本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

人間存在のドラマ 実詞化=イポスターズ :松山情報発見庫#359

2005-12-17 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存から実存者へ

筑摩書房

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さて、これから「実詞化=イポスターズ」という概念いついて詳しく見ていこうと思う。
この言葉は、もともとはギリシア語の<hypostase>のことであり、「下に身をおくこと、下に位置する(基礎となる)こと」(204頁,西谷修氏の解説より)で、「みずらの外に出ることを至高の自由とし、その栄光と悲惨を引き受ける」(213頁)とする「脱存主義」(同)(=サルトル、ハイデガーなどに見られる考え方をさしていると思われる=宗田)に対して、「逃れえないみずからの存在をその下に身をおき担いとって立つレヴィナスの主体」(=担在主義)(同)というレヴィナスの独自性をあらわす概念ということだ。

この実詞化=イポスターズという概念を理解するためにはまず、先にも述べたレヴィナスにおける人間存在のあり方というのに立ち戻らなければならない。
レヴィナスにおいては、人間存在は、「実存するもの」と「実存」というように捉えられている。つまり、実存ということ自体では、人間存在はいわば、実存感というか、実存の感覚を味わうことができない。
このことが、おそらく先に述べた存在の禍悪性とでもいうものと関連するのだろう。当たり前といえば、当たり前だが、それがプラトン『饗宴』以来の他へ求めるといった他への善き求婚とでもいうべき状態ではなく、存在そのものが悪性であるゆえに・・・というようになるのだろう。この点に関してはレヴィナスについて詳しく見ていかなければ明らかにはされないだろう。

さてさて、
レヴィナスは、この実詞化=イポスターズについて、
「動詞によって表現される行為が実詞によって示される存在となるその出来事を指し示していた、<実詞化=イポスターズ>という言葉を再び採用することにした。<イポスターズ>、実詞の出現、それはたんに新しい文法的カテゴリーの出現ということだけではない。それは、無名の<ある>の中断を、私的な領域の出現を、名詞の出現を意味している。<ある>の規定の上に存在者が立ち現れる。」(174頁)
というように述べている。
これまで、いくばくか人間存在というものに思いをめぐらしてきたものにとっては、あくまでもこれは、答えではなく、路でしかないが、えらく刺激的な事実のように思える。
これをただ概念として捉えるならともかく、これを日常という中に移し変えて考えるならば、先に述べた社会性の樹立の必然性という議論からも踏まえて、存在しようという意志(実生活における実詞化とでもいうべき状態)によって、私たちは、無名でなくなるということである。つまり、存在への意志ということを指し示そうとすることで、個別性が色濃く示されるのではないかということである。

さらに、この<イポスターズ=実詞態>とは「意識」(175頁)のことであり、実存者とは意識のことであるという。
ここにレヴィナスのいう実存者というのは、意識ということが発見されたわけであるが、彼が存在の禍悪性というのをもとに発しているように、ここから問題がまた生じることとなる。

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実存ドライブ!! : 松山情報発見庫#358

2005-12-16 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存から実存者へ

筑摩書房

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レヴィナスにおいては、人間存在の形態というものは、
実存するもの=実存者⇔実存それ自体(21頁)というように区別されている。実存それ自体というのが、サルトルのいう実存というものに当たる。この状態においては、これまでハイデガーなどの著述でもみてきたことではあるが、「<実存する(exister)>という動詞の空洞に身を乗り出すとき、思考を襲う眩暈のようなもの」(同)を感じずにはいられない。レヴィナスが特徴的なのは、この<実存する>という動詞をその分詞の形「existant―でしか、<実存するもの>としてしか、可知的」(同)にはならないとしている点であり、このように実存それ自体が、実存するものとなるこのダイナミズムのことを「実詞化=イポスターズ」(後に詳述)と概念付けていることである。

まず、レヴィナスは、サルトルにおいては、嘔吐として、ハイデガーにおいては不安な気分として特徴付けられていたいわば、実存するものにおける欠如から生じるとされていたこのような観念いたいして、欠如の故ではなく、

「存在の積極性そのものの内に何かしら根本的な禍悪があるのではないだろうか。存在を前にしての不安―存在の醸す恐怖(おぞましさ)―は、死を前にしての不安と同じく根源的なのではないだろうか?存在にとっての恐怖と同じく根源的なのではないだろうか?」(27頁)

という問題意識が本書の執筆動機ともなっている。
つまり、存在自体に悪としての要因があるのではないかということだ。これはこの後に特に詳しくこれ自体について論じられているというより、この存在の禍悪性というものが原因となって、人間存在のいろんな行動が繰り広げられるという温度となっていると思われる。

さて、レヴィナスはまずわれわれの世界-内でのあり方として、

「世界内での社会性は、別の存在つまり他性を前にした一存在を特徴づけるこの不安な性格を帯びてはいない。この社会性はもちろん怒りも憤慨も愛着も含んでいるが、それはもっぱら他人の質や実態に向けられたものであり、他人という脆弱な他性そのものをまえにしての根本的な怖じ気は、むしろ病的なものとされ、世界からは追い払われる。自分の連れ合いに何かをいうべきことを見つけなければならない―思いを取り交わさなければならない。その思いを第三項のように軸にして、必然的に、社会性はうち立てられる。」(82-83頁)

というように、世界-内においては、必然的に他者との関係性はうち立てられるものであるとしている。加えて、「行為は実存への登録」(51頁)という風に捉えられている。社会性の中で行為をすることでまずは、実存という分詞<実存するもの>となりうるということである。こういったように実存というものは、「しなければならない」と「そんざいしなければならない」という基本構造(cf.55頁)を含み持つであり、それゆえにときに、<実存すること>への登録への倦怠であったり、そのことへの疲労感を感じたりするということがあるというように彼は分析している。
ここまでで、レヴィナスにおける人間存在論の基本構造というものを概観したわけだが、次に、実存から、実存者へとなるという「実詞化=イポスターズ」ということについてみていこう。
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マラルメ 男の原型② : 松山情報発見庫#357

2005-12-15 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
マラルメ詩集

関西大学出版部

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(①より続く)
マラルメはなにも女性というもの創作ということを妨げる遮断媒介として捉えていただけではない。①恋愛をする対象としての女性への崇拝と絶望とも述べたように、詩作という先の引用で言えばヴィナス、真実味を帯びたものに対比させて、女性自身に真実味を帯びさせて述べている詩もいくつかある。

 ソネット
    彼女のために
おお、遠くではいとなつかしく、寄りそうては色白く
いとも甘美な、おまえ、メリよ、なにかの
くもりガラスの花瓶の上に、嘘のように
ただようなにかの稀有な芳香を、私は夢みる。

おまえは知っているか。そうだとも!私にはこの幾年
いつも、おまえのまばゆい微笑が、その美(うるわ)しの夏ともに
昔時の、そして未来にも深く沈潜(しず)んで。

私の心は、夜、ときおり、理解しあうか、それとも
最高の言葉でいと優しく、おまえを呼ぼうとしながら
妹(いも)のささやく言葉に、ただそれだけで興奮し―

偉大な宝と、いとも可愛い顔(かんばせ)、
おまえの髪の毛への接吻だけだ、ひそかにささやいた
あの格別な甘さは、おまえがしかと私におしえてくれたのです。
(171-172頁)

この第3節にあるのが、このししゅうの解説によると、夜ごとに訪れる空虚=詩の探求の中でメリ(=マラルメの愛人)に、どのような言葉で表現を試みれば、彼女への愛を表すのに足りうるかということを考えているという意味のようである。
このなかの、妹(いも)というのは「完全無欠で明朗な思考の象徴」のことで、どうすれば詩という形を通して女性への恋の気持ちを表象しうるか問うているということである。
この詩では、マラルメが「詩のほかに、恋があるなんて、幸福そのものだ」(174頁解説より)という心境に移り変わったということを表している。
それまでは、詩は恋に代替可能で、むしろ詩という恋を遮断するものとして女性が捉えられていたことからの進化が生じたということである。

さて、ここにきて次の②詩人としての苦悩、詩へのアンガジェということについてみてみよう。この②の概念を詳しく論じるとすると、これまで述べてきたような日常での女性の存在、ここでは述べてこなかったが、教師生活という中での創作との両立との困難、というようなことから生じる創作への苦悩と、詩をこれまでとはちがう形で一つの芸術として完成させたいともくろむ彼の姿勢いくつかの詩の中でよく現れている。

 蒼空

永遠の蒼空の晴々とした皮肉(あざけり)が
花のように、無気力に冴えわたって、
苦悩という不毛の沙漠をよぎりつつ
才幹を呪う無能(へぼ)詩人を圧倒する。

逃れながら、眼を閉じても、私は知る。蒼空が
とてつもない悔恨の激しさで、私の空虚な魂(こころ)を
見すえるのを。逃ぐるはいずこ?この嘆かわしい蔑みに
布切れよ、どんな兇暴な夜を、投げるべきか?

濃霧よ、立ち昇れ!秋の日の
鉛色の沼が溺れさす、霧の長いぼろ切れによって
大空のなかに単調な灰を降らすがいい。
そして沈黙の大天井を築くがいい!

なつかしい倦怠よ、忘却の河からでて、行きずりに
水底の泥と、青白い葦を、かきあつめてくれ。
意地悪くも、鳥たちがあける青い大穴を
疲れ知らぬ手で塞ぐために。

さらに!休みなく、悲しげな煙突が煙を吐き
真黒な帯状の戦慄のなかで
その煤煙(すす)という放浪の獄舎が、地平のほとりで
黄色っぽい瀕死の落陽をかき消してほしいのだ!

―大空は死んだ。―私はおまえのもとに駆けよる!
おお、物質(うつしよ)よ、無慈悲な理想と罪の忘却を、
人類というめでたい家畜と
寝藁を共にするこの殉教者に与えよ。

何故なら、ついに私の脳漿は、涸れ、
壁のすそに打ち棄てられた白粉(おしろい)壷さながらに
すすり泣く想念(イデー)を飾り立てる衛(すべ)もなく
人知れぬ死を悼ましく待ちわびるほかはない・・・・・

駄目だ!蒼空が勝った。鐘のなかに聞えるその鐘声(ひびき)!
わが魂よ、意地悪い勝利とともに
私たちをことさらに怖じけさす音色が、青い
お告げの鐘となっていきいきと金属から流れでる!

蒼空は、昔ながらの濃霧のなかを放浪い、
狂いのない剣のように、おまえの生得の苦悶をつらぬく。
無益にも非道(よこしま)な叛逆のなかで、逃げるはいずこ?
私につきまとうもの、蒼空!蒼空!蒼空!蒼空!

(54-56頁)

すごいとしかいいようがない。まるでサルトルが『嘔吐』を、実存という想念を考える際にこの詩を参照にしたかと思うほどに、『嘔吐』の中でロカンタン青年が創作活動に対して、もしくは、日常の中で自然に対して感じていることがそのままといっていいほどにこの詩の中に表現されている。
このような感慨というのは、おそらく文学的創作活動というものにアンガジェされる際に多くの人が感じることなのかもしれない。

ここにきてようやく、マラルメとサルトルをつなぎ合わせることができた。
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マラルメ 男の原型 :松山情報発見庫#356

2005-12-14 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
マラルメ詩集

関西大学出版部

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マラルメについては以前から取り上げると何度かいっていたがようやくここに来て約束が果たせた。
まずこの詩集から見られる彼の人生観というようなものを浮き彫りにしてみよう。
大きく分けて彼の詩集からは、①恋愛をする対象としての女性への崇拝と絶望②詩人としての苦悩、詩へのアンガジェという二つのモチーフが伺えると思う。
①恋愛をする対象としての女性への崇拝と絶望については、冒頭の解説であるように(「マラルメとの再会-改訂版『マラルメ詩集』の序にかえて」,12頁)、妹と母という二人に肉親の詩ということも大きな影響となっているようである。
マラルメの女性に対する想いがあふれている詩の一例としては、

  ある娼婦に

獣よ、民草の罪ひしめくという
お前の肉体を、今宵、征服しに来たのではない。
私の接吻が注ぐ、不治の倦怠のもと、
お前の汚れた髪の毛に悲しい嵐を凝視はすまい。

悔恨という未知の幕の下を飛翔(かけ)りつつ
夢のない重い眠りをおまえの茵(しとね)に求めよう。
虚無について死者にもまさり知り尽くすおまえが、
おまえの吐く不吉な虚言(うそ)のあとで、味わう眠りなのだ。

なぜなら、悪が、生来の私の気高さをむしばみ、
おまえと同じく、不毛の烙印を私に捺したから。
しかし、おまえの木石の胸中(こころ)には、
罪の歯も立たない、心が、領している。
ひとり寝に、死の恐怖に襲われ、青ざめて、
やつれはて、経帷子をまとい、逃走あるのみ。
(40-41頁)

この詩からは、
マラルメが男性特有ともいうべき性欲に愚弄された結果として、娼婦に対して同情と共に、後に創作との絡みとでも述べるが、マラルメ自身の創作を妨げるもの、理性に陰りを見せるものモチーフとして描かれている。
続いて取り上げる、「半獣神の午後」(111-119頁)においては、マラルメが芸術に立ち向かおうとする際に襲い掛かる女性の魅力というか、誘惑のようなものも描かれている。(少し長いが、詩を味わってもらう意味もこめて全て引用したい)

  半獣神の午後

あのニンフ*たち、彼女らを不朽にしたい。
       かくも鮮やかに
あの軽やかな肉の色、錯綜した睡りの
まどろみのうちに、空を飛び交うがよい。

       私は夢を愛したのか?
私の疑惑、年古りた夜の堆積は、多くの精細な
梢となりはてて、真実の森さながらに、ああ、無念だ!
薔薇*という概念の誤りを勝利の獲物として
ただひとりで自分に供しようとしていたのがわかる。
熟考えよう・・・・・・
  
       おまえの咎める女たちが、、
おまえの架空の官能の願いをあらわすなんて!
半獣神よ、類いなく浄らかな処女(おとめ)の、青く
冷ややかな眼から、幻想は、涙の泉のように迸る。
だが、ため息の的になった他の処女は、おまえの羊毛皮にこもる
真昼の熱風にも似て、まるでちがうと、おまえはいうのか!
いや、そうではない。自若とした、疲れ果ての失神により
爽やかな朝は、抵抗にさいしては、炎熱に息をはずませ、
和音に湿(うる)おされた茂みでは
わが草笛が降りそそぐ水はささやきも発てず
ただ風の音のみ双つの管から速やかにのがれいで、
無精の雨のなかに音をまき散らすにいたるのだ。
それはただ、小波ひとつ立たぬ水平の彼方に
くっきりと晴朗な、霊感による人口の息吹となって
やがて大空へとかえってゆく。

おお、静寂(しずか)な沼のあるシチリアの岸辺よ、
太陽と競って私の慢心に荒らされるがよい。
火花のような花の下、暗黙の岸よ、語ってくれ。
『私がここで、才に手馴れた空ろな芦を
刈っていると、泉に向いた葡萄の木をささげる
遥かな緑の草むらの、海緑色の金色に輝くほとりに
憩う真白の生き物が、波のようにうねるのだ
芦笛の音がはじめて緩い序曲につれて
白鳥がとびたつ姿か、いや!泉の精我逃げだして、
それとも水に躍びこむ姿かと・・・・・・』
     精気なく、すべてが、
茜色の刻に燃えるとき、いかなる術かしらないが、
ラの音求める者*が願った祝婚の調べが一せいに湧き起る。
そのとき、私は最初の執心に目醒めて
光の太古の波の下、すっくりとひとり立ち上がるだろう、
百合花(ゆり)よ!
無垢をあらわすおまえたちすべてのひとりとして。

その唇から漏れた甘くはかないたわむれ、
ひそかに、裏切り者を安堵させる、接吻のためではないが、
証拠もない私の胸が、いかめしい歯のかみ傷による
神秘の傷跡を証言している。
だが、なんたることか!
この秘法は聴き手として、
蒼空の下で奏でられる、太い双つの声茎をえらんだ。
その茎は、頬の乱れをもとの姿に返し、
長い独奏のうちに、周囲の美を、
わが軽信(かるはずみ)の歌声と、その美との
偽りの多い混同によって、夢みている。
ときあたかも調べは恋の抑揚につれて高まり、
私の閉じた眼が追っかけた、背か
それとも浄らかな腹の、日頃の夢を、
ひびきぬなしく単調な、音の連りが消してゆく

遁走の手だて、おお、意地悪のシュリンクス*よ、
おまえは私を待つ湖に、またもや乱れ咲くがよい!
私はただ、自分の風聞(きこえ)に誇りを持ち、女神を語れば切りがない。
崇め愛する絵のなかで、女神とおぼしき陰影から
またもや、腰の細紐を奪いとろう。
こうして、透明な葡萄の汁を吸いつくしたそのときこそ、
うろ偽って退けた、未練をよそに追うために、
笑顔で、夏の大空に、空ろな房をさしかざし、
光りきらめく皮のうち、息吹き入れて
陶酔を貪り、日暮れまで、透かして眺めあかすのだ。

おお、ニンフよ、くさぐさの思い出を、またふくらますとしよう。
『私の眼は、芦叢(あしむら)に穴をあけ、不滅の襟足を突きとめたが、
 そのおのおのの襟足は、傷痕を水に浸け、
 森のなかから大空へ、怒りの叫びを上げたのだ。
 こうして、髪毛のすばらしい沐浴は
 おお、宝石よ、その光明と戦慄のなかに消えてゆく!
 私は駆け寄る。すると私の足許に、
 (二人きりの病癖ゆえに、味わい深い憔悴に傷つき)
 誰憚らぬ腕と腕、擁して睡る処女たち。
 私は二人を引き裂かず、強奪(うば)ってはみたものの、さて、
 軽薄な葉陰にきらわれ、太陽に照らされて、芳香の
 涸れつくした薔薇叢に、一目散に駆け込んで、
 そこで私たちのたわむれこそ、燃えつきた太陽に等しかれ』
処女の憤りよ、おお、裸身で聖らな重荷の野性の歓喜よ、
おまえはたまらない。この重荷は稲妻が震えるように
肉のひそかな恐怖を呑みつつ、火と燃える私の唇を
逃れようと、身をくねらせてすべってゆく。
非情(つめた)い女の足許から、怯えた女の心まで、
純潔を一挙に見限るがいい、狂気の涙か、それとも
さほどに悲しくもない水液(しずく)に湿りを帯びて。
『私の罪は、裏切者のこの恐怖を征服しようと勇みたち
 神々のおかげで、縺れからんだ毛の群を
 唇によって掻き分けたことなのだ。
 ひとりきりの処女の幸多い襞の下に
 燃える痴笑いをかくそうと、思ったはずみに、
 (高ぶる妹の興奮に、羽毛の純白を染めようと
  純らな、顔赫(あか)らめ娘を
  指一本にかき抱くと、)
 ただ当てもない死の境地、とけた腕からすりぬけて
 この獲物は、永遠に情けも知らず
 私の陶酔の鳴咽(しのびね)に憐憫も見せもしないのだ。』

仕方がない!他の処女なら、私の額(あたま)の
角に結んだ編毛で、幸福へと連れ去ってもくれもしよう。
私の情念よ、おまえは知る、もう真紅に熟れた
柘榴(ざくろ)はみんなはぜ割れて、蜂の羽音もかしましい。
私たちの血は、それを捉えようとするものに溺れ、
情欲の永遠の群れへと、流れてゆく。
黄金(こがね)と灰色のこの森の黄葉(もみ)ずるとき
色褪せた茂みのなかに、ひとつの饗宴が高揚(たか)まる。
エトナ!おまえの山腹にヴィナスがおとずれて
熔岩の上に、純真な踵(あし)を運ぶとき、
悲しい睡りの轟きか、それとも火焔の終局か。
私は女王をかき抱く!
    おお、たしかな罰・・・・・・
空虚な言葉の霊と、ぐったりしたこの肉体、
真昼の誇らしい沈黙に、いずれは打負かされるのだ。
ただそれっきり、冒険はうち忘れ
ひとおもいに、渇いた砂に横になり、睡るとしよう。
葡萄酒に有利な太陽に、口を開くたのしさよ!

二人の処女よ、さようなら、おまえたちのうつろう姿を眺めよう。
(111-119頁)
*半獣神=ローマ神話の古い、森の神。彼は森のささやきを聞いて予言することができたといわれる。上半身は人間で、下半身は山羊の姿を持つ。ギリシア神話のサテュロスパンの神と同一視されることが多い。        
**ニンフ=ギリシア神話の中の山川草木などの精で、擬人化された女神でもあった。
***薔薇は、恋愛という所作のモチーフ
****ラの音求める者=調和を求める者
*****シュリンクス=ギリシア神話で、パン神の愛の追及を受けたとき、逃れてラドン河岸で一本の芦に姿を変えた女神。


語句解説と共に丹念に読んでいただければ、わからなくはない範囲で何とかわかるとは思うのだが、ニンフというのがマラルメ(彼を半獣神に見立てている)が現実界で格闘する女性のモチーフでその存在がマラルメの詩に対する創作意欲を奪っていく。男性であれば感じるであろう射精の後の空白を最後の部分で示しているといえる。対比して、途中で出てくるヴィナスというのが、芸術であり、マラルメの場合においては、詩の創作というものを象徴するという具合にだ。

(以降②に・・・)
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母 と ニートの関係 :松山情報発見庫#355

2005-12-13 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ニートの心理学〔文庫版〕

小学館

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この本の主張をひとことでまとまると、
日本は、女性の社会進出がまったくといっていいほど進んでいない。
「本音では、一部の女性自身も男性も行政も、今でも『女性は男性のアシスタントをやって、子育てをやるものだ』と思っている」(4-5項)
ということがあるし、そのことにより、女性が子供が自立しようとしだすと、それをまだ子供として扱おうとし、過剰な愛を与えることで「やさしい暴力」(127項)となり、こどもをアダルトチルドレンへと追い込んでいってしまう。
そして、この詩つけることをされずに甘やかされて育ったアダルトチルドレンの進化系が、今話題のニートとなるということだ。

ニートは、しつけという過程の要諦とでもいうべき機能が低下した結果として現れるとしているのが著者であるが、著者は「大人の社会を渡っていける自立した若者に変えるため」(66項)にしつけの目的であるとしている。
しつけの低下が、社会を渡ることをできないニートを生んでしまった。
社会を渡る上でニートは、というか今の若者(私も含めた)はとでもいえるのかも知れないが、
「仕事というものは『自分が好きなこと』をやるものだと勘違い」(36項)であったり、「夢を追ったり、困難にチャレンジする」(34項)出会ったりというふうに捉えてしまっているが、著者はそうではなく仕事というのは、
「自分のレベルなら成功できる」(同)と思うことや、「まず自分ができること」(39項)をすることであるというようにいう。

さて、このようなニートを助長させているのが、彼らをアダルトチルドレンへと追い込んでしまっているのが、先に述べた「子育て狂奏曲」(98項)とでもいうべき状況にある日本的な母親であると著者は指摘する。
子供が自立できないということを過剰な愛で肯定してしまう。
そのことにより子供がまたそのスパイラルにはまり込んでしまうというのがニートの悪循環とでもいうべき状況を創り出してしまっているようだ。

更に、ニートもしくは、アダルトチルドレンといわれる人々自身も、その状況から抜けだしたいと思い、あがくが結局は、自分を過剰な愛により抱きしめてくれた母親と似たようなチカラを求めてしまうことで、その状態にとどまってしまう逆説を繰り返してしまうと著者はいう。
そのことを脱出するには、まずはカウンセラーに相談することであったり、「自分の親とのことを子供のころからさかのぼって事細かに、包み隠さず、恥も外聞もなく、正直に話して」(212項)みることであったり、ということが必要のようである。
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認識-マッチング : 松山情報発見庫#354

2005-12-12 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
脳と仮想

新潮社

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まず著者である茂木氏は、心の本質として「志向性」(31項)ということを挙げている。これは、先に<私> ダウンロードにて志向的クオリアについて述べたことと同じことで、メタ認知的ホムンクルスとしての働きで「私」として立ち上げられた「私」という意識が志向をしていくことである。
つまり、これが心ということであり、ここから、仮想<imagination>が生まれていくというのがこの本の原点である。
この本では、認識のプロセスとして、「現実と仮想の出会い」(34項)というように述べられている。また、「脳の中に用意された仮想の世界の奥深さによって、現実を認識するコンテクストの豊かさが決まる」(同)というようにも述べられている。
これは、ひとことで言い換えれば、どれだけ教養(世間世界に対する知見)があるかによって、実際に現実として立ち現れたものを自分に写し取る際の色彩が豊かさを増すということである。
というのも、私たちがたとえば、「蛍」という言葉を理解する際を思い浮かべてみればわかることだが、日本という国において、歴史的にその蛍という言葉に対して、抱かれてきた「仮想の系譜」(35項)を引きずりながら私たちはその言葉を認識しているからである。

ここからもわかるように一つのこと、もの、ヒトを認識しようとする試みというのは、「現実と仮想の織り成す布」(43項)のようなものであり、以前バルトのことを述べる際に述べたことにも通じることがあり、サルトルの対他存在としての人間存在(未述)にもつながることである。
茂木氏自体はここでは述べていないが、自分が対象として認識される際にも、「それとは気づかないような繊細で微妙な形で、この世のものではない仮想のものたちが潜み、絡み、顔を覗かせている」(同)のである。
茂木氏は、このことに関して私たちが電話やメールなどで事前にやり取りがあったヒトに初めてで会う際のこと以前からその風評を聞いていた小説などについて、出会う際の例を挙げている。
つまり、自分が相手から見られる際にもいろいろな風評であったり、相手が同いうヒトにこれまで会い、どのように自分をその中のカテゴリーとして認識するかということより、私たちも認識されているということである。
つまり、サルトルが対他存在として、相手に立ち向かう際に、即自存在として私たちが捉えられると言っているのも、実際は想像の系譜に引きずられて解釈されているということにすぎないということになるのではないだろうか?(後に詳述)

茂木氏は以上のようなことから、「私たちの精神の中枢に仮想」(55項)があり、解釈をあちらこちらの外部世界に飛び散らしながら認識を行っているという。また、仮想の重要な働きとして現実という世界の過酷さから逃れるアジール(避難場所)というような性格があるというようにも述べている。
彼は、現実と仮想ということを現実が、一人の人間の中の感覚の外部への一致として捉え、仮想をその一致から自由な作用というように捉えている。

更に、仮想ということをもっと根本での生きるということと関連付けて、
「私たちの生の基盤を支えてくれるのは、『現実の写し』としての意識に現れるクオリアではなく、確かに私たちの生存を支えている『現実自体』だけである。そして、その『現実自体』を、私たちは決して知り得ない。私たちの意識の中に生み出されるものは、全て、仮想である。その仮想のうち、通常の意識状態では『現実自体』を移していると推定される『現実の写し』を、われわれは普段は『現実』と呼び習わすだけの話なのである」(105項)
というように述べている。
私たちは、自分が現前する現実ということに対して仮想を通して感じ取ることをして生きているということだ。
サルトルの「嘔吐」という概念も実際は脳内で仮想にすぎない現実を実際に実態として捉えかけてしまったことから生じるものではないだろうか。

これ以降、茂木氏は、サルトルもそうしたように、仮想ということを対他存在としての自分という軸を導入しつつ述べていく。(第六章 他者という仮想)
私たちは、「もの自体との断絶。他者の心との断絶。このような絶対的な断絶に取り囲まれた脳内現象として、この世界の中の生を生きている。」(152項)と言うように茂木氏は述べる。
このことはなにも、ニヒリズムを呼び覚ますものではなく、他者へ仮想を通して理解を試みようという仮想の切実さを表すために述べられているといえる。
それ自体へは迫れないが、心の本性の志向性としてアプローチを試みようとするそれが対他としての人間が生きるということだ。(159項参照)

*
脳ということを通して人間ということを考えるということは、『嘔吐』にてロカンタン青年が感じたであろうグロテスクさを感じさせてくれる気がする。
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<私> ダウンロード : 松山情報発見庫#353

2005-12-11 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
脳内現象

NHK出版

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人間存在について考える際いずれは立ち入らざるを得ない領域。
脳についての領域だ。
以前から脳について考えるのは好きだ。
「脳について」考えるというのは一見おかしなことだ、なぜなら、脳について考えているのは、他でもない、この脳だから。
この本では、最近やたらひっぱりだこの茂木健一郎氏の原点ともいえる本だと思う。
まだ、彼が大衆受けされる前に記した本だ。
おそらく内容は大衆受けする内容ではない。
一言でいえば、心脳問題について彼の独自の(?)クオリアという概念を詳述することで推し進めていくという感じだ。
ちなみに、心脳問題とは、「物質である脳から、クオリアに満ちた(私)の意識がいかに生れるか」(25項)という問題のことである。

それから、以前から何度かここで取り上げ単に「質感」という注で終わらせていたクオリアというのは、
①「意識の中で<あるもの>として把握されるもの」全て(24項)
②意識の中でユニークな質感として把握されるもの(25項)
というもののことである。
このクオリアは、更に、
a.感覚的クオリア
b.志向的クオリア
の二つの相互的作用から形成されるものである。
この二つの具体的な機能を見る前に、これらのクオリアというモノを感じる脳内の活動がメタ認知という機能によるということを確認しておこう。

メタ認知とは、
・「自分が何かを認識しているということ自体を認識する」(86項)ことであり、
・「認知の主体も『自分』であり、認知の客体も『自分』」(87項)である
という脳内における認知を行うプロセスの名前のことである。
さて、ここでクオリアについて具体的にみていこう。
まず、
a.感覚的クオリア
:認識のプロセスにおいて、言語化、社会化される以前の原始的で具体的な質感(80項)
 赤や青、緑といった色のクオリア、(中略)透明感、金属光沢、ざらざらした感じ、つるつるした感じ。(中略)これらのクオリアは、そのユニークな質感において自己完結(77項)しているというもの。
b.志向的クオリア
:感覚的クオリアに比べれば、抽象的質感として感じられ、言語化や社会的な文脈の引き受けを担う。(80項)
というものである。
この二つは、「砂地の上の猫」(同)の写真の認識に対する例を交えて、
「背景の粒つぶしたテクスチャを『砂地』として認識し、その上の白と黒の模様を『猫』と認識するプロセスは、『砂地』『猫』という意味(言語的・社会的な文脈)を生み出す思考的クオリアがマッチンぐすることによって成立」(81項)
というように、
人間における認識のプロセスは、感覚的クオリアと志向的クオリアのマッチング
として捉えられようだ。
もう少し付け加えていうならば、このうち感覚的クオリアは、単に与えられる受動的なもので、志向的クオリアは、積極的に対象に向かって解釈を働きかけるような能動的な機能を担うものということだ。

ここまでクオリアとメタ認知についてみてきたわけだが、この二つの機能から著者は、<私>という意識というものの生成のヒントを探ろうとしている。
つまり、これは、少しまえまでの脳科学では、脳の中の小さな神「ホムンクルス」といわれていたものである。
著者はこのホムンクルスという概念に似たものとして「メタ認知的ホムンクルス」(192項)という概念を提起している。
これを著者は、
「脳の中に仮想的に構築されるホムンクルスは、各領域の神経細胞の活動について、それを自己の外部にある客体として観察しているのではない。自己の内なるものの関係性を、『外』にあるかのごとく認識するというメタ認知のプロセスを通して、ホムンクルスの『小さな神の視点』」(193項)
を作りだしているというように述べている。
そして、
「前頭葉を中心とする、主観性を支える神経細胞の活動が『不変項』として機能し、感覚野を中心とする神経細胞の活動を『変項』として読みとる、その際<私>の意識がうまれ、その中で感じられるクオリアが生まれる」(201項)
というようにして<私>という主観性が立ち上げられるのではないかという風に論じている。

ここで茂木氏が述べていることは、まだ科学的に証明されていることではないようだが、とても刺激的である。
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存在の 「 味 」  :松山情報発見庫#352 

2005-12-10 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ハイデガー=存在神秘の哲学

講談社

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いよいよハイデガーにまで来てしまいました。
サルトルを正確に理解する、というか相対化して理解するためには、その周辺の理解も必要ということで。
この本を読んでみてのまず思ったことは、サルトルよりドラマティックな思想であるということ。
くわしい理由はさておき、この本から見えるハイデガーの存在論を見ていこう。

この本だけからの情報なので性格に判断はできないかもしれないが、ハイデガーにおけるそれは、サルトルにおけるそれに比べて、哲学的であるといえる。サルトルをはじめとして、フランス系の思想は、哲学といわれない理由がおそらくそこにあると思われるが、精神分析、社会学といろいろな色彩を浴びているように思われるからである。
サルトルにおける人間存在はいくばくか、精神分析的要素が強いように感じた、ハイデガーにおいては、
まず、「現存在」と「自己自身」というふたつに人間存在は規定されているようだ。(こういう区別は存在論的区別(32項)といわれ、人間のみが感じることができる認識として捉えられている。)
この二つは、あえて比較をするならば、現存在というのが、サルトルのいう対他存在(ここでは未規定)、自己自身というのは、実存そのもの、肉体とでもいうべき存在として捉えられているように思える。つまり、サルトルでいう対自存在というものはそっくり抜け落ちているといえる。

さて、この「現存在」という規定は、おきかえると世界-内での人間存在ということができる。著者は、ハイデガーの世界-内-存在という概念を「世界劇場」(第3章)というように規定している。
「役者の立ち振る舞い(acting)を、日頃のぼくたちの生の営み(living=現存在)とみたて、舞台上に刻一刻とつむぎだされる演劇世界を、僕たちが普段生きている日常世界とおきかえれば、世界劇場論」(95項)
となると述べている。
この世界劇場で、「役者さながらに、周囲世界に気を配り、共演者を気づかい、観客に配慮しながらその上で、時々の物事との交渉にあけくれ」(100項)るというのがハイデガーの「気づかい(Sorge)」という概念であり、このような態度で生活している現存在者のことをダス・マン(das Man)「一般的なヒト」とハイデガーは規定しているようだ。

著者の論理を追うかぎり、ハイデガーとしては、このダス・マン(das Man)という概念は否定的には捉えられているわけではないようである。その存在こそ非本来的であるにしても、許容はされている。
そのことは、「活き活きとスムーズに生きるための前提」(108項)であり、「世界の側から自分を理解する」(同)には必要なことであるという。
しかし、このような振る舞いに耽落することで、本来的な自己からはなれ自己疎外に陥るということはあるようだ。これをハイデガーにおいては「生の原パラドックス」(同)といわれているようだ。
このような「生の原パラドックス」から解放されることをハイデガーは、「現存在(生)が自己自身にたいして覚醒して在ること」(83項)というように規定しているようだ。

この覚醒がどのように起こされるかということについて詳述することがここでの趣旨ではないので詳しくは述べないが、死、恐怖体験、病気などなんらかの存在驚愕(185項参照のこと)により引き戻されるということのようだ。
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「じぶん」の作られ方 :松山情報発見庫#351

2005-12-09 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人

中央公論新社

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第4章 文化の喪失

携帯電話などのIT技術の発展は、「アメーバ的に、自己が拡がっていくことをくい止めることができない」(153項)と著者はいう。
つまり、IT技術などの登場以前は、限られた集団の中でしかつながりを持つことが容易でなかったヒト。それが、携帯などに代表されるITの登場により、原理としては、地球の裏側ともつながることができるようになった。
しかし、著者も集団が集団として機能する臨界値(限界の値)として指摘するように(143項)、ヒトがどれだけその交際範囲が理論的には拡大可能である時代となっても、「直接的な個人的なつながりを保てる」(同)のは、150人であるという。

つまり、交際の可能性が広がったところで、より多くの人間とそれまでと同じく意味をもって接することができるというわけではないのである。
著者は、
「自己の拡張は反面、自他の区分の境界を非常に曖昧なものにしてしまっている。生物としての人間の自己意識をはじめとする高次の社会認知発達は、空間的に同所にいる仲間がまとまって生活し、自分と他人が明確に分離される認識を前提条件としているらしい。」(146項)
という。
要するに、自分というものが規定されることは、濃厚な他者との関係性があって初めて可能であるということである。
このような、状況があるからこそ、著者は、「自分を社会はどう見ているのか」「自分は何をすべきであると社会から求められているのか」ということが不明瞭になるというふうに分析している。
「私たちは、自分という存在の中の出発点から、周囲から期待される姿をかなりの程度、取り込んで暮らしているようなのだ。」(138項)
この言葉は、現代的なコミュニケーションの希薄化ということを象徴している。
何度かここで述べているので割愛するが、著者は、このことと自己実現、自分探しということを関連付けて考察している。
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零度のヒト :松山情報発見庫#350

2005-12-08 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人

中央公論新社

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実存としてのヒトという表現とは違う。
著者は、
「生身の人間は、情報の単なる乗り物、あるいは器(vehicle)と化し、結果として『ひとり』と呼ばれる存在から、ただ操られるだけの『一匹』の存在に堕するのではないか」(はじめに より)
というように危機感を募らせる。
著者は、これをケータイという情報媒体の存在とリンクさせながら論理を進めていく。

第一章 出あるく

まずは、のっけからダイナミックに引きこもり、ニートという使い古された感のある精神分析的なことばという一見、間逆の「出あるき人間」(3項)という言葉の解説からはじめる。
これは、プチ家出、渋谷センター街の若者というような存在に代表される人々を象徴される言葉としてとらえられている。
著者は、これをサルの誘導という行動に擬え、
「遊動した軌跡を丹念にたどってみると、ある一定の地域から絶対に外へ出ないことがわかるはずだ。自分に慣れしたしんだ範囲だけを、寝泊りしつつ、ほっつきまわるのである。」(8項)
というようにいい、「出あるき人間」と引きこもり人間の違いとその類似性について、
「縄張りを設定し、そこから外へ出ることを原則として拒む。未知の世界に恐怖を抱く。ひいては自立を拒絶する・・・・・・。違うのは、そういう自分をどうとらえているかだろう。
 自己を肯定できれば、仲間と語らって『遊動』つまり出あるき、否定することになれば独居して引きこもることにならざるをえないかもしれない。しかも、全体として両者のいずれが多数派かというと、私にはどう考えても前者のように思えて仕方がない。」(17-18項)
という。

第二章 キレる

続いては、顔文字、ギャル文字などの例を挙げながら、人間はこれまでの本来的なコミュニケーションから言語を記号的にしか理解しなくなりだしたと指摘する。
本来の言語理解、コミュニケーションとは、
「記号的でなくて、反対に相手の心を読む(発話を手がかりに心理を推測する)過程」(46項)
であったが、それが携帯電話によるケーター的コミュニケーションの進展により、記号(顔文字、ギャル文字、絵文字)などを使うことにより、そうとしか理解されない工夫を通じて理解されることを常にするようになってきた。
このことは、本来の言語理解のスタイルの「意図明示的で推論的」(47項)という部分を劣化させていく。

ひいては、相手に対してだけではなく、自分への推論能力とでもいうべき部分も劣化させていくと著者は更に論を進めていく。
著者は、
「人間は生物である。生物は自己の生存のために、瞬間、瞬間に判断を下す。その即時的判断を一時的に停止し、『私はこう思っている』と自らの心中を再認識し始めたとき、人間は単なる生物から脱却したのだが、今や出発点に逆戻りして来ている。」(77項)
というように述べている。
つまり、自らの行動をすら、記号的に、言い換えるならば、刹那的に(ゆるやかな遊動仲間としての他者と関わるなかで)、しかとらえることができなくなってきているのである。
更にいうなら、自分への意味づけ能力の低下ということができるかもしれない。
意味づけ能力ということが伝わりにくければ、後の論じる茂木健一郎氏の著者についての部分を参照していただければと思う。
著者が、このことをカミュの『異邦人』のことを例に挙げて説明しているのが興味深い。
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今どきの・・・ :松山情報発見庫#349

2005-12-07 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
いまどきの「常識」

岩波書店

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抱腹絶倒!?
とまではいわないが、いまの日本の「常識」というのをぶった切った本だ。
「人は真理についてしりたいのではない。
 自分を慰めてくれる虚実にまみれたいのである。」
という最近私が思っていたことを実感させられた本でもある。

この本の中から特に面白かったものを取り上げたい。
まずは、9ページからの「世界の中心は自分」という小見出しから始まるもの。
著者は、大学での教師もしているということもあり、今の学生、もしくは若者に対して、
「自分と何らかの関係があるかぎりにおいては講義で教員が語ることにも関心は持つが、いったん『あ、これは自分には無関係だ』と思えば、後は一切の興味を失ってしまう。」(11項)
というように分析をしている。

正直これは、ぼくもまわりの学生とかを見てて感じることではあるが、おそらくこれを見て自分のこととして、共感をする若者というのはそう多くないのではないだろうか。なぜなら、それは決して心地よい分析ではないだろうから。
精神分析を生業とする著者だけあって、さすがに各トピックについて鋭く分析をしている。

もう一つは、48ページからの「自分らしい仕事をしよう」という小見出しで始まるもの。
著者は、このいまの就職業界というか、世間に渦巻く、「自分を探して、自分らしい」仕事を見つけようという大合唱に対して、
「『自分らしさを見つけよう』といわれる際の『自分』とは、時として現実離れしたりそうの自分に傾きがちだ。だとしたら、『自分らしい仕事』というのも、実際には自分に会わなかったり見つかりようも無かったりする現実離れした仕事である可能性も大きくなる。相すれば、景気などの要因とは関係無く、ますますフリーターやニートが増えるのも当然だ。」(52項)
というように鋭く分析する。

しかしである、どうしてこれほどの分析を行える人が、「人間のいわば自分への理想への想像に対して、実際はそれはただ自分がそれを信じるか否かの差でしかない」という、もっともらしい姿を説かないのかはきわめて不思議である。
つまり、「自分らしさ」「自分らしい仕事」などというのは表現自体がグロテスクに間違っているといえる。
なぜなら、それはあくまでも、「自分がこうありたい」という希望でしかないからだ。単純な日本語の綾を使うことによって、あたかも人間という存在に「神」的な存在から告げ知らされたような理想像が予め備わっているような幻想を抱かせるのは良くない。
この理想像が予め備わっているという幻想を抱かせること自体が「自分探し」などという不気味な行動に駆り立てることにつながっていくのだろう。
「身体よ悲鳴をあげよ!」
サルトルが今に生きているとそういいそうだ。
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アンガージュマン :松山情報発見庫#348

2005-12-06 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存主義とは何か

人文書院

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今の、いまだマラルメ、ジュネなどに対する詳細な分析を欠く状態においては、このアンガージュマンについてボリュームを持った記述をすることは困難ではあるが、その原型をこの著書の中から探ることはできる。
アンガージュマンの原義は、

「普通の辞書によると、アンガジェとは、『(約束や義務によって人を)しばる』とか、『(人をあることに)参加させる』という意味である。サルトルも、むしろ社会に参加させるという意味で使うことが多い。ある場合には、普通の意味とこの特殊な意味との両方にひっかけて使う場合がある」(伊吹武彦氏による解説から,162項)

ということであり、先に述べた、世界-内において、自らの道具性を発揮するということになろう。これは、「状況に対する受動性から能動性への転換」(本書内「1945年の実存主義」,海老坂武,13項)ともいうべきことである。
このような状況へのアンガジェは、サルトルによると、「つねに善であり、何ものも、われわれによって善でありながら万人にとって善でない」(44項)ことはありえないという厳しい規律を元に成り立つ。
これは、これまでにここで述べてきたような、対自存在における純粋な反省ということを抜きにして考えるならば、恐ろしく、ヒューマニスティックというか、理想主義的なようにも見えてしまう。
しかし、サルトルは、

「自分をアンガジェし、自分は自分がかくあろうと選ぶところのものであるのみならず、自分自身と同時に全人類をも選ぶ立法者であることを理解する人は、全面的な、かつ深刻な責任感をのがれることはできないだろう。」(45項)

というように厳しく律する。
このことも、この字面だけをみると、海老坂氏が先の論考にて、「アンガジュマンの全体主義化」(15項)というようないささか誤読としかいいようがない(というか当時のサルトルによるエクリチュールを加味するとこういう風に思えなくもないのだろうが)、ここでのサルトルの主張は、むしろ先のサルトルと世界、空間にて私が「指し向けられる対自-意識とでもいうべき状態」と規定した状態を無視してしまうと理解できないであろう。
つまり、政治的にどうこうというより、いやおうなしにわれわれの存在があらゆるところにいたるところにまきちらされる「ない」としてある以上こういう形となってしまうのである。

つまり、サルトルは、自由であるがゆえに、われわれは選択をする際に不安を伴い、責任感を対他存在として負う。
そのことにより、「人間は自分をつくっていくものである。はじめからできあがっているのではなく、自分の道徳を選びながら自分をつくっていく」(72項)である。
ここまで見てきたことで明らかのように、このアンガージュマンというサルトルの中で彼の行動による恣意的な仮想を系譜として引きづられてしまっている概念を理解するには、絡み合った織物を解きほぐすように彼の思考をゆっくりと追い戻していくことが必要なのである。
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サルトルと世界、空間 :松山情報発見庫#347

2005-12-05 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
存在と無 上巻

人文書院

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驚くべきこととはいわないが、一見アンガージュマンなどの概念を戦争経験によりはぐくみ、他者との関係性の中で見出したサルトルにおいての、世界観が世界-内-存在的な意味の一つ前として、いわば実存としての世界というのを言い表した空間論というのがこの『存在と無』の中で繰り広げられている。

「空間は、なんらの関係も持たない諸存在の間のひとつの動く関係である。空間は諸即自の独立が、《全》即自への現前であるようなひとつの存在に対して、即自相互間の独立として、開示されるかぎりにおいて、かかる諸即自の独立である。空間とは、諸存在が、関係を世界にもたらす存在のまえにいかなる関係も持たぬものとして顕示される時の、唯一のしかたである。(中略)空間は世界ではない。むしろそれは、世界がつねに外的な多数性に分解しうるかぎりにおいて、全体としてとらえられた世界の不安定性である。空間は、背景でもなければ形態でもない。むしろそれは、背景がつねに諸形態に分解しうるかぎりにおける背景の理想性である。空間は連続でもなければ非連続でもない。むしろそれは、連続から非連続へのたえざる移行である。空間の存在は、対自が、存在をそこに存するようにさせるときに、存在に対して何ものも附け加えない、ということの証拠である。空間は総合の理想性である。その意味で、空間は、それがその起源を世界から引き出すかぎりにおいて、全体であると同時に、それが『このもの』たちの急激な繁殖に終わるかぎりにおいて、何ものでもないものである。空間は、具体的な直感によってはとらえられない。なぜなら、それは、存在するのではなくて、たえず空間化されるのだからである。」(336-337項)

これは、いわば『嘔吐』のなかにおけるロカンタンと他の登場人物の関係性を表している仕方でのいわば実存する、もしくは現前する世界での中での無関係性的関係というしかたでの、即自的存在どうしがただ動く世界で静的な関係性を示す現われとして人間存在が現れるしかたである。
卑近な言葉でその状態を表そうと試みるならば、殺伐の極みとでもいうべき状態ということができる。
このような状態から一歩進んだ状態としてその関係性を表すことができるのが、

「存在は、私に逆らって、私のまわりにいたるところにある。存在は私の上に重くのしかかる。存在は私をとりかこむ。そして、私はたえず存在から存在へと指し向けられる。」(392項)

というような、指し向けられる対自-意識とでもいうべき状態にその即自を引き渡す。これがさらに発展し、ハイデガーからその着想を得た「世界-内-存在」的な状態へとその即自を指し向けることとなる。
それは、

「たゆみなく、《何かの役に立つ》可能性すらなしに、道具から道具へと指し向けられ、反省的な循環により以外に何のよりどころももたないことである。(中略)われわれが世界から出発して他人を考えるときに、われわれは、それだけでは、道具複合の無限指向から脱がれ出ることがないであろう、という意味である。
 かくして、対自が自己へ向かってのその飛躍と相関的に、拒否として自己自身の欠如であるかぎりにおいて、存在は、世界という背景の上に、対自に対して、『事物-道具』として開示され、世界は道具性という指示的複合の無差別な背景として出現する。」(363-364項)

というような、いわばマルクス的なとでもいうべき(いまの私の知識では、これがハイデガーにおいていかに示されているかということは判断しかねる)「世界-内-存在」とでもいうべき視点に到達することとなるのである。これはまた、アダム・スミスのいう分業への可能性ということも示唆しているようにも思える。
ここでいう「道具性」「何かの役に立つ」等は、世界のただ中、もしくは状況のただ中において自らの役割を対自的に反省を通して把握することでその状況の中にアンガジェ(拘束、約束)していくということであるからである。
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対自-即自の動性(認識,超越) :松山情報発見庫#346

2005-12-04 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
存在と無 上巻

人文書院

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前回『存在と無』について論じた満月としての人間存在においては、その人間存在における対自存在と即自存在の関係性ということを主に論じた。
今回は、この第2部対自存在から第3部対他存在への橋渡しともなる認識と超越ということについて細かに論じていきたいと思う。
タイトルの対自-即自の動性についてであるが、簡単にいえば、その二つの概念の作用の仕方ということだが、ダイナミズムとも言い換えられることができると思う。
ダイナミズム、この文脈で言い換えれば、対自-即自の倫理的営みということもできよう。

さて、対自存在と即自存在を先の文脈で、満月と弦月という関係性で指摘したように、弦月としての対自存在はまず内的な否定を引き起こす。それは満月であろうという所作である。(ここまでは前回述べたこと)
つまり、自分は満月ではない、満月を想定するという点において、二つは非連続である。満月という実存を地上より想定するヒトのような存在として弦月が捉えられているといえる。

「非連続な二つの要素のあいだの分離は、一つの空虚であり、一つの『無いもの』rienであるが、しかしそれは、実感された『無いもの』であり、いいかえれば、即自的な『無いもの』である。この実体化された『無いもの』は、かかるものとして、絶縁的な一つの厚みである。それは、現前の直接性を破壊する。なぜなら、それは、『無いもの』としてのかぎりにおいて、何ものかになっているからである。即自に対する対自の現前は、連続性という関係によっても非連続性によっても言いあらわされないのであった、それは単なる『否定された同一性』である。」(327項)

ここでの議論をわかりやすく言い換えるのであれば、対自というのは、在るがままの自分(即自)であろうとするが、それには、「純粋な反省」(302項)が必要で、「純粋な反省」とは対自自体を実在性において把握しようとする試みということである。これとは反対に、以前、ニーチェの議論で述べたことではあるが、一般的に多い形としての反省が「不純な反省」(299項)とサルトルが名づけるものであり、「自己でありながら他者であろうとして、失敗に終わった対自の努力」(同)というものである。

一段落前で、「非連続な二つの要素のあいだの分離は、一つの空虚」と指摘されたものは、いわば対自と即自をつなぐ「内的な否定」(321項)「存在のきずな」(322項)であり、サルトルが、

「二つの存在の間で一方の存在(対自)について否定されるところの他方の存在(即自)が、その不在そのものによって一方の存在(対自)をその本質の核心において性質づける」(321-322項)

と意味づけるものであり、再び、満月の例を借りるならば、
そうではない「背景」からくっきりとその即自というものを浮かび上がらせることが「超越的な規定」(329項)であり、俗な言葉に言い変えながら、(私=宗田が)規定を続けるなら、自分というどこかからあると何ゆえか知らされている「私」という感覚を感じ取り、それに接近を試みようとするのが、この「超越」ということであり、「ただ単に、存在をそこに存するようにさせる(=認識)」(328項)をより鮮明にすることと言える。
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実存主義の形態 :松山情報発見庫#345

2005-12-03 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
実存主義とは何か

人文書院

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サルトル自身
「実存主義に対する批判」(35項)として、
実存主義がこの文章が1945年に書かれた時点で、

「実存主義においてはあらゆる解決の道がとざされているか、地上における行動は全面的に不可能と考えねばならず、それゆえに、実存主義は人々を絶望的静寂主義へと誘うものであり、究極においては一種の静観哲学に帰着する」(同)

であるとか、

「人間の低劣さを強調し、いたるところに醜悪なもの、曖昧なもの、粘液的なものを指摘し、明瞭ないくつかの美しさ、人間の本性が持つ明るい面をおろそかにしている」(同)

という批判があるというように感じているようだ。
これは、この書物の冒頭で、「1945年の実存主義」という題名で海老坂武氏が、論じている中で、当時の実存主義のイメージをその「実存主義」という語源の、

「パリのサンジェルマン・デ・プレ界隈にたむろしている若者で、彼らはこの界隈にある安ホテルに転々と渡り歩いている。ホテル代は踏み倒すのでついに泊まるホテルがなくなるが、するとバーやキャバレにいって夜を明かし、トイレに落書きを書きなぐる。男は髪の毛をもじゃもじゃにしているか、前額にはらっと長髪を垂らせている。ワイシャツは夏も冬もおへそのところまで開いている。女は髪の毛が長く肩までかかっていて、お化粧はまったくしていない。そしてポケットにはいつもネズミを飼っている。女も男も好みの色は黒で、いつも黒い服、黒いシャツを来ている・・・」(2-3項)

と述べ、サルトル自身、

「料金をふみたおすことこそなかったが、サンジェルマン・デ・プレでホテル住まいをし、朝から晩までこの界隈にあるル・フロールで仕事をし、時には周囲に若者を集めて議論をする、といった生活をして」(6項)

おり、「サンジェルマン・デ・プレの法王」(同)ともいわれていたようである。
加えて、彼の『嘔吐』のなかにて、ロカンタンという形でその実存主義的な青年像を提示している。(これは、人生の孤独,孤独と実存、嘔吐の概念を参照のこと)
先の海老坂氏も、

「人間に本せいはなく、あらかじめ定められた本質はない、人間は偶然的に、不条理に、無償に実存する、そうであるがゆえに、人間は自由であり、主体性を確保できる・・・・・・実存を自由の根拠にするこのような視点は、『嘔吐』のなかにないわけではないが、これが強く押し出されたのは、『存在と無』と『実存主義とは何か』においてである。」(12項)

というように、サルトル自身、ただそこにある異様で不気味な「静観哲学」として、その人間の存在をとらえていたのであろう。(もちろん本人はそのことを認めてはいないが)
これまでも幾度か述べてきたように、そのような「静観」的な実存への呪縛からの開放がサルトルの戦争経験などを経て、

「人間はまず存在するのであり、そうして後ははじめてあれかこれかで在る、ということに他ならない。一言で言えば、人間は自分自身の本質を自分で作り出さなければならない。世界の中に身を投じ、世界の中で苦しみ、戦いながら、人間は少しずつ自分を定義するのである。そして定義は、常に開かれたものとして留まる。この一戸の人間が何者で在るかは、彼の死に至るまではいささかも言えないし、人類の何たるかは、人類の消滅まで言うことができない。(中略)実存主義とは、人間に永遠不変の本性を与えることを拒みつつ、人間の諸問題に取り組もうとするある種のやり方という以外の何物でもない。」(141項)

というように、世界との関わり、もしくは、アンガージュマンという概念の生成という中での実存という概念に発展させていったといえる。ここにいたり、ようやく、これまでわたしが表現してきた実存主義の二形態ということについて「静観哲学的実存主義」「アンガージュマン的実存主義」ともいうべき二つの実存主義の形態への命名が可能となったのである。


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