希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
聞きなれない言葉である。著者が1998年問題という問題は、それがほんとうに問題の始まりであったということを実感させてくれる。
問題とは、二極化と、リスクかが顕在しだしてきたことがはじまりだしたということである。
著者は、希望と絶望の定義についてそれぞれ、
「希望(hope)という感情は、努力が報われるという見通しがあるときに生じ、絶望は、努力しなくても同じとしか思えないときに生じる」(193-194項)
というように定義付けている。
つまり、1998年問題とは、われわれ現代に生きるものから徐々に希望という種を摘み取り、絶望という種を植え付けていく糧にスタートということができる。それでは、実際、著者のいう1998年問題というのがどのようなものであったかということをみていこう。
1998年は、
①「実質GDP成長率がマイナス一%となった不況の年」(201項)
②「その少し前、1995年は、インターネットという言葉が流行り、携帯電話が爆発的に売れ始めた年である。経済的には、ネット長者も現れた。社会がますます便利になっていくのがニューエコノミーのプラスの側面だとすると、そのマイナスの側面が一気に噴出したのが、1998年」(-202項)
③2万2千人前後で推移していた自殺者が、1998年に約1万人増えて3万2千人となり、それ以降、景気の変動に関わり泣く、3万人台で高止まりしている(同)
ということが始まった年でもある。これは、リストラの増加、および、経営が行き詰った中小企業の経営者の自殺ということが原因である。
④フリーターの増加はこの翌年の1999年からで、これはこの年に採用が見送られた若者がなったといえる。(203項)
⑤家族の分野では、離婚、できちゃった婚、児童虐待、不登校の増加傾向に拍車がかかりだす。(同)
⑥不特定多数のセックス経験と相関するといわれているクラミジア感染率も
⑦青少年の凶悪犯罪もこの年頃から増加に転じている。(同)
→これまでは、貧困、怨恨などなにかしら理由があっての犯罪であったのが、池田小事件、幼児連れ去り事件などのように「犯罪を犯すためだけの犯罪」(208項)という性格を帯びた犯罪が多くなりだす。(いみじくも、先日の広島女児殺害事件もこの犯罪に属するのであろう)
といったようにまさに何か示し合わせたようにも見えるぐらいに、絶望の連鎖が始まりだしたのがこの1998年を起点にしてだと著者は実際の調査の例を交えながら示してくれる。
これは、どうしようもない現実を癒すため、もしくはそれから逃避するためにアディクション(嗜癖)的な行為に走った結果であったり、自暴自棄になったりの結果としてしてこれらのことが起きたという視点も著者は示している。
著者は、このような1998年問題的な心理を抱くものが希望に障害をきたさせた結果として社会に悪影響を及ぼすのではないかということに警鐘を鳴らしている。