魏志倭人伝記載の倭人記事は、北方的な要素は僅かで南方的要素が多い。このことからも、倭人の祖先は朝鮮半島渡来の民ではなく、縄文人と江南の呉越の民により構成されたものと考えて間違いなかろう。
先ず、魏志東夷伝から韓伝・倭人伝の風俗・風習記事を比較してみる。次の比較表を御覧頂きたい。南方的要素と思われるものに薄橙々色を、北方的要素と思われるものに薄青色で網掛けした。御覧頂くと倭人伝記載の倭人の風俗は、韓伝記載の国々に対し、南方的であることが分かる。
これらをみていると、日本文化の源流は朝鮮半島を南下してきたものであるとの、一部識者の認識とは無縁のものであろう。確かに古墳時代から飛鳥・奈良時代の帰化人がもたらした渡来文化を否定するものではない。その影響が日本文化の形成に役立ったと云えるが、その基層をなすのは弥生時代の風習・風俗であったと考えている。多くの根源的要素は弥生時代のそれであったと認識している。
以下、比較表に記載した風習・風俗を含め主要な事柄について、詳細をみていくことにする。
- 倭人伝記載の服装
それは北方の採集狩猟的な文化と繋がる可能性は低く、農耕と共に弥生時代初期ないしは縄文時代晩期に中国の中・南部から伝播したと考えられる。貫頭衣は、現在の雲南から北タイの少数民族の衣装でもある。このような服装では、北方の寒さに耐えられない。魏志韓伝では、馬韓の人びとは綿入れを着用していたと記載されている。
(北タイ・ラワ族の貫頭衣:チェンマイ山岳民族博物館にて)
- 倭人の生活様式
比較表をみて分かるように、倭人の生活様式に関する記事の多くは、江南(揚子江南部)から東南アジアに類似した事例を持っている。著者・陳寿は「有無する所、儋耳朱崖(海南島)と同じ。」と記し、そこと倭人の文化(風俗・習俗)の類似性を述べている。【これについては、種々の議論が内在している。陳寿自身が倭国に来たわけではなく、かつ海南島へ行ったかどうかも疑わしい。これらの記事は伝聞から記載したと思われるが信憑性はともかく、当時の人びとはそのように認識していたことは確かである。】
- 刺青の習俗
その習俗は、江南からラオス・タイに至る地域に連続的に分布している。
しかし、それに先立つ縄文時代にも刺青は存在していたようだ。縄文土偶は『鯨面土偶』のようにみえる。顔面には点刻や線刻のように見える装飾がある。身体は女性の特徴が造形されているので、土偶の多くは女性であろう。しかし、そのような特徴をもたない鯨面土偶も存在するようだ。この土偶の分布は、東北や関東など東に偏っている。要するに中部から東に多いが、近畿以西には縄文中期や後期の土偶は稀である。晩期にも近畿以西には土偶が少ないが、九州では後期後半から晩期初頭に存在する。このような状況から、縄文時代にも文身は存在した可能性が高く、分布の状況からアイヌを含む北方民族の影響が考えられる。九州に出現する縄文後期後半からの土偶は、縄文人が東日本から九州へ西進した証であろう・・・と云うことで、縄文時代にも鯨面文身は存在し、それは北方系の影響であったと考えられる。
しからば何故鯨面文身を南方系としたかと云うことに触れておく。魏志倭人伝は次のように記載する。“男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東”・・・にあるように、倭人は鯨面文身して、好んで沈没して魚蛤を捕らえ云々と記す。作者・陳寿は、倭人は呉越の民と同じ風俗ととらえている。この記述をもって倭人の刺青は、南方系と認識する次第である。
当該刺青に関しては冗長な文章表現をしたが、以下更に蛇足ながら果たして沈没して魚蛤を捕えたのか。写真は鳥取・青谷上寺地遺跡出土の鹿角製『鮑おこし』である。これと同様な鯨骨製の鮑おこしが壱岐・カラカミ遺跡から出土している。西日本では潜水漁が弥生期存在していた証である。
- 倭人は長弓を用いていた
倭人伝は「木弓は下を短くし上を長くし【これは長弓を表す】、竹箭は或は鉄鏃、或いは骨鏃なり、有無する所は、儋耳朱崖(海南島)と同じ。」と記している。つまり海南島は長弓で倭人が用いる長弓と同じであると云っている。
下の写真は、奈良・唐子鍵遺跡(倭人伝と同時代)出土の弥生時代の長弓で、復元推定長さ2.0~2.3mと云われている。このような長弓の分布は江南の呉越からインドシナ半島東部、フィリピン諸島、インドネシア諸島に分布している。その一例として浙江省杭州市の跨湖橋遺蹟(新石器時代)の漆塗の丸木弓である。太平洋諸島の長大弓の祖型と考えられている。つまり倭人が用いる弓は長弓で、決して朝鮮半島の短弓ではなかった。
(唐古鍵遺跡出土長弓:田原本町HPより)
(跨湖橋遺蹟HPより)
- 倭人は土を封りて冢を作る
倭人伝には「其の死するや、棺ありて槨なく、土を封りて冢を作る」と記す。これは呉越の土墩墓と同じである。
- 食飲用籩豆手食
籩豆(へんとう)とは高坏のこと、高坏に食べ物を盛り、手づかみでそれを食すと記している。これは東南アジア北部に現在も残る風習である。
- 居処宮室楼観
卑弥呼は宮室に居たと倭人伝は記す。宮室と云うからには、その建物は宮殿であったことになる。考古学の成果を援用すれば、それは高床式宮殿ということになる。呉越の故地である江南の河姆渡(かぼと・かもと)遺跡では高床式建物が存在していた。この高床式建物は、揚子江の延長線上に日本と雲南・東南アジアに認められる。雲南の滇池の畔・石寨山遺跡(前202年~後220年)から出土した貯貝器(ちょばいき)には干欄(かんらん)式建築が表現されている。そこには千木と鰹木を見ることができ、屋根の形は逆台形で、当然ながら高床式建築である。どうやらこの形式が、卑弥呼の時代の宮殿であった可能性が高い。
(石寨山遺跡出土貯貝器:人民中国HPより)
- 朱丹を以て其の身体に塗る
大林太良氏によれば、これは東南アジアの風俗だと、その著作に記されているが出典がハッキリしない。氏自身が東南アジアで現認されたのか、何かの著述からの引用なのか良く分からない。尚、当該ブロガーは、刺青は見たが身体に朱丹を塗った人物を見た事例はない。
以上、魏志東夷伝の倭人伝・韓伝の風俗・風習を中心にレビューした。そこには南方的要素が多く、半島の影響は認めがたい結果となった。
このような比較から安本美典氏によると、日本語祖語はビルマ系諸語、インドネシア系諸語、クメール系言法などの影響が認められる・・・と記されている。このうちビルマ系諸語は、揚子江上流およびその延長上に分布する。かつては揚子江下流域にも存在したであろうとも記されている。さらにインドネシア系諸語は、かつて中国南部に存在していたとみられ、現在でもインドネシア系諸語の一つであるチャム語は、ベトナム奥地やカンボジアに存在するとして、これらに古アイヌ語、古朝鮮語系のなかから北部九州辺りで日本語祖語が誕生したであろうと、その著作に記されている。
(安本美典氏の著籍から作図)
縄文人と大陸、それも呉越の地から渡来した人々が弥生人を形成したとすれば、当然ながらその会話・言語は、上述の結論に至っても何ら不思議ではない。なるほど文法的には朝鮮語に類似しているが、古様を示す身体語や数詞には南方の匂いがする。
以上、魏志によると日本人は呉越から南の人びとの習俗・風習を伝えているとの話であった。
<了>
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