若い頃から漢詩には、それなりの興味をもっていた。杜甫、李白、孟浩然、張継と云ったところか。
古い話しを持ち出して恐縮である。2005年11月6日(日)に上海・浦東空港に降りたつ、前方がもやって300m先が見えない。この状況は無錫に着くまで変らず、無錫では晴れているのに太陽も見えないほどひどかった。これはスモッグだけではなさそうで、大陸の気象かとも思い、後刻聞いてみると黄砂も飛んでいるという。
秋たけなわの江南に来ているが、街路樹の紅葉は目にしない。そういえば南宋の江南の秋を詠った詩は多くはないが、張継の楓橋夜泊という蘇州・寒山寺でよんだ詩がある。
楓橋夜泊 張継
月落烏啼霜満天 (つきおちからすなきてしもてんにみつ)
江風漁火対愁眠 (こうふうぎょかしゅうみんにたいす)
姑蘇城外寒山寺 (こそじょうがいかんざんじ)
夜半鐘声到客船 (やはんのしょうせいかくせんにいたる)
これは蘇州(古代姑蘇と呼んだ)の寒山寺にある楓橋から運河の情景を詠ったものであるが、深夜の情況がよまれている。楓橋とあるからには、楓の木々があったものと思われるが、その情景ではなく霜が降りる時間帯のことである。
何度も来錫するたびに、もやった情景に出会うが、どうも詩情がわかない。太湖の汚濁や工場の排煙を見ていると、自然現象としての靄(もや)であっても、そう思えない先入観のなせるわざであろう。今日このような感慨にひたろうとするならば、江南でも浙江省の杭州以南に行かなければ、無理かとも思われる。
(2006年5月蘇州・寒山時にて)
写真は寒山時にたつ張継の詩碑である。それは清末の光緒丙午年に建立されたものである。
上の写真は江村橋とあるが当時の楓橋ではないものの、当時このような橋が架っていたものと思われる。蛇足ながら、楓の植栽は目にすることができなかった。以上、古い話しを御覧頂きありがとうございました。
<了>