0はじめに★★★★★
ラディカル:急進的な、革命的な
根本的な原因にアプローチするという要な意味/急進的なというような意味もある。
⇒「自らの思想に窒息している誰かのみじめさ」190
から脱する思考法。
⇒★★★★★人と人とを区別する唯一のものは,知性-ソンタグ 341
計画-意志を打ち砕く事こと。343
意志の問題。359
①★★★★★
ゴダール、ベトナム人等からみるラディカルな意志に感光することがソンタグの本レポートの意義。
⇒感光する:何かに刺激を受けて変化すること。
時代、今を解釈するヒント。
アイデンティティのつむぎかた。
いま:全員が表現者であり、解釈者=哲学者である。
所感:メディア論、アートとしてのインスタグラム的な社会学ってないのかな?
芸術/哲学=認識を補助するためのもの。
私たちは新しい観念を必要としている。それはおそらく、きわめて単純なものなのかもしれない。151
⇒しばられない。固定されないこと。
⇒世の中でなされている無数のコミュニケーション。量産される「よい写真」「よいコミュニケーション」
解釈をするということ。
切り取るということ。
付け加えるということ。
受け取るということ。
理解するということ。
知りたい、シェアしたいと言う欲望。
■沈黙の美学:
どの時代もスピリチュアリティが目指すところを自ら再発明しなくてはならない。(スピリチュアリティ=人間の性に内在する苦しい構造的矛盾を解決し、人間式の完成、つまりは超越を目指すための計画、用語、観念)9
スピリチュアリティの企図をあらわすもっとも有効なメタファーのひとつとしてアート。9
①アートとは?★★★★★
アート作品:
さまざまな矛盾を調整したり和解させたりするための、まずまず有効な枠組みだということになる。9
アートとは偽りの道、あるいはバカらしさ(だだのアーティスト、ジャック•ヴァシェの言葉)なのだ。12
⇒もはや告白ではない、けれどもアートはかつてより以上に1つの解放、苦行の実践となっている。12
①★★★★★
アートの力は否定する力にあるという考え方に立つとき、オーディエンスに対するアーティストの矛盾をはらむ戦いの武器は、沈黙に向かって近く、より近く接近していくことだ。15
<沈黙>
沈黙は決意として存在する。16
⇒求めるのは、観客の不在であり、観客がそれに対しいて何ひとつ付け加えないということだ。25
⇒沈黙はその反対のものを必ず歓喜し、その存在に依存している。18
⇒このパトスは、沈黙という観念が、本質的に2つだけの意味ある展開を許すという点に現れる。それは完全な自己否定(アートとしての)にまで進められるか、あるいは英雄的•独創的なまでに一貫性のない形で実践されるかの、いずれかなのだ。
私たちの時代の芸術は、やかましいくらいに沈黙を求めている。20
①芸術とは?★★★★★
沈黙と、空無、簡素化といった概念が描き出すのは、見ること、聴くことをめぐるあらたな処方箋なのだ-芸術のより直接的で感覚に訴える経験を促進するか、あるいは、芸術作品に対してより意識的で概念的な対決を挑むかだ。21
◇芸術とは表現であるとするこの抜きがたい概念は、沈黙という観念のうちで最もありふれた、また疑わしいものを生むことになった-言い表せないものという考え方がそれだ。43
<芸術/かつてのアーティストの役割>
注意の焦点を合わせる技法。注意の技を教えるための技法だ。21
⇒諸芸術の歴史とは、ふんだんに注意を手中すべき一群の対象物を発見し、創出することに等しい。21
⇒★★芸術の目がいかに私たちの環境に眺めやり、名づけ、限定されていくつかのものを選び出し、ついで人々がそれらを意味のある、快い、複雑な事物として意識するようになるか、そのプロセスをはっきりと順を追って辿ることができるのだ。21
①芸術の意味★★★★★
⇒オスカーワイルドがいうには、19世紀に画家が指摘するまで人々には「霧」が見えていなかったという。
⇒かつてはアーティストの任務とは、ただ注意を向けるべき新しい領域と対象物を示すことだと見えていた。22
②今の芸術★★★★★
<芸術/いまのアーティストの役割>
⇒★★★ここの芸術作品は、私たちに何かを知ることの形式ないしは、パラダイムないしはモデル、つまり1つの認識論を与えてくれる。45
⇒退屈さ、簡素化、非個人化、非論理26
注意という能力そのものが問いの対象となり、より厳密な基準に照らされるようになった。22
⇒芸術が全面的な注意を求める全経験となることを目指すと言う、現代の神話から照らしてみると、貧困か、簡素化の戦略こそ、芸術に取って最も大きな野心を意味するものになる。22
⇒オーディエンスにへつらい、彼あらが既に知っているものことを与えてその欲求を満たしてやるか、オーディエンスにかれらが欲しがらないものを与えて攻撃を加えるか。24
③写真/インスタグラム★★★★★
<見る/凝視>
伝統的芸術は見ることをうながした。沈黙の芸術は、凝視をひきおこす。25
<制作の意図>
アーティストの客観的意図というコンテクストの中におかれていて、意図は常に認識可能だ。18
■ ポルノグラフ的想像力
⇒文学としてのポルノグラフィ64
ポルノグラフィは個人の悪夢が示す心理以上のことをもたらすと考える。85
<猥褻/性>
それらはすべてアクションの見通しに関連している.行為したい感情(肉欲)。行為したくない感情(恥、恐れ、嫌悪)だ/86
★ ★★猥褻とは人間の意識における根源的な観念であって、病んだ社会の肉体嫌悪の名残などより遥かに深いものだということ。75
★ ★★死のよろこびにこそ、あらゆる真に猥褻な探求は向かうのだ。78
猥褻つまりエロティック体験の極限は、生のエネルギーの根本でもある。80
⇒強い強い性的感情が脅迫と行っていい集中を求める以上、それはその人が自己をそうしつつあると感じられるくらいの経験を包含している。77
バタイユ:
エロティックなものが持つ暗い意味、その危険と魅惑と屈辱を、他の誰よりも強く作品化するのはバタイユだ。77
⇒バタイユが、ポルノグラフィとは結局セックスではなく死を巡るものなのだと言うことを、私の知る限り他のいかなる作家よりもはっきりと理解していたということにある。78
アドルノ:始まりも終わりも何ことをポルノグラフィの特徴だと談ずることができた。82
芸術における小さな、けれども興味深い、様態ないしは伝統としてのポルノグラフィだ。49
⇒文学ジャンル49
芸術としての文学に属し、芸術として優れているという内在的基準がそこに存在する、作品群のことだ。50
⇒ポルノグラフィ作品が文学であり得るか否かという問。53
ポルノグラフィは相変わらず唯一の意図を持つのに対し、文学的に真に価値のある作品は複数の意図を持つのだという•を強調する方が、より本当らしい。54
芸術という観点から見ると、ポルノおグラフィ本が体現する意識の排他性は、それ自体、以上だとも半分学的だとも言えない。63
■ みずから抗って考えること95〜シオランをめぐって
<生きるということ/人生>⑤★★★★★
一社会の生は、先行する諸条件の総和となる。意味は生成の流れで溺れる。
人の生成は、様々な可能性を使い果たす歴史そのものだ。96
哲学:⑤哲学するということ★★★★★
どんなことであれ、理解するための形式的モデルを提供するということだ。99
⇒哲学者はおそらく表現しえないもののつつましさをより良く理解し、尊敬することができるのだ。115
⇒★★★★★⑤哲学は、拷問にかけられた思考となる。みずからをむさぼり食う思考だ。それでいながら、この自分食いを繰り返しながらも、あるいは、そのせいで無傷でありつづける、ないしは開花しさえする。103
⇒存在の不可能な状態、考えられない思考こそ、シオランの省察の素材だ。(みずからに抗して考える、など)103
アフォリズムか永遠か。100
⇒シオランにとってアフォリズムというスタイルは現実の原則というよりも認識の原則。個々の深い観念が、それ自身のうちに生み出した、別の観念によってすみやかに王手をかけられるという運命をあらわす。100
◇ 存在する:★★★★
それを獲得するからと言って、私は絶望しない、1つの習慣だ。『存在することの試練』102
◇ 唯一の自由な精神
存在ないしは事物との純粋な親密さを保ちながら、それ伊自身の空虚を巧みに操る精神だ。102
治しえないものの先を行くこと。:
あらゆるかたちの人生は「生」そのものを裏切り腐敗させる以上、ほんとうに生きている人間は最大限の両立不可能生を引き受け、快楽と痛みの両方にたゆみなく励まなくてはならない。109〜シオラン
■ 芸術と映画
このふたつの芸術の間には、橋をかけられない裂け目、それどころか対立が、存在するのだろうか。何か純粋に演劇的と言えるものとは、別にあるのだろうか。123
⇒演劇は策略を展開し、一方、映画は現実に関わっている。126
⇒カメラによりあがなわれた究極の物理的現実に。126
<映画>
⇒映画とは新しい視覚文化の先駆けであり、我々に肉体を返してくれるもの、とりわけ数世紀に渡る印刷の勃興の元で、解読不可能で魂を書いた、無表情なものとされてしまった我々の顔を返してくれるものだ。〜ベル•バラージ149
映画の観客の全員は、どれほど洗練された人であろうと、本質的に同じレヴェルにいる。私たちは全員、カメラは嘘をつけないと信じているのだ。私たちは映画が生の真実として私たちに与えるものを経験する。133
アーティストがそれぞれに問わなくてはならないこと:
私のラディカリズムは何だろう、私の才能と気質は指示するものは?147★★★★
■ ベルイマンの仮面/ペルソナ
■ ゴダール①はじめに★★★★★0書き出し★★★★★
人間であることの定義そのものが、まさに演出にあるに違いないのだから。〜ゴダール 181
ゴダール:★★★★①★★★★★★
疑いなく妥協なくその作家のものとわかる映画を作りつづける。184
⇒ゴダールの最新作を見に行く時、人はそれが完成されながらも混沌とした進行中の作品的なものであり、単純な賞賛など受け付けないということを覚悟しなくてはならない、184
⇒文化に対する飽くなき貪欲 185★★★★★
⇒主観性の総覧とでも呼べるくらいの作品群。185
表現の可能性:★★★★★
人々が本を読み、何事かを考え、真剣に映画館に足を運ぶといった事実と、人々が泣いたり走ったりセックスするといった事実を、同じひとつの平面におくことで、ゴダールは映画のリリシズムとペーソスの新たな鉱脈を明らかにした。190
⇒
ゴダールの映画はオープン•エンディッドではあっても、フィヤードのように特定のジャンルを徹底的に追及するのではなく、むしろ、複数のジャンルを次々とむさぼってゆくのだ。201
①つくる表現するという事★★★★★はじめに
★ ★★★生まれ持ったラディカルな気質
ゴダールは誰の知性も蔑むことなくしめしてみせるのだ。208
⇒即興を好み、偶発事を取り込むのを好み、ロケ撮影を好む。215
①
★ ★★★★映画は、芸術と人生の間のどこかにある。219〜ゴダール
⇒彼が力を尽くしているのは、アクチュアルな現在に生きる映画をつくること。何かを過去から語ろうとしないこと、すでに起きてしまった出来事を物語らないことだ。222
①
★ ★★★★人生には、口で伝えるには複雑すぎることもある。だから私たちはフィクションを作り出し,普遍的にするんだ。〜ゴダール232
■ アメリカで起こっていること
■ ハノイへの旅
ラディカルな変化に心を奪われる事を切望するこの国の人間=アメリカ335
ラディカルな変化
精神的な変化
社会的変化337
★★★★
新しい感覚に気づかさせるような出来事は,いつだって人間のもちうる最も重要な体験である。338