世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

無錫の秋と蘇州・楓橋夜泊

2021-10-08 06:57:29 | 日記

若い頃から漢詩には、それなりの興味をもっていた。杜甫、李白、孟浩然、張継と云ったところか。

古い話しを持ち出して恐縮である。2005年11月6日(日)に上海・浦東空港に降りたつ、前方がもやって300m先が見えない。この状況は無錫に着くまで変らず、無錫では晴れているのに太陽も見えないほどひどかった。これはスモッグだけではなさそうで、大陸の気象かとも思い、後刻聞いてみると黄砂も飛んでいるという。

秋たけなわの江南に来ているが、街路樹の紅葉は目にしない。そういえば南宋の江南の秋を詠った詩は多くはないが、張継の楓橋夜泊という蘇州・寒山寺でよんだ詩がある。

楓橋夜泊  張継

 月落烏啼霜満天 (つきおちからすなきてしもてんにみつ)

 江風漁火対愁眠 (こうふうぎょかしゅうみんにたいす)

 姑蘇城外寒山寺 (こそじょうがいかんざんじ)

 夜半鐘声到客船 (やはんのしょうせいかくせんにいたる)

これは蘇州(古代姑蘇と呼んだ)の寒山寺にある楓橋から運河の情景を詠ったものであるが、深夜の情況がよまれている。楓橋とあるからには、楓の木々があったものと思われるが、その情景ではなく霜が降りる時間帯のことである。

何度も来錫するたびに、もやった情景に出会うが、どうも詩情がわかない。太湖の汚濁や工場の排煙を見ていると、自然現象としての靄(もや)であっても、そう思えない先入観のなせるわざであろう。今日このような感慨にひたろうとするならば、江南でも浙江省の杭州以南に行かなければ、無理かとも思われる。

(2006年5月蘇州・寒山時にて)

写真は寒山時にたつ張継の詩碑である。それは清末の光緒丙午年に建立されたものである。

上の写真は江村橋とあるが当時の楓橋ではないものの、当時このような橋が架っていたものと思われる。蛇足ながら、楓の植栽は目にすることができなかった。以上、古い話しを御覧頂きありがとうございました。

<了>