先ず魏志東夷伝馬韓条の一節から話を始める。その一節は、『以五月下種訖祭鬼神 群聚歌舞飲酒晝夜無休 其舞数十人倶起相随踏地低昂手足相應 節奏有似鐸舞 十月農功畢亦復如之』 ・・・である。
意訳すると、「五月に種まきが終わると鬼神を祭る。群衆は歌って舞い、酒を飲み、昼夜休まない。その舞いは、数十人がいっしょに立ち、円形に一列になって地を踏む。手を下げたり上げたりし、足もそれに合わせてうごく。節回しは(中国、漢の)鐸舞に似たところがある。十月に収穫が終わるとまたこのようなことを繰り返す。」・・・となる。述べられていることは稲作を行うにあたっての一連の稲作儀礼を記している。その稲作の神が鬼神だと云う。
これに関連して、魏書東夷伝高句麗条は以下のように記す。『本涓奴部、本國主。今雖不爲王、適統大人、得稱古雛加。亦得立宗廟、祠靈星亦社稷。』 これを意訳すると、涓奴部(けんなぶ)の大人はかつて国王となっていた。今は王ではないものの、直系の大人は古雛加(こうすか)①と称することができる。また(王と同様に)宗廟をたて、霊星・社稷を祀ることができる・・・と云うことになる。
これらを要約すると、朝鮮半島で云う鬼神とは宗廟であり、宗廟とは先祖の魂、つまり祖霊を祀るところ。農業の神である霊星、土地の神の社稷のほかに鬼神を祀るのが宗廟である。従って鬼神は祖霊神となる。(これに対し、歴史学者の田中俊明氏は、鬼神とは、鬼は陰の神、神は陽の神をいう。また死んだ人の霊魂や神秘的な霊的存在をいう。霊星とは本来星の名で、天田星とも云い稼穡(かしょく)をつかさどる農業神とされる。社稷とは、社が土地神、稷が穀物神であわせて農業神である・・・と、説明しておられる。)
これに関連し、『周書』②は、唐代の正史であるが、高句麗についての記述には、高句麗では男女二柱の木像神を作って祀っていると書かれている。更に『北史』③には、二柱の神は高句麗の祖先にあたる河の神の娘と、その子の朱蒙だと考えられると記している。そうすると、この鬼神は男女二柱の神(これは韓国で今日云う長柱(チャンスン)にほかならない)のようで、その木像を作ったことになる。この鬼神が稲作農耕の祭りの中心になっている。つまり、農耕の神は先祖の魂で、祖霊神だということになる。
(唐津・呼子の佐賀県立名護屋城博物館展示のチャンスン、チャンスンは鬼神で祖霊神だと云う)
以下、余談である。魏志東夷伝倭人条は、卑弥呼は鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わすとある。
読下すと、“倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わし、年己(すで)に長大なるも夫壻なく、男弟あり佐(たす)けて国を治む”・・・となる。
この卑弥呼の鬼道について、歴史学者の多くは、道教や陰陽道の代物であるとの見解をしめしているが、既に示したように東夷伝高句麗条や馬韓条の記載内容を鑑みれば、祖霊神を祀る主たる司祭者以外に考えられず、アニミズムを奉ずる司祭王と云うことになる。
話しが横道に反れてしまったので元に戻す。ここで鬼神を祀るのは宗廟で、鬼神はすなわち祖霊神となることについては先述したが、その宗廟についてである。東夷伝馬韓条は以下のように記している。“又諸國各有別邑 名之為蘇塗 立大木縣鈴鼓事鬼神”・・・ 馬韓内諸国には別邑が在り、それを名づけて蘇塗(そと)と云う。大木を立て、鈴や鼓を懸けて鬼神に仕える・・・と云うことになる。以上を要約すると鬼神は蘇塗なる聖なる場所で祀ると云う。そこは宗廟でもあったことになる。そこで蘇塗とは、ソッテ(鳥杆)、中国東北部でソモ(索莫)と呼び、竿の先端に木製の鳥をつけたもので、鳥は穀霊を運ぶとされる。説明が長きに失したが、鬼神を祀るのは蘇塗・ソッテが立ち並ぶ処で、鳥が穀霊を運ぶ場所で、そこに男女二柱の木像神つまり『長柱(チャンスン)』があったことになる。
(ソッテ・鳥竿の下にチャンスンが並ぶ、韓国では見慣れた光景 在ソウル国立民俗博物館にて 全羅北道南原市山内面のチャンスンとソッテ(ココ参照))
中国淮陰県高圧の戦国墓から出土した銅器の文様として、蘇塗と同じように立ち並ぶ木の上に鳥がとまっている様子が表現されているという。それが朝鮮半島に伝わり、日本にも伝播したかと思われる。
弥生時代の人々は、蘇塗と呼ぶかどうかは別として、鳥竿や木彫りの鳥に見守られる中で儀礼・儀式を行い、その儀式は鳥装して神を迎えたであろう。つまり、渡り鳥が飛んできて、穀霊を持ってきてくれる。そして、それを鳥の恰好をしたシャーマンが迎えて祀りをするとの・・・イメージが浮かんでくる。
(写真は、大阪府弥生文化博物館展示・弥生時代の木製鳥形肖形である。見ると竿を刺す角孔が開いている。左端の鳥肖形は、羽を取り付ける溝が刻まれている。稲作儀礼の場に立てかけたものと思われる)
(岡山・新庄尾上遺跡出土の弥生土器に刻まれた、嘴をもつ鳥装のシャーマン)
(羽を持つ鳥装のシャーマン 橿原市博物館にて)
(鳥装のシャーマンとお告げを聞く人 橿考研博物館にて)
(鳥装のシャーマン 上掲線刻絵画土器より作成されたフィギア 唐古鍵ミュージアムにて)
(鳥装のシャーマンからお告げを聞く人 橿考研付属博物館にて)
このことは、中国深南部や東南アジア山岳部の少数民族の習俗にもうかがうことができる。民俗学者で歴史学者である鳥越憲三郎氏は、その著書で「農耕民族にとって農耕神は至高のもので、農耕神は祖先神ともみられていた。日本でも農耕神を祖先神とみる習俗がみられるが、彼の地の各山岳民族も共通して認められる。」・・・として、アカ族(中国で哈尼族と呼ぶ)を事例に記されている。また、文化人類学者・岩田慶治氏は、我が国の上古では「無数の精霊がとびかっていたが、やがてその精霊や多くの神々が習合し、稲魂はすなわち田ノ神(土地神)であり、これがまた祖霊(祖先神)になったのが通説である。」と、記されている。
これらのことは、東南アジア北部の山岳民族の習俗にみることができる。それはアカ族の陸稲の播種儀礼である。現在では焼畑は禁止されているが、1990年代前半までは行われていた。雨季の5月に入ると焼畑に設けた稲の精霊が鎮まる祠の傍らで、三つ三列の穴(合計九つの穴)に籾を播く。本来は聖数の三つの穴に播いたものと思われると鳥越憲三郎氏は推測しておられるようだ。雲南省景洪の周辺では哈尼族(アカ族)は焼畑の祠のところで、村長が三つの穴に数粒ずつ陸稲の籾を播く。さらに水稲の場合は、水田の中に建つ祠のところで、村長が三把の苗を植えると云う。これは日本の田植え儀礼と同じで、苗三把を田の水口に植え田ノ神に供えるのと同じである。
(北広島でサンバイと呼ぶ代掻きに用いるエブリを逆さにたて、その上に三把の稲苗を載せ、田ノ神に供え豊作を祈願する。近畿では苗三把を水口に植える風習が20年前まで見られたと云う 北広島町hpより)
収穫にあたって哈尼族は、播種の時の祠のところで、最初に播いた三把の稲穂を中心に摘んで帰り、それを祖霊信の鎮まる家の柱に供える。そして残りの米を搗いてご飯にして食べる。それは神との供食を意味する。
まさしくこれは何だ。日本の収穫儀礼と同じである。日本では初め数束の稲を刈り取って田の一隅に掛けたり、家に持ち帰って祀ってから、稲刈りにとりかかる穂掛け儀礼があり、続いて収穫後には刈上げの祭りをするが、祭祀の対象はいずれも田ノ神である。
(田ノ神 北広島町HPより)
この収穫儀礼を皇室の事例で例えるなら、大嘗祭・新嘗祭と云うことになる。最近知った事例であるが、熱田神宮の新嘗祭を抜穂祭(ぬいぼさい)と呼ぶようだ。その祭壇には刈り取られた稲束一束と根付の稲束二束が供えられている。合わせて三束である。この『三束、三把』は雲南・哈尼(アカ)族と同じである。
(熱田神宮摂社氷上姉子神社の大高祭田抜穂祭り 根付の穂束が2束、祭壇に1束、合計3束)
この一連の稲作儀礼の本貫は、揚子江中・下流域であろう。中国・河姆渡遺跡では、前述のような一連の儀礼が行われていたかと思われる。そのような古式の風習は、漢族をとりまく周辺民族に残ったものであろう。河姆渡でそのような儀礼が行われていたであろう残滓が残っている。それは象牙製の「双鳥朝陽」と呼ばれる彫り物の出土である。
(河姆渡遺跡出土双鳥朝陽象牙製品:二羽の鳥と太陽が彫り込まれている)
太陽は稲作に不可欠であり、鳥は先述の役目を為す。『人民中国』によれば、今も呉越地方に鳥崇拝のいろんな習俗が数え切れないほど残っていると云う。河姆渡は、漢族とは異なる民族であろう。古来漢族は黄河以北で、稲作ではなく麦作や稗粟であったかと思われる。漢族の手によるものかどうか、やや心もとないが、大阪市立美術館は青銅製の『羽人』なる像を所蔵している。
(大阪市立美術館HPより)
写真の像が羽人だと云う。それは異様に大きな耳をもち、両手を挙げて跪拝している。神あるいは精霊に祈りをささげているであろうか。
(文化遺産オンラインより)
もう一点、広島県立美術館は羽人塼拓本を蔵している。見ると鳥の姿で頭部は人頭である。これらは何れも漢時代のものであり、華北か華南かは別として、大陸にも鳥を重視した儀礼が行われていたと思われ、それは稲作儀礼に結びつくかと思われる。
最後に二言。一つは、先に農耕民族にとって農耕神至高で、祖先神とされると記した。我が国では農耕神は古来より御食津神(みけつかみ)と呼ぶ、出雲国造本来の奉斎社は松江・熊野神社で祭神を加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と呼ぶ。
(熊野大社の祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命)
二つ目は、語呂合わせで恐縮であるが、タイ語系諸族(タイ族、ラオ族、シャン族等々)は精霊をピーと呼ぶ。ラフ族とリス族は共にニーと云い、アカ族はネーと呼び、ラワ族とカレン族はピと呼ぶ。人数から云えば圧倒的にタイ語系諸族が多い。これに対し日本の神々の神名は、神産巣日神(かみむすひ)・饒速日命(にぎはやひ)・高御神産巣日神(たかみむすひ)等々『日(ヒ)』と呼ぶ。倭人の本貫は揚子江下流域であろうが、中国深南部や東南アジア各地の諸民族の本貫も揚子江中流から下流域であり、漢族をとりまく諸民族は、神々や精霊を『ヒ』・『ピ』・『ピー』と呼んでいたものと思われる。
最後は蛇足になってしまったが、“稲作と鳥”について以上のように考えている。
追)
更なる蛇足をまたまた2件ほど記してみたい。1件目は、稲作儀礼における『血の儀礼』である。先ず日本から。『播磨国風土記』によると、生きた鹿の腹を裂いて、そこに稲籾を蒔いたところ一晩で苗になったとの伝承が記されている。鹿は稲を生長させる特別な霊力もっていると考えられたようである。この伝承から考えられることは、古代の稲作では、鳥装のシャーマンにより、鹿の血に稲籾をひたした後に田植えをおこなっていたであろう。
(播磨国風土記の赤線部分に注目願いたい)
これと同じような事例がある。北タイのラワ族(ルア族とも、雲南では佤(ワ)と呼ぶ)は、1990年代前半までは山岳地で焼畑による陸稲栽培を行っていた。籾蒔きにあたり、焼畑の傍らに祠をたて、供物を供えて豊作を祈願すると同時に、鶏の血を祠に塗りつけたという(残念ながら現場を見ていない。山岳民族の風習を記した書籍の受け売りである)。このような儀礼の本源もまた長江中・下流域にあったものと想像している。
(写真はラワ族ではなく、アカ族の柱上祠である。このような祠を焼畑の傍らにたて、血の儀礼を行って籾蒔きをおこなった)
2件目である。安田喜憲氏によると、中国・城頭山遺跡から出土する木材片や炭片を分析すると、ほとんどが楓の木であった。他の樹種も検出されたが、それらは僅かであった。楓の木を民族の生命樹として崇拝し、自らを楓の木の子孫であるとの神話をもつのが苗族(モン・Hmong)である。苗族は集落の中心に楓の木で作った、天辺に鳥の肖形がとまる蘆笙柱(ろしょうちゅう)をたて、楓の木で作った木鼓で、祭りの日には鳥の羽で着飾った衣装を着て踊る。
(苗族の蘆笙柱 柱の上に鳥をみる 出典・人民日報)
城頭山遺跡から出土した人骨を計測した結果、すべて160cm以下の身長で小柄であった。当該遺跡の住人は、苗族を含め雲南に居住する非漢民族の山岳民族(いずれも身長が低い。友人であるモン族のC氏もその事例に漏れていない)の可能性が高いと指摘されている。
韓国の長柱(チャンスン)は、既に写真で示した。御覧のように男女二柱の像で、鳥(ソッテ・鳥竿)の下に佇んでいる。集落の出入口に設けられ結界とされた。同様な習俗は北タイでも見ることができる。アカ族の場合を事例に記すと、ロッコンと呼ぶ鳥居状の門が集落の出入口に設けられている。その門の笠木(横木)に幾つかの鳥の肖形が並ぶ。そのロッコンの根元には、男女交合像が立っている。当然ながら、そこは結界を示している。悪霊が集落に入らないようにとの目的である。
その男女交合像は、東近江でも見ることが出来る。それは山ノ神とも呼ばれるオッタイ・メッタイである。下の写真は東近江・上砥山のオッタイ・メッタイである。残念ながらこれも現認出来ていないが、オッタイ・メッタイの山ノ神は、同じ東近江の梵釈寺裏で見た。
(栗東市歴史民俗博物館展示の山ノ神(オッタイ・メッタイ))
(東近江・梵釈寺裏の山ノ神)
このオッタイ・メッタイは何時の時代まで遡ることが可能であろうか、残念ながら史料を渉猟していないので、明らかなことは記載できないが、同じ東近江の弥生遺跡から男女の木偶が出土する。
(木偶 滋賀湯ノ部遺跡)
想像を逞しくすれば、古代に於いてアカ族や韓国の事例のように、男女の木偶は鳥の肖形と共に並び、集落の出入口にたって結界の役目を負っていたものと思われる。
以上、述べてきたことどもは、中国南部や東南アジア北部を含む東アジアのグローバルスタンダードであり、日本列島の古代はその影響をうけていたであろうと考えている。最後に記事が支離滅裂になった点、御了解願いたい。
注)
①古雛加(こうすか):王族や準王族の嫡統大人の称号
②『周書』:唐の太宗(在位:626-649年)の勅命により撰した西魏、北周の正史
③『北史』:北朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周)の正史 659年成立
参考文献
- 魏志東夷伝高句麗条
- 魏志東夷伝馬韓条
- 魏志東夷伝倭人条
- 倭族から日本人へ・鳥越憲三郎著
- 古代中国と倭族・鳥越憲三郎
- 日本文化のふるさと・岩田慶治著
- 稲作漁撈文明・安田喜憲著
- 播磨国風土記
- 稲と鳥と太陽の道・荻原秀三郎著
- 『高句麗の歴史と遺跡』・田中俊明著
<了>
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