残念ながらシンガポール大学付属NUS博物館のミャンマー陶磁展に行くことができず、不本意ながらパンフレットの内容を先に紹介した。気になる陶片が紹介されていた。再度その陶片を紹介する。
(カウミュー窯址出土陶片)
これは七光芒の日輪以外の何物でもなく、カベットの放射状の刻みは鎬状で何やら北タイ陶磁を思わせる。
写真は当該ブロガーのコレクションの1点であるが、数年前のネット・オークションから人伝えに入手したものである。南海堂・島津法樹氏の解説書付きで、氏はサンカンペーンと表記されていた。これは11光芒の日輪刻花文盤である。サンカンペーンは低くて幅細の僅かな高台をもっているが、本品の底に高台は無く、土味はMONに似ていることからシーサッチャナーライ前期のMON陶ではないかと、個人的には考えている。数年前チェンマイ国立博物館の一画にあるタイ芸術局第8支所のMr.Saiklangに写真持参で尋ねると、彼は10中8,9パヤオとの宣告である。
確かにパヤオにこの手の日輪文は多い。写真はサーヤン教授著作のCeramics in LANNAのPage118で、パヤオの文様を紹介している。
最下段左は8光芒、右は11光芒である。特にカウミューとサーヤン教授紹介のパヤオの文様は、光芒数は異なるものの極似している。過去にも紹介したが、パヤオがランナー朝の覇権下に入る前は、MON族世界であったことが濃厚である。
カウミュー窯 もMON族陶工の手になるものである。津田武徳氏は『ラオス、ミャンマー陶磁概説』で以下のように指摘しておられる。”パガン朝ビルマの王は、モンの文化に尊重の念を抱いていたし、モン人技術者を自らの文化を築くにあたって徴用した。パガンのパゴダに見られる低火度釉を施したタイルは、おそらくモン人陶工の手によるものであったろう。マルタバン壺を含め、下ビルマの陶磁器は、モン人により焼かれたものと考える。19世紀のイギリスの刊行物によれば「マルタバンやペグーの陶工は民族的には、すべてモン人であって、陶磁器生産に関する用語は、ほとんどモン人の言葉からきている。」”・・・という。う~ん、以下のトライアングルはMON族の関与が濃厚であろう。
北タイではMONのベースの上に、メンライ以降タイ族が陶磁生産に浸透したであろうとの仮説を考えている。それはラオスに残る『クン・プロム伝承』で伺い知ることができる。これは漢族から追われた、タイ族拡散の様子を表したものと思われ、ムアン・テーンに降下したクン・プロムを始祖とし、その7人の息子が散っていった先を示している。それは北西ベトナム、ラオス、北タイ、下ビルマに及ぶ広大な範囲でMON族を追い払い、或いは交じり合って拡散したであろう。
この手の話は伝承から来る推論で、未解明な部分の多い北タイ陶磁と相まって、多くの謎を秘めている。