〇騎馬民族国家・伽耶
13世紀成立の朝鮮史書『三国遺事・駕洛(から)国記』に「後漢の洪武帝の建武十八年、首露王が六伽耶の一つ大駕洛(また伽耶國と称す)を建てた」という記事が存在する。それによれば建国は、紀元後四十七年ということになる。13世紀成立の史書に紀元前後の記事であるので、信憑性に疑問がないわけではないが、ここでは史実としておく。
3世紀末の『魏志・烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)』は、韓の地には馬韓五十余國、辰韓および弁韓には各々十二ヶ国が会ったことを記すが、そこに伽耶の名はない。
414年の高句麗・好太王碑には、少なくとも類似の国名が記されていることから、伽耶の建国は4世紀頃と考えられている。5世紀には、南下してきた高句麗の騎馬軍団に対し倭国と連合して戦い、やがて6世紀に新羅に併合されて滅亡した。
4世紀の伽耶の遺跡から倭国産の巴形銅器が出土することから、古代日本と近い関係にあったと考えられる。金銅製宝冠、環頭太刀の出土から、4世紀末から5世紀にかけて伽耶の地には、宗教的権威者(シャーマン)が政治的最高権威者をかねた王国が存在していたと韓国の学者が指摘する。
(金海国立博物館にて)
(金海出土の環頭太刀 金海国立博物館にて)
金海大成洞遺跡の発掘調査成果が契機となって知り得たことは、北方系遊牧民族の習俗と文物、すなわち人と馬の殉葬、武器を折り曲げて墳墓に副葬する習俗、蒙古鉢形冑や桂甲といった騎馬用甲冑、馬冑、北方式銅鍑、青銅製虎形帯鉤などの文物を持った北方系木槨墓が3世紀末に金海地方に突然出現し、首長墓をはじめとするそれ以前の墳墓を意図的に破壊するといった現象が、金海において確認できる。この北方墓制・文物が登場する以前を狗耶韓国、以後を金官伽耶とする。しかし、留意しておくべきは、北方の木槨墓は地下構造に対し、金海のそれは墳丘上部に配置されている。この変化は高句麗・雲坪里でみることができるが、どのようにして発生したのかとの課題を持つ。
(大成洞古墳資料館展示の北方系木槨墓のジオラマ)
前述の3世紀末に金海に突然出現した騎馬習俗の支配集団は5世紀前葉に突然金海(伽耶)から消え去っている。大きな謎である。
<続く>