3カ月振りの京都だが、太秦広隆寺は云十年振りに遣って来た。目的は弥勒菩薩半跏思惟像を見たいがためである。
半跏思惟像は、釈迦(シッダルータ)の成道前の姿で、思い悩んでいる姿を写したものと云われている。これについて、広隆寺のパンフレットは、『一切衆生をいかにして救おうかと考えている』姿を表している・・・と記載されている。
パンフレットには広隆寺の沿革として、以下のように記している。“推古天皇十一年(603)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七寺の一つである。広隆寺の成立について、日本書紀によると秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それを本尊として建立したとあり、その本尊が現存する弥勒菩薩であることが、広隆寺資財交替実録帳をみると明らかである。”
(弥勒菩薩半跏思惟像が安置されている霊宝殿)
(絵葉書より)
このように秦河勝が建立した寺院で、秦氏は3世紀ころに秦國から百済を経由して帰化した、渡来の氏族であると考えられる。従って半跏思惟像は百済仏の影響と考えられ、椅子に座す弥勒菩薩半跏思惟像は、朝鮮半島で誕生したと考えられている。椅子は北方騎馬遊牧民が用いていたもので、騎馬民族の慣習が何某かの影響を与えていたと考えられる。
<了>
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