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春と秋に去来する神

2020-11-21 06:49:15 | 日本文化の源流

――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― シリーズ(5)

 

日本では山ノ神は、春には田に降って田ノ神となり、冬は山に戻って山ノ神になると云われている。柳田国男氏は、この神の去来の背景に、祖霊信仰が存在するという。つまり、稲作民にとっての山ノ神、田ノ神は祖霊の分身と云うことになる。

(出雲国八重垣神社境内の山ノ神)

我が国への稲作文化をもたらした江南の少数民族による神の去来型は春分・秋分の周期型であったと荻原秀三郎氏は推測しておられる。以下、氏の著述である。

“春分と秋分の日にもっとも近い戊(つちのえ)の日を社日という。これまでの民俗学では、山ノ神、田ノ神の去来を我が国固有の信仰としてとらえ、社日信仰は後から中国から伝来した信仰とし、両者は同じ農事暦として関連しあい、田ノ神がやがて社日の地神にすり替わった。”・・・としておられる。果たしてどうか?

(出雲国鳥屋神社境内の社日塔)

“唐代にはすでに社神(土地神)が田ノ神としての性格を示していたが、くだって北宋では明らかに『田ノ神』と呼んでいると、中村喬氏はその著作で記している。中国の田ノ神は稲作との結びつきが先行していたと考えられ、それが我が国に導入されたのは、稲作の伝来と同時期と考えられる。我が国の田ノ神信仰の淵源をたどれば、中国の社神(社稷・土地神)に行きついて不思議はない。”

さらに以下のようにも記されている。“融水苗族自治県では春社と秋社を祀る。秋社では牛を贄にして社を祀る。社の祭りの日どりについては、春分・秋分に近い時期を祭日に選ぶ。唐代には、この社神が田ノ神としての性格を示していた。中国では、土地神以前に社の祭神として田ノ神が誕生していた。ただし中国の田ノ神は、畑作、稲作共通の農耕守護神である。しかし社の起源そのものは、もともと稲作文化複合としてのチガヤ信仰にある。中国の田ノ神は稲作との結びつきが先行していたと考えられるのである。そこに我が国に社の祭りが導入されたのは、稲作の伝来と同時期と考えられる。我が国の田ノ神信仰の淵源をたどれば、中国の社の祭りに行きついて不思議はない。“

融水県雨卜村の秋社、田んぼの一角に祠を設け豊作に感謝する人の様子が写真掲載されている。北タイの稲作儀礼とよく似ている印象を受けた。

(出典:荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』より)

これに関して蛇足を一つ。前述の事柄は稲作儀礼(祭事)について述べられていることがらであるが、北タイにも日本に似た稲作儀礼が存在する。岩田慶治氏はその著作①で、北タイでは無数の精霊(ピー)が飛び交っているが、それは3つの軸に統合されていると記されている。一つは祖霊、先祖のカミであり、二つ目は土地の主、土地神であり、三つめが稲魂(タイ・ルー族は稲魂をメー・トーラニーと呼ぶ)である。そのタイ・ルー族は稲刈りにさいして、最初に初田の稲束を刈って、小祠にそなえた後これを米倉に持ち帰って梁に吊り下げておく。この初穂の籾を翌年の種籾に混ぜて使用するという。これは稲魂の祀りに他ならない。またタイ・ヤーイ(シャン)族は、田の中央にたてた竹竿に一束の初穂を掲げ、稲魂を祀るという。

(岩田慶治著『日本文化のふるさと』より模写)

我が出雲では出雲大社の古伝新嘗祭(しんじょうさい・にいなめさい)が執行されている。担い棒の前後に稲束と瓶子を、別火姿の禰宜が担いで立つ儀礼が行われている。この祭事を稲魂(穀霊)を祀る古い儀礼であるという。ココ参照。

松江市秋鹿町では『おもっつぁん』と呼ぶ稲魂を祀る祭りが行われている。それは大餅を葛でからみ、これを堂内に高く掲げて籠らせる。その餅に牛王宝印や御幣をつけたりする。そして畳をバタバタと打つ。これは稲魂の儀礼であり、餅は稲魂の依代である。

(おもっつぁん:出典・県教育委員会)

田ノ神のことから話題がそれたが、稲魂を祀る儀礼は『春と秋に去来する神』に繋がることより、書き加えた。

注)① 岩田慶治著『日本文化のふるさと』

<シリーズ(5)了>

 


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