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ミャンマー陶磁の特徴

2025-01-03 09:00:55 | 東南アジア陶磁

謹賀新年 ご訪問頂いた方々のご多幸を祈念いたします。

新年最初のブログに、東南アジア陶磁について記すことにした、実に久しぶりである。ミャンマー陶磁は特徴豊である。それは、東西交易のなせる技かと思われる。

先ずビルマ族とモン(MON)族の歴史を概観する。ビルマ族は、チベット東方の山岳地帯に居住していたが、中国雲南の南詔王国の時代、雲南からビルマ平原へと南下した。9世紀に南詔王国がピュー族国家を滅亡に追い込むと、ビルマ族はチャウセー周辺の低湿地帯に定住をはじめた。平地を入手した彼らは、農耕を開始し同胞の集団移住により、ビルマ族国家樹立に至る。11世紀初頭、ビルマ族のアノーヤター王(在位:1044-1077年)は、パガン王国を建国した。

パガン遺跡 出典・グーグルアース

アノーヤター王 出典:Wiki Pedia

パガン王国時代の焼物に緑釉の塼がある。その緑釉塼は、寺院や仏塔の基壇に用いられている。

ダマヤッズイカパゴダの緑釉塼 出典・グーグルアース

建国の英雄アノーヤター王は、下ビルマのモン族国家であるタトーン王国を占領した。下ビルマのモン族は、以来200年以上に渡りパガン王国が滅亡に至るまで、独立の機会は得られなかった。

しかしモン族は再び息を吹き返す。1283年にワレル王(在位:1287-1296年)は自立した。その後、白象王と称された第8代ビンニャウー(在位:1353-1385年)の時、王都をペグーに移しハンサワディー・ペグー朝と命名した。

ペグー復元王宮 出典・グーグルアース

ペグー朝に至り、パガン王国時代の緑釉塼は、錫鉛釉塼(14-15世紀)として引続き焼成された、錫鉛釉塼と云えば、錫鉛釉緑彩陶が頭に浮かぶ。白濁した錫鉛釉は器にどっぷりと掛り、東南アジア陶磁には例を見ない唯一のモノである。銅呈色の緑釉は釉上彩で、筆彩ではなく、袋状のスポイドのようなものから絞り出して描いた筒描きと思われる。このような特異な彩色技法にとどまらず、描かれた文様も東方中国の影響よりも、西方ペルシャの影響をみることができる。錫鉛釉そのものがペルシャで多用されたものである。

緑釉塼 敢木丁コレクション

ランプーン国立博物館にて

この錫鉛釉緑彩陶と同時代と思われる陶磁が、同じミャンマーのアンダマン海に面するヤカイン(ラカインとも)州に存在する。そのヤカイン州にアラカン王国(1430-1785年)が在った。西方との結びつきが濃厚なアラカン王国時代のコインにはアラビア文字が刻まれており、イスラム諸国との交易の証である。

アラカン王国の都であったミャウウー(Muraku-U)の3地点に窯跡が存在し、そこからコバルト呈色の瑠璃釉陶片が出土した。白釉の上に染付けのような藍彩が施されていた。その文様はペルシャの影響を受けたものと云わざるを得ない。

出典・グーグルアース

出典・ミャンマー陶磁とその周辺について

白釉藍彩壷 敢木丁コレクション

白釉藍彩壷 出典・ヤカイン州立文化博物館

この藍彩も東南アジア唯一のものであるが、それが東南アジア各地に普及せず、中国の元染にはじまる中国青花の独壇場(但し、安南染付は存在するが・・・)となった。安南染付については、ここでは触れない。

この藍彩陶は、ミャンマー陶磁の特徴と云うか独自性を示す格好の焼物である。その独自性は、西方交易の賜物で、アラカンはペルシャとの交易により、藍彩原料であるコバルトを入手することができた。しかしタイ等々の諸窯に及ばなかったのは、コバルトが高価であったことによるものと思われる。

アラカン陶磁には、他に緑彩陶が存在していたようである。ヤカイン文化博物館やミャウウー考古博物館には、それらしい陶片や陶磁器が保管されている。錫鉛釉は、その技術がアラカンから下ビルマのモンに伝わった可能性が考えられる。中東→アラカン→モンという低火度釉陶技術の流れを感じずにはいられない。

時代は下り、16世紀のエイヤワディー(イラワジ)デルタでヤンゴンに近い、パヤジーに窯跡が存在していた。津田武徳氏の発掘調査報告によるとトルコ青とか、孔雀釉とも呼ぶ青緑色の低火度釉陶片が出土したとのことである。同時に明青花盤も窯址から出土している。まさに東西交易の証である。

孔雀緑釉陶片 出典・ミャンマー陶磁とその周辺について

この孔雀緑釉は、他の東南アジア諸国には存在しておらず、パヤジー窯址から出土したモノが唯一である。まさに西方ペルシャの影響そのものであろう。

一方、東方の影響もみることができる。それはミャンマー青磁にみる安南青磁との近似性である。過去、写真の東博が所蔵する青磁盤は、安南青磁とされていたが、近年ミャンマー青磁と鑑定された。当該ミャンマー青磁がベトナムの青磁に紛れ込むほど似ていることになる。13世紀の安南青磁の影響を受けて誕生したとの仮説は、時期的な難点をもっているものの、安南→北タイやスコータイ→ペグーへと製法が陸路伝搬したと考えられなくもない。

東京国立博物館所蔵 ミャンマー青磁盤

その中継地であるランナー王国は、初代・メンライ王の治世下、ミャンマーのハムサワディー・ペグー王国へ遠征している。蒙古の南下の脅威にさらされていたペグー王国は、いたずらにランナー王国と争うことを避け、メンライ王と友好関係を結んだ。チェンマイ年代記によれば、その証としてペグー国王の娘をメンライ王妃にしたと記されている。

この時にペグーから各種の技能を持つ職人が遣ってきた。その影響かと思われる陶磁器が存在する。それは北タイ・パーンとミャンマーの陶磁器にみることができる。パーンの青磁には、鍔縁の盤の見込みに、花弁が放射状に開いた線刻文をもつものがあり、パヤジー遺物の一部がこれと似た雰囲気をもっている。ただしデザインが似ていると云って、系統上の関係があるとは断言できない。

パーン窯青磁盤 出典・東南アジアの古陶磁

ミャンマー青磁 出典・東南アジアの古陶磁

双方共に横焔式地上窯で、パヤジーの轆轤回転は左回転だが、パーンでは右回転と左回転が混ざっている。基礎技術で共通する部分が存在し、棒状の焼台も共通していることがその裏付けである。

このようにミャンマー陶磁は、東西交流の特徴をもつ焼物であつた。今、最も数多く見たい焼物であるが、その機会は訪れそうにもない。

 

参考文献

 東南アジアの古陶磁9 富山市佐藤記念美術館刊 

 ミャンマー陶磁とその周辺 津田武徳 東南アジアの古陶磁9所収

 東南アジアの古美術 関千里 めこん社

 The chiangmai chronicle (チェンマイ年代記) David K

   Ceramics from the Thai-Burma Border Sumitr Pitiphat

<了>

 



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