<続く>
弥生時代から古墳時代へと降るにつれて、鳥肖形の意味合いが変化しているように感じられる。『鳥が載る家形埴輪』のみならず埴輪そのものは、古墳に並べられていた。つまり墳墓であり、死と葬送に関わる器物であると考えるのが妥当であろう。あるいは死生観を現したものであろうか。
他界とは、古代において人が死亡した時、その魂が行く場所(霊界・冥界)で霊魂が彷徨って浮遊しないよう葬送儀礼により送り出したのである。つまり葬送儀礼とは、現世と他界との橋渡しであった。古代における他界は山上他界、海上他界、地中他界、天上他界があったかと思われる。
筑後川左岸の珍敷塚古墳には彩色壁画が残っている。壁画の主文様は3個の巨大な靫(ゆぎ)であるが、壁画の左手には同心円文(日輪と思われる)と櫂を漕ぐ人物、帆柱を立てたゴンドラ風の船が描かれ舳先には鳥が止まっている。一般的に喧伝されているのは記紀から引用した、死者の魂を鳥が霊界に送る『天の鳥舟』だとしている。海上遥か先に送るかと思いきや『天の鳥舟』なれば天上他界説である。
同志社大学准教授・張莉氏の論文によれば、魏志東夷伝辰韓条に以下の一文があるという。『嫁娶禮俗男女有別 以大鳥羽送死其意欲使死者飛揚』婚礼や礼儀、風俗に男女の区別がある。大鳥の羽を使って死者を送る。死者を高く飛揚するように望んでそうする・・・とある。死者の魂が天に昇るというのは、北方系の発想である。
日本武尊(倭建命)(生年不詳ー景行天皇43年)は、伊吹の神と対決したが、神が降らした大氷雨が原因で落命した。その地は能煩野と云われている。死後、日本武尊は八尋白智鳥(白鳥)となって天に飛翔したと云う。これは日本武尊の魂が白鳥により天上他界に運ばれたことになる。
日本武尊を遡る伊邪那岐・伊邪那美の説話によると、伊邪那岐は伊邪那美を追って黄泉國に入ったという。古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを黄泉と呼んだ。始皇帝陵はその最たるものである。先にも記したが死者が天に昇るというのは北方系の考え方で、南方では地下の黄泉國へ行く。古代日本の政権の主というか、当時の社会的な思想が南方系から北方系に変化した様子が読み取れる。つまり弥生期と古墳時代の初期段階までは、南方系の祭政権であったが、古墳時代の中期(4世紀末ー5世紀末)以降北方系の首長に交代したかの印象である。
先に魏志東夷伝辰韓条の故事を紹介したが、ここでの鳥の役割は、死者の霊魂を天上に運ぶことにあった。時代は4世紀-5世紀の三国時代・伽耶と時代は若干降るものの、墳墓に副葬された鴨形土器が出土している。明らかに明器として副葬されたものである。日本武尊の白鳥伝承の例えのように、死者の霊魂を天上世界に運んでもらうことを願ってのことであろう。
このような鳥形の土器というか埴輪は、日本各地の埴輪から出土する。ということで珍しくもなんともないが、ここでは伊吹山に近い安土城考古博物館展示の鳥形埴輪を紹介しておく。
先の三国時代・伽耶の鴨形土器も、上掲鳥形埴輪も水鳥である。日本武尊の霊魂を運んだのも白鳥である。
この鳥の肖形は、時代が下る古墳時代後期の須恵器にも存在する。写真はみよし風土記の丘ミユージアムの展示品で鳥付子持装飾台付壺である。その解説ボードの写真も掲げておく。
解説ボードによれば、鳥は死者の霊魂を運んだり、神意を人々に伝えた・・・と記されている。
ところで鳥形埴輪は2つの種類が存在する。
鶏形埴輪の出現:古墳時代前期 (3世紀後半ー4世紀後半)
水鳥形埴輪の出現:古墳時代中期 (4世紀末ー5世紀末)
・・・である。
つまり同じ鳥形埴輪でも古墳時代前期は鶏であった。さきに鶏は時告(ときつげ)鳥として、時の権力者に重要視されたと記したが、このように鳥形埴輪でも2種類存在したのである。安土城考古博物館展示の鶏型埴輪を下に紹介しておく。
残念乍ら完品ではない。当該ブロガーには実見経験はないが完品を紹介しておく。
(現品:東京国立博物館)
何と類まれな造形能力で写実性に溢れているであろうか(噺は飛ぶが、4世紀の纏向坂田遺跡出土とある。別に紹介している新羅土偶の稚拙さと比較し格段の差を感ずる。埴輪の造形集団は本当に渡来系であろうか、主題とは別のことながら疑問に感ずる)。
この鶏形埴輪と水鳥形埴輪では意味合いが異なり、鶏形埴輪は権力者としての象徴、水鳥形埴輪は死者の霊魂を運ぶ願いで古墳に置かれたと考えられる。
本題にせまるアプローチが如何にも冗長であった。『鳥が載る家形埴輪』は何であろうか。種々検索するが検索能力が低く、これだとの文献に巡り合わない。
奈良・佐味田宝塚古墳(古墳時代前期)出土の家屋文鏡を注視すると、蓋(きぬがさ)が掲げられた(図中青丸)建物をみる。これは首長ないしは国王クラスの建物で、そこに鳥もとまっていることからすると、この鳥は権力者の象徴としての『時の管理』、更には森羅万象を司る者として、天帝から指名されたことを民衆に知らしめる役目をもったものであろう・・・と考えている。
一応、結論らしきことを述べたが、これに関する学論を知らない。今後継続して調査したいと考えているが、御覧の各位の意見を頂ければ幸いである。
<了>
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