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〇4世紀に騎馬民族征服王朝が存在する条件
高句麗が鴨緑江を越えて朝鮮半島北部に入った4世紀に、江上波夫氏が唱える騎馬民族征服王朝が倭国に実在したのであれば、大和、少なくとも北部九州に騎馬民族が到達していなければならない。そのためには、高句麗が鴨緑江を越えて朝鮮半島に入る前に、移動を始めた騎馬民族が存在する必要がある。
その存在を示す可能性が、慈江道の積石塚古墳群である。雲坪里の北に渭原(いげん)がある。1927年に明刀銭をはじめ中国・戦国時代の鉄器や櫛目文土器がまとまって出土した遺跡があるので、慈江道になんらかの大きな勢力がいたと考えられる。櫛目文土器は、主に狩猟や漁撈の生活を基盤とする人たちが創出したもので、シベリアから内蒙古、遼東半島そして朝鮮半島にかけて分布する。そして明刀銭は春秋戦国時代中国東北部、いまの河北省にあった燕國の通貨で、この貨幣が出土したことは紀元前すでに燕國と交流があり、その鉄器文化が入っていたことを示している。
慈江道の積石塚は、歴代の中国王朝の墓制に存在せず、騎馬民族独特のものである。積石塚として知られているのは、南シベリアのパジリク古墳群(前3世紀頃)、北モンゴルのノイン・ウラ古墳群(下限は後1世紀)、オラン・オーシング古墳、そして鴨緑江河畔で、いずれも騎馬民族の墳墓である。
(前方後円形積石塚・慈江道楚山郡雲坪里 『騎馬民族の道はるか』NHK出版より)
(オランオーシング遺跡:四隅突出墳丘墓の源流か?)
時代は下り4世紀頃(江上氏が倭国に騎馬民族が征服王朝を樹立したとする頃)、日本でも積石塚が約1500基も発見されている。弥生中期後葉の四隅突出墳丘墓の突出部及び墳裾の配石列と、その上方斜面の貼石は積石塚の変形であろう。
(四隅突出墳丘墓:出雲市西谷墳丘墓群)
慈江道蓮舞里の積石塚は四隅がはっきりと出ている墳丘が存在するという。雲坪里のそれは、それ程でもないと云うが、現地を訪れた森浩一氏は、『墳丘の裾を強調しようとした意図がハッキリわかる』と指摘しておられる。同様に雲坪里第四地区六号墳は、前方後円墳であろうと指摘されている。
これらの影響と思われる古墳時代前期の積石塚が、先述のように約1500基発見されているが、四国・高松の石清尾山(いわせおやま)前方後円墳群(ここでは石船塚古墳を紹介しておく)である。4世紀末の大阪・柏原市の茶臼山古墳もそうである。古墳時代前期に大和王権のシンボルとも云える前方後円形の積石塚が出現し、古代豪族の支配地である河内に、高句麗で見る積石塚が築かれている。
(香川・岩船塚古墳)
以上のように墓制に関する条件は少なくとも確保されているように思われる。しかし、古墳時代前期のそれらの古墳から出土する遺物は、騎馬民族との関係は薄いようである。
<続く>
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