第一部:幕開け ~ 「社会的なもの」とのかかわりの始まり
chapter#10 性と感情
日々の労働に追われ、肉体を酷使し、とてもこんな時間にパソコンに向かい、小説を書くなどということは疲労を伴うことでもある。
しかし、今のボクにはこの行為自体が重要な意味を持つといえる。
人間というものの特質として、実際になりたいと思うものを演じ続けることで、脳が実際にそれを現実と仮想を判別できなくなり、次第に実際にそのなりたい像になっていくということはよく聞くことである。
この物語をつむぎだしていこうとする姿勢こそが、まさにいまのボクにとっての確固たる自我なのである。
確固たる自我、つまり、ボクはこれから力が許す限り、言葉を振り絞っていかないといけないと思う。今のボクにとって、言葉を振り絞るという行為は、存在をつなぎとめるということにもつながる。
なぜか?ボクは物語を書く、著作物を書き、広く社会に認知され、それにより、一人でも多くの人間とかかわり、またそのかかわりを持った人が少しでも、この駄文により、幸福になってくれればという風に強く望む。
これまでのボクはこの願望を素直に表せず、アンニュイな、メランコリックなモンタージュを書き連ねることで、自己閉鎖的な快感を味わっていた。
自慰行為にも似た行為だったと思う。
過度な自慰行為は性器を痛めつける結果になりかねない。
性行為だけがこれまで、この物語の中で人生の比喩として語ってきた「恋」というものを成就させるわけではないということは百も承知だ。
しかし、ボクはこの物語において、決して完璧な構成を、完璧なシナリオを完璧な、ロジックを求めて、文章を書いているわけではない。
これは、できることならば、毎日文章を生み出す、創造性を高める、そして、できることならば、多くの人の目に留まり、ボクという存在の可能性を出来るだけ大きく開花させるための、ボクにとっての訓練でもあり、ボクといういまだ閉鎖された自己空間にいる存在にとってのひとつの挑戦でもあるのだ。
恋は完成されるためには、情緒的なつながりがまずは必要だ。
しかし、社会的に成功したいと思っている今のボク、そして、この世に生を授かったボクとしては、純粋な恋をするだけでは、不十分なのである。
男性であるボクにとって、比ゆ的にいうと、多くの女性に自慰に使っていたモノを可能な限り多くの女性に愛撫したいと思ってもらわないといけないのである。
しかし、ここでまた重要になってくるのは、乱雑に性器を愛撫されたのでは、キズだらけになり、危険性が伴う。
信頼が伴う女性に出来るだけ多く、愛撫してもらうことが必要になる。信頼にたる女性というのも比ゆ的な意味で、厳密に定義することは非常に難しい。
少なからず、ボクという存在に興味を抱いてくれるという弱い意味で捉えてくれたほうが、ここでは都合よく、意味がつながると思う。
~ (挿入) 本当の恋というのは人生に一度でいい。
ここでいう愛撫というのは、共感という言葉に近いのかもしれない。父の酒にあたるものをここでは性とおきかえることはできないが、比較的近い意味で捉えることが出来る。
性とどう付き合うかという命題は、人生の伴侶をいかに求めるかという命題と同じくらいに、ボクにとっては重要だった。
こちらから、欲情してしまっては、社会的成功はおぼつかない。
多くの「女性」(もちろんある程度比喩的な意味を含んでいる)に、自分の性器を、身なりを、オーラを感じ、相手側から愛撫したいと心底思ってもらわないと、いけない。
こちらから、欲情をし、接近してしまうようだと、それは、感情を紛らわせる「酒」のような、中毒的なものになってしまう。
ボクはなりたい姿になるために、なりたい姿を演じなければならない。
なりたい姿というのを粘り強く演じなければならない。
なりたい姿が、実はなりたい姿ではなかったという絶望を恐れながら。
「なりたい姿」
今のところ、ボクは安心している。
なぜなら、ボクは今、演じているなりたい姿は感情は、そむくことがないからだ。
ボクは、いま「なりたい姿」とおもっているものに対して、過大な情熱を感じている。僕の中でのなりたい姿というのは、宙ぶらりんになってしまっている、肉体疲労の深夜のボクに、ほんとうのボクという決して見ることのないであろう存在との間に、命綱をつないでくれる。
序章が終わった明確な理由というのも、この章を読んでいただき、明確になったと思う。宙ぶらりんで、「キルケゴール的」停止状態=ただ生きようという、ただ生きたいという漠然として、キルケゴールの批判する状態、つまりは、絶望という状態から開放されたからだ。
少なくとも、第一部でのボクには、どうなりたいかという姿が明確にある。
強烈に目指すべき姿というのがある。
後は、執念で、ボクが訓練を続けていけるかということにもかかわってくるだろう。
chapter#10 性と感情
日々の労働に追われ、肉体を酷使し、とてもこんな時間にパソコンに向かい、小説を書くなどということは疲労を伴うことでもある。
しかし、今のボクにはこの行為自体が重要な意味を持つといえる。
人間というものの特質として、実際になりたいと思うものを演じ続けることで、脳が実際にそれを現実と仮想を判別できなくなり、次第に実際にそのなりたい像になっていくということはよく聞くことである。
この物語をつむぎだしていこうとする姿勢こそが、まさにいまのボクにとっての確固たる自我なのである。
確固たる自我、つまり、ボクはこれから力が許す限り、言葉を振り絞っていかないといけないと思う。今のボクにとって、言葉を振り絞るという行為は、存在をつなぎとめるということにもつながる。
なぜか?ボクは物語を書く、著作物を書き、広く社会に認知され、それにより、一人でも多くの人間とかかわり、またそのかかわりを持った人が少しでも、この駄文により、幸福になってくれればという風に強く望む。
これまでのボクはこの願望を素直に表せず、アンニュイな、メランコリックなモンタージュを書き連ねることで、自己閉鎖的な快感を味わっていた。
自慰行為にも似た行為だったと思う。
過度な自慰行為は性器を痛めつける結果になりかねない。
性行為だけがこれまで、この物語の中で人生の比喩として語ってきた「恋」というものを成就させるわけではないということは百も承知だ。
しかし、ボクはこの物語において、決して完璧な構成を、完璧なシナリオを完璧な、ロジックを求めて、文章を書いているわけではない。
これは、できることならば、毎日文章を生み出す、創造性を高める、そして、できることならば、多くの人の目に留まり、ボクという存在の可能性を出来るだけ大きく開花させるための、ボクにとっての訓練でもあり、ボクといういまだ閉鎖された自己空間にいる存在にとってのひとつの挑戦でもあるのだ。
恋は完成されるためには、情緒的なつながりがまずは必要だ。
しかし、社会的に成功したいと思っている今のボク、そして、この世に生を授かったボクとしては、純粋な恋をするだけでは、不十分なのである。
男性であるボクにとって、比ゆ的にいうと、多くの女性に自慰に使っていたモノを可能な限り多くの女性に愛撫したいと思ってもらわないといけないのである。
しかし、ここでまた重要になってくるのは、乱雑に性器を愛撫されたのでは、キズだらけになり、危険性が伴う。
信頼が伴う女性に出来るだけ多く、愛撫してもらうことが必要になる。信頼にたる女性というのも比ゆ的な意味で、厳密に定義することは非常に難しい。
少なからず、ボクという存在に興味を抱いてくれるという弱い意味で捉えてくれたほうが、ここでは都合よく、意味がつながると思う。
~ (挿入) 本当の恋というのは人生に一度でいい。
ここでいう愛撫というのは、共感という言葉に近いのかもしれない。父の酒にあたるものをここでは性とおきかえることはできないが、比較的近い意味で捉えることが出来る。
性とどう付き合うかという命題は、人生の伴侶をいかに求めるかという命題と同じくらいに、ボクにとっては重要だった。
こちらから、欲情してしまっては、社会的成功はおぼつかない。
多くの「女性」(もちろんある程度比喩的な意味を含んでいる)に、自分の性器を、身なりを、オーラを感じ、相手側から愛撫したいと心底思ってもらわないと、いけない。
こちらから、欲情をし、接近してしまうようだと、それは、感情を紛らわせる「酒」のような、中毒的なものになってしまう。
ボクはなりたい姿になるために、なりたい姿を演じなければならない。
なりたい姿というのを粘り強く演じなければならない。
なりたい姿が、実はなりたい姿ではなかったという絶望を恐れながら。
「なりたい姿」
今のところ、ボクは安心している。
なぜなら、ボクは今、演じているなりたい姿は感情は、そむくことがないからだ。
ボクは、いま「なりたい姿」とおもっているものに対して、過大な情熱を感じている。僕の中でのなりたい姿というのは、宙ぶらりんになってしまっている、肉体疲労の深夜のボクに、ほんとうのボクという決して見ることのないであろう存在との間に、命綱をつないでくれる。
序章が終わった明確な理由というのも、この章を読んでいただき、明確になったと思う。宙ぶらりんで、「キルケゴール的」停止状態=ただ生きようという、ただ生きたいという漠然として、キルケゴールの批判する状態、つまりは、絶望という状態から開放されたからだ。
少なくとも、第一部でのボクには、どうなりたいかという姿が明確にある。
強烈に目指すべき姿というのがある。
後は、執念で、ボクが訓練を続けていけるかということにもかかわってくるだろう。