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特集:北タイ陶磁からみた中世ランナー文化

2025-01-23 09:13:11 | 北タイ陶磁

今回から数次に渡り『北タイ陶磁からみたランナー文化』とのテーマで、コンムアン(北タイ人)に息衝く精神世界にせまってみたいと考えている。

1月初旬のチェンマイは、サクラムアンタイと呼ぶヒマラヤ桜が満開である。20日をすぎた今日はどうであろうか。今日北タイはベストシーズンである。これからチェンマイを訪れられる方々に、コンムアンの精神世界を覗いていただければ、旅も感慨深いものになろうかと考えている。

第1章:発掘の喧騒

1.ドラマの幕開け

雲南に存在した南詔王国は、タイ族国家ではなくチベット・ビルマ語族の国家であるとの説が定説となっているが、伝承によるとタイ族の南詔王国の王子が十万の人民を伴って南に下り、タイ北部チェンセーン地方の最北メーサイに至ったとされている。そしてメコン河畔にタイ族の国・チェンセーン王国を興したのは773年であると云う。

チェンセーン王国廃都に建つワット・チャンパーサック  出典・Wiki Pedia

この伝承から、この頃すでに雲南を越えて、メコン川の上流域から南へ下る川や陸の交易路が開かれていて、南下する移動民の受け入れ基盤もすでに存在していたであろう。

メンライ王廟のメンライ王像 ウィアンクムカームにて

中央がメンライ王像・チェンマイ旧市役所前

チェンセーン王国は、その後都をさらに南へ下ったチェンライに移し、13世紀末には更に南のチェンマイを都とし、メンライ王による統一国家ランナータイへと発展した。その結果として、北タイ各地に窯業の基盤が整うこととなった。

2.タノン・トンチャイからオムコイへ

1970年代、タノン・トンチャイ山脈中のメーソトからウンパンへの道路建設中に、偶然にも多量の古陶磁や種々の遺物が発見された。それらは山の掘削現場や山裾で見ることができた。山岳民族により収集されたそれらの遺物は、市場でタダ同然で売られていたが、噂を聞きつけた古美術収集家に高値で買取されたことから、彼らは容易に売却しなくなった。それらの遺物が突然バンコク、スコータイ、チェンマイ、アユタヤのアンティーク・ショップに顔を出し始めたのである。

タノン・トンチャイ山脈の発掘現場は、峰の頂や山腹、さらに北の峰々へ、また山間の渓谷へと連鎖的に展開してゆき、1987年頃まで続いた。主な遺跡はウンパン、ポップラー、メーラマト、ターソンヤンの各地である。その多くが墳墓であったことを考えると、タノン・トンチャイ山脈は周辺の実力者たちにとって、聖なる終焉の地であった。

墳墓を抱くオムコイの峰々

これらの発掘の喧騒は、北端としてのオムコイ山中に及んだ。一度は発掘現場を実見したく、10年前にオムコイ深南部に足を運んだ。深南部のBan Mae Tuen、そこの河谷にはMae Tuen川が南流し、南接するターク県で北流し、ピン川と合流する。その人里離れた山岳地帯の尾根筋にある埋葬地は、謎に包まれている。

オムコイの発掘址

出土品

オムコイ山中発掘現場 発掘時の様子

それはヒンズー教や大乗仏教の天上界を連想させ、魂の昇天を祈り、生まれ変わりのために天上界に近い尾根や山頂を選んだ、素朴な結果であったと思われる。

最終的に発掘は、北のオムコイから南のウンパン南郊まで、距離にして87kmにも及んだ。その広い地域で共通するのは、古陶磁や種々の遺物が墓跡から出土したことである。その墓は25-30mほどの外径をもつ小さなマウンドで地下1.5~2.0m程のところに大壷があり、その中に人骨と骨灰が入っていた。それらの壷はマルタバンジャーであったり、シーサッチャナーライ製の大壷であった。それらの壷の下から古陶磁や鉄刀、陶製パイプ、銀貨、指輪などが出土した。

これらの大壷に埋納されていた サンカローク焼博物館61番窯にて

オムコイの墳墓址からはランナー朝のサドル銀貨が出土した

その中で古陶磁は、タークからメーソトにかけては、スコータイやシーサッチャナーライ製の比率が多く、北のオムコイに行くにつれて北タイ陶磁の比率が多くなっていった。

カロン鉄絵双魚文盤

サンカンペーン印花双魚文盤

サンカンペーン鉄絵双魚文盤

その北タイ陶磁には多くの魚文が描かれていた、その多くの魚文は際立った北タイ陶磁の一面となっている。

<続く>

 



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