新館だ。そのベッドのお隣に一日遅れて入院してこられた方がいる。お顔を見るとどこかで見覚えがある、どこだったかな・・・なんか近くのような気がするけれど・・・

個人部屋だと他の患者との接触はないのだが、相部屋だと話が弾む。

「わかった

同業者であった。3つ上の先輩になるのだが某県立高校の校長をされていた。私の在職時期と4年ほど重なっているので公立私立合同の校長会で顔を合わせていた。お互い奇遇に驚きつつも会話に弾みがついてずっと教育談義をしていた。

彼も白内障、昨日手術を終えられ、来週火曜日にもう一方の目の手術もされる。
今朝の話。こんなに霧が晴れるとは思わなかった。他人のお顔がありありと見えるので気の毒なくらい・・・(どういう意味だろう・・・)自分の顔を見るとこんなところにしみがあるとは知らなかった。朝しっかり髭を剃ったつもりだったのに、剃り残しがいっぱい。

もう一つ、主治医で手術の執刀医のG先生と話していたら、私のことをご存知で実は私の妻が先生のところの卒業生です。そしてG先生のお姉さんは私の担任の教え子であった。これって凄いと思う。こんな風に人間ってつながっているんだ
いつか出張で熊本から東京へ行った時に、偶々新宿の都庁の前の横断歩道で信号待ちをしている時に、向こう側から自転車を押してくる女性がいて、何気なく顔を見るとどこかで見覚えがある。一遍に何十人も渡っていく都心の歩道ですれ違ったその女性が気にかかっていた。何年か経って、看護専攻科の同窓会があって出席した時、思い出した。私のテーブルの前の席に座っている子ではないか!聞いてみるとたしかに彼女も気になっていたらしい。間違いなかった。東京のど真ん中で、教え子と出会う奇跡。まさしく人はどこか「縁」という糸で結ばれているのだ。


さて白内障、この病気って手術すればこんなに良くなるのだ。まさに起死回生。目の霞みを我慢することはない

5泊6日、痛みも余り感じないし、暇に任せて読書ばかりしていた。読んでしまった本が3冊。
五木寛之の『林住期』、住井すゑ・若月俊一共著『いのちを耕す』、森村誠一『エンドレスピークーはるかな峰』もう一冊の郷土史関係の本『むらの歩み』もあと少し。これはしっかりベッドの上でノートも取った。久しぶりに勉強したので、前頭葉活発に働いたのではないだろうか?ぼけないためには体作りも大切だけれど、頭(大脳前頭葉)の活動も忘れないようにしないとー
読後感は後ほどー




成人式の祝膳

2011年01月11日 07時27分28秒 | 日記
今日は私の61回目の誕生日。健康で充実した一年でありますようにー

世は成人式。成人式に因んで随分昔書いた文章を掲載する。


成人式の祝膳
                         
 「イ ラン カラプ テ」

 アイヌの人々が初めて出合う人にたいする挨拶の言葉で、「 あなたの心にそっと触れさせてください 」という意味である。現代という社会が喪失していまおうとしている人と人との間の原初の姿がこの短い言葉に集約されている。

 これはもう二十六年も昔の話である-。
私は当時、鹿児島市に住んでいた。大学一年生、初めて親元を離れての一人暮
らしであった。大学に近い安アパ-トを見つけた。佐野アパ-トという名で、
学生向けの古い木造二階建て、全室が三畳一間であった。風呂も、炊事場も
なければ便所さえ共同であった。食事は歩いて五・六分しかかからない大学の
食堂でとり、風呂は銭湯に通った。 「 家運 」というものがあるのだ
ろう。その頃、わが家には繰り返し、繰り返し禍が訪れた。
母が脳溢血で、血を吐いて倒れ、やっと起きれるようになったと思う間もなく、
今度は父が脳血栓の発作を頻発するようになった。

やっと仕事に復帰したのも束の間、配達の途中で交通事故。右足の脛は骨二本
とも複雑骨折で、折れた骨が皮膚を突き破る程の重篤なものであった。父と母
で細々と営んでいた食品製造の仕事もうまくいかなくなる。長姉は短大を中途
で退学を余儀なくされ、足が不自由になった父に代って配達の仕事を手伝うよ
うになった。

家の厳しい状況があるのでとても潤沢な仕送りなど望めない。本当は大学進学
さえ無理な状態であったが、長男であった私にかける両親の期待が厚く、特に
許されての進学であった。もちろん奨学金を二種類受け、足りない分をアルバ
イトで補った。

 やっとの思いで入学した大学が荒廃していた。この年、東京大学では入学試
験が中止され、学園紛争の風波は全国に及んでいた。大学はバリケ-ド封鎖さ
れ、授業は休講。何のために入学したのか、その問を自分の中で反芻しても答
の出ない袋小路で、悩みは深かった。熊本出身の先輩が突然キャンパスから姿
を消し、数週間の後にテルアビブ空港でテロ事件を起こしたのもこの頃であっ
た。大学を一種の熱病が覆っていた。大学に入ったものの、しかとした手触り
のあるものが掴めない焦燥があって、迷いの果てにクラブ入部を決意した。そ
の書道部での活動でかろうじて私は大学につながった。こういう揺れの真只中
で「 成人の日 」を迎えることになった。

 その日、私は親元に帰らず、かといって晴れやかな成人式にも抵抗があって、
一人アパ-トの自室に閉じこもっていた。すると朝の十時ころだったろうか、
ドアをノックする音がした。開けてみると大家の佐野のおばさんが立っている。

「 今日はあなた成人式でしょう、おめでとう。これは気持ばかりの品だけどど
うぞ 」と盆に入れた三・四品の心尽しの手料理がのせられていたのだ。

 まったく思ってもみないことだったので、途惑いながらも「 ありがとうござ
います 」とだけいって、盆を受け取った。煮しめとか薩摩汁とかがならんでい
るその片隅に、一合徳利と盃。祝いのお神酒の焼酎であった。どこか空虚で、寂
寞とした心境の中でいただいた温かい心遣いで、ここちよい酔いが涙を溢れさせ
た。人と人のつながりのありがたさ、思いやりに触れた時の心の熱さは今も薄れ
ることなく、私の心の中にある。

「イ ラン カラプ テ」、 あなたの心にそっと触れさせて下さい。
こんな気持をだいじにして生きていきたいものと思う。