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倭国の稲作風景:大阪府立弥生文化博物館

2019-06-17 09:45:16 | 古代と中世

弥生時代の稲作、春の田植えと秋の収穫の様子を想定再現したジオラマ展示がある。

博物館の北に隣接する池上曽根遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析では、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていたことが判明していると云う。

『米作りの伝播』なるパネルには山東半島の付け根から東シナ海を朝鮮半島南部に渡海し、そこから九州に伝播したルートと、江南から九州に直接渡海したルートが記載されている。妥当なルート図であろう。其の中に南西諸島経由で伝播した熱帯ジャポニカ(陸稲・おかぼ)のルートも記載されている。これも近年の研究から明らかである。それらを背景にしたジオラマであろう。

 

魏志倭人伝には牛馬なしとある。今日縄文・弥生遺跡より牛馬の骨が出土しており、牛馬なしとの記述には違和感もあるが、その牛馬とは野生か家畜であろうか。種々の傍証より、それは家畜で農耕と運搬には用いられなかった・・・との説が一般的なようである。現時点では、牛馬を用いて犂を使った形跡はないようだ。鍬や鋤を使って耕し、水を水路からひいて田植えをしたようにジオラマは作られている。それらに用いる石や鉄製の鍬が展示されている。

左の2点は石を加工した鋤、右は青銅製の鋤の刃先で木製の鋤の先端に嵌めて用いたものである。そう長い時間をおかず鉄製の刃先を嵌めた鋤が登場したかと思われる。

青銅製の鋤に比べ強力で耐久性も高いものであった。但し誰でも持てるものではなく、権力者ないしは村人共同の持ち物であったことが考えられる。

田植えのジオラマは、足の膝下まではまったように作られている。このように水田を開墾・開拓したものもあれば、湖沼の浅瀬を工夫して使ったことも考えられる。それらの水田でつかった田下駄も遺跡から出土しており展示されている。

 

 

大足は、青草やたい肥を埋め込み、更に田植えがしやすいように、田の泥を練る、代(しろ)踏みとして用いられたようである。う~ん。北タイの田植えの光景を彷彿とさせる。日本でも戦後まもないうちはこのような光景であった。

次は収穫の光景を描いたジオラマである。特徴は一列に並び穂先のみ摘み取っている光景である。

 

石包丁で穂先を摘み取る人々は横一列に並んで作業している。更にはその穂先を束ね天秤棒で担いでいる人。掘立て柱住居の前では杵と臼を使って脱穀している様子、高床式倉庫の横では束ねた稲穂の穂先を天日乾燥している様子、更には乾燥後の穂先束を高床式倉庫に担ぎ上げる光景を見ることができる。今日の北タイ少数民族の日常光景そのものだが、いずれ北タイでも目にすることはできなくなるであろう。

 

このジオラマで描かれた、石を加工して作った石包丁や鎌が展示されている。弥生後期には鉄製の鎌まで出現したであろう、その鉄製の鎌が展示されていた。

どうでもよいようだが、弥生時代の食生活がそれなりに気になる。卑弥呼の豪華な食膳を先に紹介したが、倭人伝記載の大人は別として下戸(一般庶民)はそうはいかない。食生活は安定していたのか?

想定復元された竪穴式住居と4人のフィギュアが展示され、それは食事風景である。

 

 

写真が多少ピンボケで恐縮である。二つの高坏に強飯(こわいい)であろうか、それが山盛りにもられている。炉の回りには魚が串刺しにされ燻焼にされている、それを向かって左側の子供が食している。あとは2枚貝が二つの高坏に載っている。果たしてこのような豊かな食生活ができていたのか疑問である。当然のことながら海や河川での漁撈による収穫物も食していたであろうが、展示されている量の強飯が食されていたのか? 多くは麦、稗、粟、蕎麦、大豆、そら豆、瓢箪などの雑穀と先の魚蛤、更には倭人伝記載の“冬夏食生菜”とあるように野菜が食されたと思われる。

倭人伝には邪馬台国は七万余戸可り、と記されている。写真にもあるように一戸四人とすると28万人の国となる。研究者によると遺跡の痕跡を検討すると1戸あたり平均5人との検討結果をはじきだしている。大人2人に子供3人である。そうすれば35万人となる。

成人一人当たりの米の年間消費量は約一石(150kg)とのこと。一戸当たり成人換算で三人平均として、邪馬台国の米の消費量は二十一万石となる。江戸時代の中大名の石高となる。荒唐無稽とは云わないものの、邪馬台国の位置云々はべつとして、ほぼ不可能と思われる。従って食事の中心は雑穀でハレの日に米を食していたと思われる。博物館展示の食事風景は日常の生活ではないように思われる。

 

<了>

 


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