第二部 社会的側面 社会的な成功に向けて
chapter#41 不安の正体
ボクは思う。たとえば、ボクがこの章の表題を「不安の招待」と書き間違えていたとしても、それは一概に誤字とは言えないのではないだろかと。たしかに、僕がときに、このコンピューターを介して行われる創作活動の中で、誤字という行為をおかしてしまうが、日本語の美しき特性として、誤字は誤字として時にその書こうとしていることの本質を言い当てているということもあると思う。
不安の招待というのは、今ボクにこうやって訪れる不安の本当の姿とはどういうものなのかということを今もてる知識を構造的に解き明かそうという試みではあるが、それはいうまでもなく、どこかボクの知識の、頭脳のかなたから、不安の招待があったからだといえるし、創造主ということばを想像主と誤字をするのも、彼が、確かに、ボク等人間という存在を創り上げた存在というほかに、ボク等が、想像している中で創り上げた、こちらをいわば創造主、もしくは、想像主として対置しているということも含むといえる。
思うに、ボク等が生きる世界というのは、おそらく、たいしたことのない中ですべての生産活動が行われているのではないかと思う。
ボクのそばにいるその学ぶべき存在である老心をもった彼らが象徴しているように、ボク等はただ生きているというだけでは、いかにも意味を持たない存在であるし、そういうふうに振舞っていたほうが、害はないのだろう。
何かを創造しようとする試みは、多かれ少なかれ、既存の秩序に対する破壊をもたらす。それゆえ、みな、目を瞑ったフクロウのように、こうもりとともに、夜行性を気取ろうとする。
こうもりのつかさどる世界においては、夜行性を気取ることが利口な選択なのだろう。
はたして、老心をもつと一蹴できるほど、僕はフクロウ軍団と化した従順なハトたちに勝るところがあると、胸を張っていえるのであろうか?
結論からいうと、そういうことを胸を張っていえないというところに、ボクを創作活動に走らせる大きな理由があるのだろう。
フクロウたちのように、目を開けているか、閉じているのかわからないように、日中を過ごし、こうもりとともに、安全圏に過ごすという極上の選択肢を選びたくないし、ボクが本能のどこかで、こうもりの支配下ではない部分での社会的成功を望んでいるという部分と、このままいくと、この安全圏のこうもりとフクロウの軍団の中では、自分のうちで輝く可能性というのをいともすばらしく枯渇させることがどれだけ容易かという恐怖と不安がボクを彼らと距離を起きたいという健全な欲求へと背けるのであろう。
ボクは、これ以上、わけのわからないらせん状の対他者関係の議論に時間を割いている余裕もないし、ボクが巻き散らかしたままにしてしまっている対他者の関係における疑問というのも早急に刈り取っていかなければならないという危機感も感じている。
ボクが今書き上げようとしているのは、小説という創作物であるし、僕が人生の選択してとして選び取ろうとしているのも、文筆家としての成功である以上、この行為のレベルをさらに深化させていき、社会的に意義あるものへと消化させていかなければならないと感じている。
chapter#41 不安の正体
ボクは思う。たとえば、ボクがこの章の表題を「不安の招待」と書き間違えていたとしても、それは一概に誤字とは言えないのではないだろかと。たしかに、僕がときに、このコンピューターを介して行われる創作活動の中で、誤字という行為をおかしてしまうが、日本語の美しき特性として、誤字は誤字として時にその書こうとしていることの本質を言い当てているということもあると思う。
不安の招待というのは、今ボクにこうやって訪れる不安の本当の姿とはどういうものなのかということを今もてる知識を構造的に解き明かそうという試みではあるが、それはいうまでもなく、どこかボクの知識の、頭脳のかなたから、不安の招待があったからだといえるし、創造主ということばを想像主と誤字をするのも、彼が、確かに、ボク等人間という存在を創り上げた存在というほかに、ボク等が、想像している中で創り上げた、こちらをいわば創造主、もしくは、想像主として対置しているということも含むといえる。
思うに、ボク等が生きる世界というのは、おそらく、たいしたことのない中ですべての生産活動が行われているのではないかと思う。
ボクのそばにいるその学ぶべき存在である老心をもった彼らが象徴しているように、ボク等はただ生きているというだけでは、いかにも意味を持たない存在であるし、そういうふうに振舞っていたほうが、害はないのだろう。
何かを創造しようとする試みは、多かれ少なかれ、既存の秩序に対する破壊をもたらす。それゆえ、みな、目を瞑ったフクロウのように、こうもりとともに、夜行性を気取ろうとする。
こうもりのつかさどる世界においては、夜行性を気取ることが利口な選択なのだろう。
はたして、老心をもつと一蹴できるほど、僕はフクロウ軍団と化した従順なハトたちに勝るところがあると、胸を張っていえるのであろうか?
結論からいうと、そういうことを胸を張っていえないというところに、ボクを創作活動に走らせる大きな理由があるのだろう。
フクロウたちのように、目を開けているか、閉じているのかわからないように、日中を過ごし、こうもりとともに、安全圏に過ごすという極上の選択肢を選びたくないし、ボクが本能のどこかで、こうもりの支配下ではない部分での社会的成功を望んでいるという部分と、このままいくと、この安全圏のこうもりとフクロウの軍団の中では、自分のうちで輝く可能性というのをいともすばらしく枯渇させることがどれだけ容易かという恐怖と不安がボクを彼らと距離を起きたいという健全な欲求へと背けるのであろう。
ボクは、これ以上、わけのわからないらせん状の対他者関係の議論に時間を割いている余裕もないし、ボクが巻き散らかしたままにしてしまっている対他者の関係における疑問というのも早急に刈り取っていかなければならないという危機感も感じている。
ボクが今書き上げようとしているのは、小説という創作物であるし、僕が人生の選択してとして選び取ろうとしているのも、文筆家としての成功である以上、この行為のレベルをさらに深化させていき、社会的に意義あるものへと消化させていかなければならないと感じている。