とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

原田マハ作『暗幕のゲルニカ』を読みました。

2020-08-11 09:48:15 | 読書
 原田マハさんの『暗幕のゲルニカ』を読みました。9.11のテロと第二次世界大戦中のピカソをオーバーラップさせ、戦争への抵抗の意志を描く作品です。美術への興味を高めてくれる素敵な本でした。

 この本を読みながら、2002年のことを思い出した居ました。私は2002年の2月に一人でニューヨークに生きました。2001年の9月11日に貿易センタービルへのテロがあったので、びくびくしながら行った記憶があります。飛行機も空いていて、定員の5分の1ぐらいしか乗っていませんでした。

 その時MoMaは改装中で、クイーンズに仮の美術館を作り展示を行っていました。すでにある施設を使うのではなく、プレハブのような施設でした。本当に「仮の美術館」という雰囲気です。しかしやっているのは「ピカソ・マティス展」です。施設の貧弱さは感じられるのですが、その中には現代アートの名作が並んでいるのです。不思議な感覚でした。

 ピカソがどういう人だったのか。人間をはるかに超えたカリスマ性を持ちながら、しかし人間的な姿がこの本の中で描かれています。芸術が社会の中で生まれ、社会の中で輝くのだというのがよくわかります。

 ピカソと、ピカソに関わる人々の心が芸術を生み出しているというのが感じられる本でした。楽しめました。

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『羊をめぐる冒険(下)』を読みました。

2020-07-29 19:19:01 | 読書
 『羊をめぐる冒険(下)』を読みました。現代の生み出した「巨大な力」が私たち人類を取り込もうとしています。その力と抵抗する小説だと私は読みました。

 現代は、(もしかしたら現代でなくともそうなのかもしれませんが)「巨大な力」が君臨しています。その「巨大な力」はある時は国家であったり、ある時は企業であったり、ある時はイデオロギーであったりします。

 アメリカや中国、ロシアなどは巨大な力を持ち、世界を支配しようとしています。グーグルやAmazon、マイクロソフトは情報を支配し、その巨大な力に抵抗するものはいません。資本主義や共産主義、あるいは民主主義は人々を魅了し、支配を続けます。

 人々は「巨大な力」の胡散臭さを感じながら、しかしそれに抵抗すればするほど自分が損をする気分になります。だから抵抗する気力は消えていき、いつの間にか取り込まれていきます。

 そんな「巨大な力」に「鼠」は命をかけて戦いをいどみます。しかしその命のかけ方は、静かに進んでいきます。それが巨大な力に対する正しい抵抗だからです。

 「鼠」は「巨大な力」の象徴とともに命を落とします。「鼠」にとって必要だったのは、その戦いを記録する人でした。それが「僕」です。

 「僕」は自分の無力さに絶望しながら、それでも記録を残します。それが「僕」の戦いです。ものを書くことはそういう命がけの戦いなのです。

 私は村上春樹の熱心な読者ではないので、他の人の読み方はしりません。しかし読書に「正しい」読みはありません。一人一人が各自の読み方をしながらそれが交差する世界が読書の世界です。私は今回は以上のような読み方をしました。次にどういう読み方をしているかが楽しみになる本でした。
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村上春樹作『羊をめぐる冒険(上)』を読みました。

2020-07-21 18:22:25 | 読書
村上春樹作『羊をめぐる冒険(上)』を読みました。

 村上春樹氏の『羊をめぐる冒険(上)』を読みました。私は村上春樹氏の「言葉」との格闘に感じました。

 『羊をめぐる冒険』は私が大学生のころ出版されました。大学生協に平積みで大々的に売られていたことを覚えています。『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』と三部作のように言われていますが、内容的なつながりはありますが、まったく違う世界だと感じました。不思議な冒険小説であり、当時はそんなにおもしろいとは思いませんでした。主人公の「やれやれ」がどうしても好きになれなかったのです。

 今回読み返してみて、少しこの作品に近づくことができるような気がしました。まだ上巻を読んだだけですが、言葉に対する不信と、言葉のない世界の恐怖、そして言葉を取り戻す挑戦のように感じたのです。共感できます。

 言葉に不信感を抱いている人間は、自分の思考にも不審をいだきます。自分の認識や存在にも不審を抱きます。その結果、生きている実感が得にくくなってしまいます。主人公はそういう存在のように思えます。

 そんな主人公は言葉を取り戻すために旅にでます。さあ、下巻を読みましょう。

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井上ひさし作『十二人の手紙』を読みました。

2020-06-27 13:23:12 | 読書


 井上ひさしの短編集『十二人の手紙』を読みました。作者の腕を見せつけられる短編の数々を堪能しました。しかもエピローグにはそれまでの短編で登場した、横のつながりのなかった人たちが一つの事件にからんできます。そのおしゃれな構成に楽しませてもらいました。

 私たちが小説を読むと普通その字面の意味を正直に受け取って今います。しかし近年、「ナラトロジー」の考え方が広まり、字面の意味の裏には、書き手や語り手の隠された本心があるという視点で読書することも増えてきました。面倒くさい読み方かもしれませんが、そのほうがその小説の本質を見ていると感じる場合もあります。

 『十二人の手紙』はそんな裏を読む読み方を読者は要求されます。「手紙」の裏には、文面とは全く違う書き手の意図があります。表面的な意味と隠された意味の差こそがこの本のおもしろさになっているのです。

 この文庫本は本屋さんに平積みにされていました。「まさに、どんでん返しの見本市だ」と帯がついています。これは読んでみたくなります。こんなふうに過去の忘れられた名作を再評価して紹介してくれる企画はとてもいい。せっかくだから本当におもしろい、読んでおくべき本を読みたい。本屋さんも努力しているんだなあと感心します。

 井上ひさしさんの作品は、本当に小さいころから、知らず知らずにたくさん接してきています。それを次回以降、書いてみたいと思います。
 
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『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 』を読みました。

2020-06-22 06:21:00 | 読書
 岩波科学ライブラリー、広瀬友紀著『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 』を読みました。余計な知識を持っていない子どもだからこそ見えてくる言葉の世界がある。子どもの言語習得の様子を見ているとさまざまなことが発見できる。そんなことを教えてくれる本でした。

 特に子どもが「死ぬ」を「死む」と間違えるケースが多いと言うことに興味を持ちました。筆者の説明では現代日本語でナ行で活用するのは「死ぬ」だけであり、子供たちはでナ行の語形変化の経験がない。そのために「死む」と発言してしまうとのことです。なるほど「目から鱗」です。

 そういえば私は子どものころ、「死ぬ」を「死ぐ」だと思っていました。これもそのひとつかもしれません。「死ぐ」はさまざまな方言にも残っています。この場合の「ぐ」は鼻濁音です。「ぬ」と「ぐ」は鼻音であるという意味で音声的な共通性があります。そのために混同してしまったのかもしれません。しかし現代はほぼ鼻濁音は死滅しました。だから「死ぐ」は消滅し、「死む」の誤用だけが残ったのではないでしょうか。

 関連してさらに考えたことがあります。古典文法でナ行変格活用の動詞は「死ぬ」と「去ぬ」です。「去ぬ」はいつのまにか「行く」に変化していきます。「行く」も東北方言では「行ぐ」であり、「ぐ」は鼻濁音です。「去ぬ」は「行く」に変化したが、「死ぬ」は生き残りました。それによって「死ぐ」とか「死む」などのように子供たちに御用されることになったのではないでしょうか。

 話がずれてしまいましたが、考えるヒントをたくさんいただいた本でした。

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