4月20日の「折々のことば」より。
自分の言葉に違和感を抱いているという君は、見込みがある。言葉に疑いを抱かないような人間の書く文章なんて碌(ろく)なもんじゃない (田村隆一)
言葉で輪郭をなぞらないとそれが存在することすらわからないのだけれど、言葉にしてしまうと何かを逸してしまった気がする。何かが零(こぼ)れ落ちたような、あるいは逆に何か余計なものを抱え込んだような。いつも過少か過剰。そんな不均衡というかちぐはぐが、言葉と感情のあいだにはある。詩人の人生相談集『ぼくの人生案内』から。(鷲田清一)
国語の授業では、教師はどうしても言葉は「自明」のものとして教えてしまうし、生徒は言葉を「自明」なものとしてとらえてしまう。「言葉」に対する疑いもないし、「言葉」に対する畏怖もない。だから「言葉」に対する敬意もない。
本来、「言葉に疑いを抱く」ことが国語教育の主たる目的の一つなのではないかと改めて考えさせられる「ことば」である。
自分の言葉に違和感を抱いているという君は、見込みがある。言葉に疑いを抱かないような人間の書く文章なんて碌(ろく)なもんじゃない (田村隆一)
言葉で輪郭をなぞらないとそれが存在することすらわからないのだけれど、言葉にしてしまうと何かを逸してしまった気がする。何かが零(こぼ)れ落ちたような、あるいは逆に何か余計なものを抱え込んだような。いつも過少か過剰。そんな不均衡というかちぐはぐが、言葉と感情のあいだにはある。詩人の人生相談集『ぼくの人生案内』から。(鷲田清一)
国語の授業では、教師はどうしても言葉は「自明」のものとして教えてしまうし、生徒は言葉を「自明」なものとしてとらえてしまう。「言葉」に対する疑いもないし、「言葉」に対する畏怖もない。だから「言葉」に対する敬意もない。
本来、「言葉に疑いを抱く」ことが国語教育の主たる目的の一つなのではないかと改めて考えさせられる「ことば」である。