次には、サルトルの神そのものに対する考えということとその周辺について見てみよう。
例によって、卒論からの引用に加筆修正という形で論を進めていこう。
【二ヒリズムとしてのサルトル的対自―即自への神性の可能性】
再度『ニヒリズム』という書物からの引用となるが、岩波氏は、フィヒテの言葉として、
神のようなものを信じないで、人はまともでありうるだろうか。答え。ありうる。(というのは、この問いにおいては、疑いもなく、理論的信仰が問題となっているからである。)無神論者は宗教を持ちうるか。答え。もちろん持ちうる。(高潔な無神論者について次のように言いうる彼は、口で否定するのと同じ神を心で認めているのである。) (『ニヒリズム』125頁)
というものを挙げている。この言葉は、まさしくサルトルの対自-即自存在の神性への肯定というものをいい表しうる表現であるといえる。サルトルは、神自体を信じているわけではない、敢えて再度似たいような箇所を引用することは煩わしく思われるかもしれないが、サルトルは、神ということに関して、
おれは嘆願した。おれはしるしを求めた。おれは天にメッセージを送った。答えはなかった。天はおれの名前も知っちゃいない。いつもいつもおれは神の眼になにでありうるのかを問うてきた。今答えがわかった。無だ。神はおれを見てやしない。神はおれのことなど知りもしない、おまえは頭の上のこの空虚が見えるか。この空虚が神だ。おまえは扉にあいたわれめが見えるか。それが神だよ。おまえは地に空いた穴を見るだろう。それが神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神とは人間の孤独のことだ。存在していたのは、おれだ。 (J-P・サルトル,生島遼一(訳)『悪魔と神』新潮社,1951,267頁)
というようにその著作の中で述べている。いみじくもこれまで述べてきた人間存在間でのまなざし論とは(ここでは未述)、神の不在の中でこそ行われる。この引用からも暗示されていることではあるが、神というものを、即自というものにおいてではなく、私たち人間存在というものをその本質として提示してくれるものである。しかし、神というものはない。不在である。
それゆえ、サルトルは、人間存在を信じる。この『悪魔と神』でのニヒリズム的な状況を克服するためのサルトルの人間存在論。それは、先に挙げたフィヒテでの価値観のコペルニクス的展開とでもいう状態が挙げられる。ただ、一見コペルニクス的に正反対にその神という概念が捻じ曲げられてしまったようにも見えるサルトルにおける対自‐即自の神性というものは、実は、まさに本来的な宗教観を指しているといえる。神というものに対しての表象は、しばし絶対者であったり、超越者であったりというように言い表される。絶対であり、超越をするものならばそれを感じることは不可能ではないだろうか?
そのことは、次の例を見ることでなお、理解されうるであろう。
*これは、次のサイトからの引用である「インドの6人の盲人と象,マルチメディア/インターネット事典,URLhttp://www.jiten.com/dicmi/docs/k2/14173s.htm 」
南インドの海遊漁民タミール族の「6人の盲人が象を触って、それぞれ触ったところによって異なった全体像を想像した」ということわざで、米国の詩人John Godfrey Saxe(1816-1887)が現代英語に翻訳して、実際に触っても、全体を見ることができなければ、それぞれが触った部分から勝手に全体を想像することになり、理解は10人10色であるという「ことわざ」として世界中に知られるようになった。
というものである。神というものは、人間存在という盲人にとっては、象のようにその規模がまったくちがう故にそのあるがままの姿を捉えられない。逆にいうなら、捉えようがないものであるから、途方にくれるというのは、人間存在にとって、あるべき姿なのである。たとえそれがニヒリズム的であったり、無神論的な態度あっても、それは、フィヒテがいうがごとく、たとえ、理論的な信仰にとどまるにしても、自然な形で、「神を心で認めている」というような、逆説的でありながら本来的であるという姿となるのである。ましてや、私たちは、当たり前であるが、宗教的な意味での神というものを、この象の例に比するまでもなく、触ることなどできもしない。