本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

a dead cigarette 

2009-10-26 21:51:17 | a dead cigarette
a dead cigarette 
(続き)

・・・部屋にはひとつだけ、違う種類のタバコが煙も放たず、あなたの虚構の笑顔を残し、残っている。/ 性的遊戯という遊びを経た後での恋という憧れへの期待。成就せぬ想い。僕はひどく孤独感を味わった。無関心。本質的には無関心が渦巻いている。
快楽を与えてくれた気味をずっと抱きしめ、性的遊戯にいそしんでおられれば、僕の孤独は完全に癒されただろう。
癒し、それは一種の本質の放棄、思考の放棄。

- 死への存在
幼少期から感じていたのは、孤独なものであるということより、おそらく祖父か、祖母かのし、もしくは、小学校時代での友人の、喘息で苦しめられ、アトピーに苦しみ、少し周りからも倦厭されていたあの女の子の死から、「死というゴール」砂時計が、上から下に流れ落ちていくように、人生という砂は刻一刻と下に無残にも流れ落ちていくという実感であったといえる。それは、孤独という実感ではなく、無という恐怖ではなく、生きるということは無意味ではないかという命題が頭をもたげたというと、一番しっくり来ると思う。

「お母さん、今日起きて、明日起きるって事は死ぬってことに一歩近づくってこと?
母:「そんなこと考えたことも無いよ」
父:怪訝そうな顔をしているだけである。
砂時計のように流れていくという声明の事実を捉えたとき、僕は眠れないということが何日も続いたように覚えている。大人になるということが本質をわすれるということなら、それは恐ろしいことだ。大人になるということが、本質をもとめ、懸命に生きるということだけに懸命に努めるということなら、これは本当に恐ろしいことだ。
懸命に失敗に終わる試みをつづけ、そのつど悲しい気持ちを味わい、憂鬱になったりする。それを克服というなら、「成長」という言葉当てはまるのであろうが、そんなに、甘い甘美な想いではないのではないか?
それが、美しき彼女が僕に思い出させてくれた真実の想起である。
若く美しい女性に、ただ無報酬でその肉体を、その精神を自分の思うがままにできる。互いの肉体を精神を許した上で、永遠に互いの肉体を愛撫し続けられる。そのこと以上の幸福があるだろうか?死という結論が出ている以上本質的な幸福は、美しきものと、精神を許しあい、性的営みを行う。そのことに尽きると思う。
マズローの欲求段階というのは、うそつきの理論であり、本質を見極めている議論ではない。
「セックスがしたい、しかも美しく、若くよい肉体で、性格もよく、互いに精神を許しあえるそのような女性と」
最大の人生での至上命題はそう感嘆には、成し遂げられるものではない。
だから、人間は、余計なことをして、時間を紛らわせる。だれも、本質的な部分を語ろうとはしないし、本質的なことを真剣に語れば、おそらくただの阿呆という評価が下るであろう。

死への認識は、本質的な幸福を考えさせてくれる。ただ、同時に、本質的な幸福は、そう簡単には、達成できそうも無い。そのため僕たちが余計なことを考えて生きていかなればならない。そうして、人間としての文化は「高度化」していくのだろう。
本質では、「セックスがしたい」それだけなのに。
人間は動物である画ゆえ、強さを求めるし、孤独であることを本質的には、受け入れたくない。
だから、癒しとしての労働をこころみるし、癒しとしての研鑽を積む。

「僕は、理想的な女性と理想的に、いやすべての美しき、性格もよく肉体も美しく、すべての女性、いやほとんどの女性が僕に興味を持ってくれているわけではないし、彼女たちとセックスを可能な限り多くするということは限りなく難しい」

そういう失望から孤独感は生まれてくる。
人間としての孤独はなにも、死を認識することから、直接的原因ではなく、死という概念を認識をどれだけの阿呆でも感じ、その中で限りある時間の中でいきていくという選択肢しかないから、さまざまな感情が芽生えてくるのである。自由は無い。力は無い。
本質的幸福を追求することのハードルがあまりに、高いそれゆえ、人間は「進化」ということを試みるしかなかった。
そこから、孤独が生じる。
本質としての孤独。そこから漂う憂鬱という煙。

僕は、癒しの後の恐怖を感じ、眠りについた。僕は次の目覚めが最悪だったという記憶がある。でも、生きなくてはいけない。そう楽に死ねる方法も無い・・・
哲学では、本質的な孤独というのは、克服できない、無感情になることでも、孤独は克服できない。自分という存在それじたいはすべての始まりでしかない。終末へと向かういち存在として始まり、孤独を忘れず、生きていく。
僕は、いったいどうすることが本当の答えなのか?そのことを考え、今日も一日が始まった。

「死」それは、特に弱きもの、不幸なものへと優先的に訪れる。倫理的に正しい行いを行おうと試みる善良なものから、優先的に、ころされていく。性善説をとこうとするそういう者から優先的に、殺されていく。

*草稿として書き始めており、今後も書き続けていきますが、インターネットでの公開をした作品は選考対象外となる賞もあるようなので、ここで掲載を打ち切ります。


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a dead cigarette 

2009-10-26 00:31:16 | a dead cigarette
「a dead cigarette」

序章:事実

人間存在は孤独なものである。僕は、そのことを幼少期から感じていたし、ある程度の充実感を持って、その反面生きてきた。
でも、僕はいつしか、自分で達した結論をないがしろにして、自分の強さ、周りの存在との連携に期待をしていた。
「すべては、まちがっていた。」
そういう命題を僕は頭の中で、最近想起した。その命題は、言い換えると、記憶喪失と賢明さという虚実により、僕が達した
「すべては、正解である」
という青臭い確信を自ら、かなぐり捨てるという自己背信であったといえる。

人間は生れ落ちた時点で、孤独であり、存在そのものに、本質性もなければ、意義も無い。
そのことを僕は美しく飾ろうと懸命になっていた。
幸せになれれば、人との勝負に打ち勝てれば、そういう強い気持ちをどこかで持っていた。
今後どれだけ、有頂天になっても、青臭い青年の確信を忘れてはいけない。
僕は、そう思い、真実の記録を記すという決意を再度決心した。

原理原則。本質から逃れようとあがいた結果として、僕は一番忌み嫌っていた精神科に通うという間違った選択肢をしてしまった。

人間は生れ落ちた時点で、孤独は保証されているし、そのことを思い誤っては、間違った孤独を味わうことになる。
僕が、哲学ということに興味を強く持ったのも、生まれ持った本質としての孤独をいかに克服するかという間違った問題意識をもとに始まったといえる。
本質を見据えた時点で僕は恐怖感にさいなまれ、憂鬱な詩を書き連ねていた。
でも、それは、自分を淡い死への期待へと継続的に自分をさいなませる憂鬱であった。

でも、僕はわかったんだった。忘れていたけど。
人間の原理原則というのは、生きる存在意義など無く、つめたく、さびしいもの。本質的な応えはそこにある。
哲人に回答を試み、仏典に回答を試み、そこに応えはいったん行き着いたし、その本質を忘れるから、不幸だという虚実を味わうようになる。
人間は、本質的に孤独で無意味な状態で生れ落ちたひとつの偽りの愛にちかい存在である。
すべての試みがそうであるように、僕が生まれ落ちたということ自体がひとつの人類の失敗の追加事項に過ぎなかった。
そのことを忘れてはいけない。癒しがたい非情な現実。それは逃れることのできないものであるし、癒しがたい本質的な孤独というものは、本質的には克服できない事実として、生きるという試みの中で重くのしかかるものである。

癒しがたい本質的な孤独ということを癒すには、悲しいかな、癒し方もうひとつの孤独との出会いにより、自分たちが本質的に別な方向性を向いているということを確認しあうということでしかない。
「僕は見知らぬあなたを抱きしめ、一時的な孤独を癒します。
一時的な幸福感・充足感を味わいます。
あなたは美しい。お金という癒し難い虚構によって、僕はあなたを抱きしめます。
あなたは、ひととき本質的な快楽を私に見せてくれました。」

癒しがたい孤独。無意味な存在として生れ落ちたという事実。
あなたは、私にそのことを一時的に忘れさせてくれます。

・・・部屋にはひとつだけ、違う種類のタバコが煙も放たず、あなたの虚構の笑顔を残し、残っている。

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